神辺平野の館城、岩崎(石崎)城跡(福山市駅家町中島)

岩崎(石崎)城址

岩崎城と石崎信実

古い記録を眺めるのは面白いものだ。わずか数行の文章から色んな仮説、考えが頭に浮かんでくる。

例えば、前回紹介した「泉山城」である。紙面の都合で割愛したが、『備後古城記』品治郡雨木村泉山城の項、城主宮常陸介元清(信清)のところに、

天文年中、敵中島村石崎信実、屋敷に陣取、次第に近寄り、城山の向かい、雨木村助元村境の山に陣をひく、大合戦、宮氏討死、家臣田上・江草・甲斐其の他の家人、武器は井の内に投入れ、城焼払ふと云う

という、短い一文がある。

諸種の古城記の異本にも大同小異の記述があり、古くからの伝承であろう。敵中島村石崎信実というのは、同じ古城記をひも解くと、品治郡中島村、今の駅家町中島の「土居」城主として「岡崎三郎延実」、同じく「石崎」城主として「石崎小四郎義清」の名が書き上げられており、中島村の在地領主と考えていいだろう。

この短い記録が古くからの伝承と考えられるのは、内容が現地を知らなければ書けないものだからだ。「屋敷」と言う地名や、「城山の向かい雨木村助元村境の山」に陣を敷くというのも、現地に行けば、「なるほど」と納得できる。「大合戦」とあるように、泉山城の落城は、人々の記憶に長く残るような地域の重大事件であった。

だが、この合戦を記録した当時の史料(1次史料)はない。『備後古城記』はあくまでも後世の記録で、「参考資料」にしか過ぎない。ここからが、歴史家の腕の見せ所だ。

江戸時代後期の郷土史家は、この合戦を天文3年(1534)の「備後宮城合戦」と結びつけた。『西備名区』の品治郡泉山城のところには、宮常陸介は宮下野入道の親類として同城に篭城し、毛利勢の攻撃を受け、真っ先に落城したと記し、毛利勢の手引きをしたのが石崎信実であると述べている。

なるほど、天文3年の「宮城合戦」が事実とすれば、この解釈も悪くはない。しかし、現在、この天文3年の宮城合戦は、はなはだ疑わしい合戦で、机上で創作された可能性すら指摘されている。私も当時の芸備地方の情勢で、毛利元就が品治郡新市(現福山市)の亀寿山城の宮氏を攻撃するなどありえないと思っている。

では、この合戦は「幻」であろうか。私は、そうではなく、歴史上の「事実」を反映したものだと思っている。合戦を泉山城、石崎城(或いは土居城)の城主間の争い、と捉えることも可能だ。

天文年間と言えば、戦国時代の大きな変わり目で、中国地方では尼子・毛利が戦国大名として頭角を現した時代だが、国人同士の城の取り合いもありふれた時代だ。宮・石崎(岡崎)という国人間に合戦があったとして不思議ではない。

宮氏のことは、備後を代表する国人として知られているが、石崎(岡崎)氏に関しては、記録もなく、研究の蓄積もない。勝者が「幻」ならば、合戦も架空の物語ではないか…。こう考えるのも、また自然である。

泉山城を攻め落としたと伝える石崎信実の居城「岩崎(石崎)城」の跡は、泉山から約5キロ南の、服部谷の出口付近に残っている。

服部大池の西側の丘陵が神辺平野に突き出した、突端に築かれたもので、山城というよりは「土居」である。『備後古城記』の云う「土居」と、この岩崎城は同じ城かもしれない。一部が神社の境内となった城跡は相当な規模だ。

この幻の国人「石崎(岡崎)氏」の研究もこれからである。

(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)

【岩崎城】

 

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/34e9626f457b5af0e7ae320706b4ca6d-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/34e9626f457b5af0e7ae320706b4ca6d-150x100.jpg管理人中世史山城岩崎城と石崎信実 古い記録を眺めるのは面白いものだ。わずか数行の文章から色んな仮説、考えが頭に浮かんでくる。 例えば、前回紹介した「泉山城」である。紙面の都合で割愛したが、『備後古城記』品治郡雨木村泉山城の項、城主宮常陸介元清(信清)のところに、 天文年中、敵中島村石崎信実、屋敷に陣取、次第に近寄り、城山の向かい、雨木村助元村境の山に陣をひく、大合戦、宮氏討死、家臣田上・江草・甲斐其の他の家人、武器は井の内に投入れ、城焼払ふと云う という、短い一文がある。 諸種の古城記の異本にも大同小異の記述があり、古くからの伝承であろう。敵中島村石崎信実というのは、同じ古城記をひも解くと、品治郡中島村、今の駅家町中島の「土居」城主として「岡崎三郎延実」、同じく「石崎」城主として「石崎小四郎義清」の名が書き上げられており、中島村の在地領主と考えていいだろう。 この短い記録が古くからの伝承と考えられるのは、内容が現地を知らなければ書けないものだからだ。「屋敷」と言う地名や、「城山の向かい雨木村助元村境の山」に陣を敷くというのも、現地に行けば、「なるほど」と納得できる。「大合戦」とあるように、泉山城の落城は、人々の記憶に長く残るような地域の重大事件であった。 だが、この合戦を記録した当時の史料(1次史料)はない。『備後古城記』はあくまでも後世の記録で、「参考資料」にしか過ぎない。ここからが、歴史家の腕の見せ所だ。 江戸時代後期の郷土史家は、この合戦を天文3年(1534)の「備後宮城合戦」と結びつけた。『西備名区』の品治郡泉山城のところには、宮常陸介は宮下野入道の親類として同城に篭城し、毛利勢の攻撃を受け、真っ先に落城したと記し、毛利勢の手引きをしたのが石崎信実であると述べている。 なるほど、天文3年の「宮城合戦」が事実とすれば、この解釈も悪くはない。しかし、現在、この天文3年の宮城合戦は、はなはだ疑わしい合戦で、机上で創作された可能性すら指摘されている。私も当時の芸備地方の情勢で、毛利元就が品治郡新市(現福山市)の亀寿山城の宮氏を攻撃するなどありえないと思っている。 では、この合戦は「幻」であろうか。私は、そうではなく、歴史上の「事実」を反映したものだと思っている。合戦を泉山城、石崎城(或いは土居城)の城主間の争い、と捉えることも可能だ。 天文年間と言えば、戦国時代の大きな変わり目で、中国地方では尼子・毛利が戦国大名として頭角を現した時代だが、国人同士の城の取り合いもありふれた時代だ。宮・石崎(岡崎)という国人間に合戦があったとして不思議ではない。 宮氏のことは、備後を代表する国人として知られているが、石崎(岡崎)氏に関しては、記録もなく、研究の蓄積もない。勝者が「幻」ならば、合戦も架空の物語ではないか…。こう考えるのも、また自然である。 泉山城を攻め落としたと伝える石崎信実の居城「岩崎(石崎)城」の跡は、泉山から約5キロ南の、服部谷の出口付近に残っている。 服部大池の西側の丘陵が神辺平野に突き出した、突端に築かれたもので、山城というよりは「土居」である。『備後古城記』の云う「土居」と、この岩崎城は同じ城かもしれない。一部が神社の境内となった城跡は相当な規模だ。 この幻の国人「石崎(岡崎)氏」の研究もこれからである。 (田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より) 【岩崎城】  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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