福山の遺跡一〇〇選」より

根岸 尚克

備後国分寺参道
備後国分寺参道

天平一三(七四一)年、聖武天皇は次のように詔した。

全国に高さ一丈六尺の釈迦の仏像一体を造らせた。全国に命じて七重塔一基を造営し、金光明最勝経と妙法蓮華経を書経させよう。そもそも七重塔を建立する寺は、国の華ともいうべきで、必ず好い場所を選べ。人家近く悪臭が及ぶ所、人家遠く参集の人々を労れさせる所は良くない。国司等は国分寺を厳かに飾り清浄を保つ様にせよ。また、国毎に建てる僧寺には、封戸五〇戸水田十町を、尼寺には水田一〇町を施入する。僧寺には僧二〇人、尼寺には尼一〇人を住まわせ、寺の名は金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とせよ。

こうして各国毎に建てられたのが金光明四天王護国寺(国分寺)と法華滅罪之寺(国分尼寺)である。しかし、国によっては財政的理由から新たな造営は行わず、既存寺院を充当したものもあった。そして思うように国分寺建造が進まないので天平一九年「国分寺のうちにはまだ寺地もきまっていない所がある。だから時々天災が起きる」といって僧寺には水田九〇町、尼寺には四〇町ずつ追加し、造営を督励した。

建立されてからも度々災難に遭っている。永禄四(一五六七)年、兵火に罹る。時の神辺城主杉原盛重再建。慶長五(一六〇〇)年、福島正則により寺領没収。延宝元(一六七三)年、寺院の西側を流れる堂々川の洪水により草堂僅か一宇残るばかりとなり、本尊及び一二神像皆漂散してしまった。

延宝七(一六七九)年、時の福山藩主水野勝種候網付山の材を用いて再建。元禄五(一六九二)年、薬師堂建立。その後方丈仁王門を如實上人が建立し、「寺刹の形を成すといえど昔の10分の一にもならず」(福山志料)、現在に至る。本尊は薬師如来で中世以後のものである。正式には唐尾山醫王院国分寺。

昭和四七(一九七二)年から同五一年にかけて発掘調査がされ、金堂跡、塔跡、講堂跡、南大門跡、築地跡等の伽藍配置から、東に塔、西に金堂、その背後に講堂が並ぶ法起寺式の配置である事がわかった。塔、金堂を囲む中門跡、回廊跡は未検出。寺域は東西一八〇m、南北はそれより少し長いかもわからない。また、西面築地跡は堂々川の堤防下となり調査はできない。塔、金堂跡ともに、基壇上の化粧や礎石は失われていた。わずかに版築された基壇土を確認。塔は一辺が一八m、金堂は東西二九・四m、南北二〇mと推定される。講堂跡は版築土と礎石列が検出され、東西三〇mと推定されたが南北はわからなかった。大量の瓦、須恵器、緑釉陶器が出土した。瓦は奈良期から室町時代に亘るものが出土している。更に寺跡の下層には弥生時代の集落跡も埋もれている。御領遺跡と呼ばれる広域にわたる弥生時代集落跡が眠る一帯に含まれている所でもある。

出土瓦の拓影(福山市教育委員会提供)
出土瓦の拓影(福山市教育委員会提供)

南から北に伸びる長い参道には、南大門跡・講堂跡等の石碑が建てられている。参道の両側には昔の建物の礎石であったであろう平らな石が多く見られる。境内の一角の最上段石垣の下に三体の石地蔵と並び、明和一揆の首謀者で処刑された、好右衛門義挙之碑が建っている。また、裏山一帯は国分寺裏山古墳群と呼ばれていて古墳が多い。八十八ヶ所巡りにもなっている。

【備後国分寺跡】