2011年08月30日

典型的な土居城、山南丸山城址(桑田氏の居城・福山市沼隈町山南)

丸山城跡

山南丸山城と桑田氏

戦国時代の末期から近代にかけて、山南(福山市沼隈町)の桑田一族は地域に大きな影響力を持ち、多彩な人物を輩出した。

横尾の「山南屋」と言えば、戦前「桑田銀行」を持ち、讃岐電鉄の大株主として知られていたが、この山南屋桑田氏もまた、この地の出身だ。近世から近代にかけて大きな力を持っていただけに、桑田家の由緒はきらびやかなものだ。

各書に掲載された桑田氏の系図によると、桑田氏は豊後の戦国大名大友氏の一族で、丹波国桑田・何鹿両郡を領したために「桑田」を苗字としたという。その後、桑田将能の代に、丹波の戦国大名波多野氏と戦って敗れ、備後国沼隈郡に落ち延び、前回紹介した森脇山城の箱田氏を討って、城名も丹波の郡名にちなんで「何鹿城」と改め、土地の豪族となった。天文年間(十六世紀中葉)のことと言う。

しかし、その実像は不明の点が多い。桑田氏がこの山南に来たと言う天文年間(1532~55)、山南一帯の領主は桑田氏ではなく、渋川氏であったことが史料上明らかなのだ。しかも、桑田氏が渋川氏の被官であったことも史料から確認される。すなわち、広島県史に収録された「桑田家文書」によると、天文一六年(1547)一一月、渋川義正は、桑田藤三に「山南之郷田中新次郎給地」を、翌年八月には、桑田寅千代に山南郷の内「五百疋」の地をそれぞれ「給地」として与えている。

この「桑田家文書」を見る限り、山南の領主は渋川氏であって、桑田氏ではない。渋川義正宛行状には「反銭夫銭之事其外諸役等、先例を守り相勤むべき者也」とあって、桑田氏は反銭や夫銭を渋川氏に納め、同氏に「奉公」する立場にあった。

それでは、桑田氏の伝承は全くの誤りであったのかというと、そうとは言い切れない面もある。実際、戦国末期から近世初頭にかけて、在地で大きな勢力を持っていたことは、他の記録で確認できる。では、渋川氏から桑田氏への権力の交代は如何に行われたのか…。

各地で見られたように、桑田氏は「下克上」によって地域の支配者になったのだろうか。実は、この交代劇は、「渋川氏の断絶」という偶然の出来事が大きな契機となっていた。

渋川氏は義正の後、子の義満(陸景ともいう)が継いだが、天正元年(1573)、義満が没すると、実子がなかったため自然に絶家となってしまった。「桑田家文書」に小早川隆景の書状が何点かあるのを見ると、渋川氏の所領は姻戚(義正は小早川氏の出身)の小早川氏の領地となり、桑田氏が「代官」として実際の支配にあたったのだろう。

桑田氏が居城したという「丸山城」はこのことをよく示している。福山方面から沼隈に向かうと山南農協辺りで、右手に低い丘の上に大きな「石碑」が建っているのが目に付く、これが丸山城跡だ。

現地に行ってみると、浄土宗悟真寺門前の東に張り出した小山で、比高20メートル余り、山上は三段に削平されて、ここが確かに中世の城館跡であることがわかる。巨大な石碑は桑田氏の後裔が建てた城跡碑である。城跡に立つと、この城が正に在地を支配した荘園の「政所」にふさわしい規模と立地を持っていることがわかる。

中世山南を支配した領主、北条氏・渋川氏・小早川氏はこの地に代官を置いて一帯を支配した。そして、その最後の代官こそ桑田氏であったに違いない。

【山南丸山城址】