2011年10月27日

桜山城と桜山四郎入道(桜山氏は宮氏の一族か?)

福山市内の城跡で、国の史跡に指定された城跡が、今話題の「福山城跡」以外にもう一つある。それが新市町宮内の「桜山城跡」だ。史跡としての正式名称は「一宮(桜山茲俊挙兵伝説地)」だ。

桜山城跡

桜山城跡

戦前の「皇国史観」華やかりし頃、南北朝時代の武将桜山四郎入道は、郷土のヒーローだった。戦前、彼は南朝の忠臣として「四位」を追贈され、一宮吉備津神社の境内には「桜山神社」が建立され、彼を顕彰することが郷土史家の使命とされた。城跡を含め一宮吉備津神社境内は、先ほど紹介したように彼が挙兵した伝説地として、昭和9年3月13日、国の史跡に指定され、それは今日でも変わっていない。変わったのは、彼に対する歴史上の評価であろう。

「皇国史観」の中で、南朝の忠臣として評価された桜山四郎入道、現在ではその実在さえ疑問視されている。

一つは、桜山氏の実在を証明する一級史料がないことだ。四郎入道が文献に登場するのは、「太平記」巻三の次の2箇所のみである。

(楠正成の挙兵の後)是をこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同(元弘元年9月)月十三日の晩景に、備後国より早馬到来して、桜山四郎入道、同一族等御所方に参て、旗を揚、当国の一宮を城郭として盾籠る間、近国の逆徒等少々馳加て、其の勢既に七百余騎…

桜山自害の事
去程に桜山四郎入道は、備後国半国計り打従へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残ける。(中略)人手に罹りて屍を曝さんよりはとて、当国の一宮に参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人、皆灰燼と成て失にけり…

四郎入道が一宮の社殿に火をかけ自害したのは、翌元弘二年(1332)正月21日と伝わっているから、わずか3ヶ月あまりの出来事だ。

また、史跡名が「一宮(桜山茲俊挙兵伝説地)」とあって、彼の名乗りを「茲俊」とするが、これも怪しい。太平記の諸本の中には、登場する人物にすべて実名を記すものがあって、四郎入道を「茲俊」とするのはこの本だけである。

桜山四郎入道木像

桜山四郎入道木像

さて、歴史の霞の中ではっきりしないことの多い、四郎入道だが、彼の居城とされる「桜山城跡」だけは、はっきり残っている。新しく建設された新市中央中学校から谷を隔てた北に黒々とした丘があり、これが桜山城跡だ。

南の麓に四郎入道の位牌と木像を安置する禅宗の中興寺があって、この寺の東側から登ると五分ほどで山頂の本丸跡に達する。城の遺構は本丸から東西の尾根上に見られ、足元を見ると、中世の「かわらけ」の破片が散らばり、ここに確かに「中世の生活」があったことがわかる。

桜山四郎入道木像裏面

桜山四郎入道木像裏面

一般に、桜山四郎入道は宮氏の一族で桜山に本拠を置いたため、「桜山」を苗字とした、とするが信じてよさそうである。実は、彼の菩提寺とされる中興寺は、宮氏の氏寺でもあって、四郎入道の位牌の他に、宮氏七代の戒名も伝えている。「桜山」氏は、宮氏が後醍醐天皇に味方して挙兵するにあたって、急遽称した「仮の苗字」としたほうがよさそうである。