2014年08月01日

大東宇山城跡測量調査結果(福山市神辺町・井原市高屋町)

備陽史探訪:179号」より

坂本 敏夫

一、はじめに

備陽史探訪の会中世史部会では、平成二五年一一月より二六年三月の期間、「福山市神辺町上御領大東地区と隣県井原市高屋町吉野宇山地区」にかけて存在する中世山城跡と考えられる遺構を、平板とレベルによって測量調査しました。

今回の山城跡調査の発端は、地元「金光教芸備教会の佐藤氏」から、山城跡らしき遺構が存在するので現地を調査してもらえないかとの要望が寄せられ、昨年下見をした結果、たしかに山城跡の遺構が存在する事が判明し、正式に測量調査を行いました。

この山城跡について井原市高屋町吉野地区・福山市神辺町上御領地区ともに、城跡の名称はもとより城に関する伝承等が全く伝えられていないなど、いわば幻の山城跡ともいえる山城跡です。

当会では、城名が不明のままでは支障をきたす事も今後考えられますので、城跡の立地する地名をもとに、岡山県井原市高屋町吉野側の「宇山」広島県福山市神辺町上御領側の「大東」の両地名を冠して「大東宇山城跡」と命名させて頂きました。

「大東宇山城跡」の平板・レベル測量で判明した結果と現時点で考察しうる点について、次のように記述報告いたします。

二、調査対象地と周辺の現況

調査対象地域は全て山地と化しており、その中に二箇所のお宮、一ヶ所の祠跡、が存在します。

今回測量調査範囲として含めなかった調査範囲外にも郭跡とも考えられる平坦地が数ヶ所南部先端部付近に存在します。

測量対象地の周辺は、山地・山畑・墓地・荒畑・竹藪等が測量対象地の周辺を囲んでいる状態です。このような状態の中で注目すべき点は、かつては高屋町吉野地域から西山・どうだこ・上御領張田方面へと続く山道が存在していたとの事です。

この山道の最高部から分かれる小路(現況はあぜ道程度の小道)を進むと山城跡にたどり着きます。この山道最高部から小路への分岐点に御堂が建てられて中に地蔵尊等が祀られています。その中に中世の五輪塔の残欠である結晶石灰岩製(小米石)の「空風輪」が存在し、その空風輪が備中塔の特徴の一つである風輪部の先端長く尖っている形状を示しています。

さらに、御堂横には石塔が数基建てられていますが、その中の一基が注目すべきものでした。それはやや平たい自然石の前面を削平し、宝篋印塔を彫り付けてあることです。彫付けてある宝篋印塔の摩耗状態からと彫り込みの様態から推察して中世期それも中世中前期のものではないかと考えられます。

三、調査対象遺構の範囲と高低

遺構の範囲は、二一七m×一三一mの広がりがあります。

遺構の高低差は、最高所「A―1」郭が一五六・四m、最低所「A―11」郭一三六mであり、高低差は約二十mと判明しました。

(注)対象地の標高・等高線等を求めるために、今回の調査に用いた基本図は、岡山県井原市都市計画課発行の二万五千分の一都市計画図と同じく福山市都市計画課発行二万五千分の一都市計画図の両図を入手致しましたが、県境を境界として両図を合せて見ましたが両都市間で表記が若干異なり、両図を同時に併記して使用する事が困難であり、やむを得ず福山市都市計画課発行二万五千分の一都市計画図の両図を基本として参考にしました。

四、調査対象遺構の特徴

残っている遺構は、郭二一ヶ所と郭に付随する土塁跡二ヶ所、櫓台かと思われる台地二ヶ所、郭跡もしくは山地を、後に畠地として使用したのではないかと考えられる平地二ヶ所、内一ヶ所は、郭跡か廃城後に畠として開発使用されたものかどうかの判断が甚だ困難です。

戦国期の山城跡に多く見られる堀切、竪堀、空堀、石積み等の防御施設が構築されていない事が判明しました。

残存郭の一部には、平地面の周囲に排水路状の溝を構築しており、明かに後世畠地として利用していたと見られる郭跡が存在しました。

郭の残存状態から考察して、主郭と考えられるA―1郭を中心に南方向に延びる陵線を軸とした郭群、A―1郭から西方に延びる陵線軸とその陵線から南西斜面にかけての郭群から城跡遺構が残存しています。

したがって城跡の残存郭群から考察して基本的には、連格式山城遺構と考えます。

調査時の各郭跡状態は、傾斜面に順応する如く緩やかに崩壊しており、一部の郭に於いては、子細に観察を行わなければ郭跡である事すら判断しにくい状態です。

五、調査結果から考察できる事

戦国期の特徴として各山城跡に見られる堀切、竪堀、空堀、石積み等が構築された形跡がない、各郭跡の自然崩壊の状態等から戦国期以前の城跡ではないかと考えられます。

中世期に各地で構築されたと判明している「村の城」とも考えられますが、村の城としては、規模が大きすぎないか、近接地に「村の城跡」(滝山城跡)ではないかと考えられる城跡が存在します。

あえて城跡の築城期を推定すると、かつて私が生まれ育った神辺町道上地域の西の端に「正藤城とも岩崎上下城」とも伝えられる城跡が存在しました。振返り過日を思い起こせば、この「正藤城・岩崎上下城」とも云われる城跡に極めて似通った遺構が見られることです。

一番の特徴は「A―1」郭から「A―8」郭に通じる長くて中心部が低い「A―4」郭を設け、さらに郭を連続的に斜面に配した築城方法です。

また、この地域の近接地には、観応の擾乱期に「正藤城・岩崎上下城」で活躍したと(三吉皷家文書によると)伝えられる足利時代初期の豪族三吉氏の本貫地が存在します。

以上等の事からあえて推定するならば築城期は、観応の擾乱期に築城されたが、三吉皷家文書等に見られない等から、本格的戦乱の地として使用されなかったのではないでしょうか。

しかし、南麓には中世時代の重要交通路であった「旧山陽道」当時は水量豊富な「旧高屋川」等が東西に通じており、後にこれらの権益を確立し、地域経済に長けた小豪族(武家以外も含めて)が、居館又は拠点として使用した可能性は大いに考えられます。

その他、この地域には御領堀館として知られている中世の「居館跡」また、小規模であるが井原市側には「滝山城跡」等が残存し、城跡近接地の御堂横に建てられている石造物なども含めて今後一体的に考察する事により、この山城跡を中心とした地域の中世が明らかにされるものと考えます。

以上極めて雑駁でありますが、測量調査等から判明し、考察しうる事を記しました。

大東宇山城跡測量図