千田村の辻堂(四ツ堂)(福山市千田町)

備陽史探訪:177号」より

根岸 尚克


菅茶山の『福山志料』には千田村に築山堂・大迫堂・辻堂と三ヶ所の四ツ堂が載っている(備陽六郡志には一ヶ所も記述がない)。その場所を訪ねるとそれぞれの経過を経ている事が分かる。

大迫堂

国道182号線千田町の白石交差点近く、弓井歯科横の湯川沿いの緩やかな上り坂を登ると東西に分かれる場所があり、東に少し行った所の山寄せに建っている。よくある一間堂より一廻り小さいお堂である。隣りには荒神堂があり、こちらの方が立派で中央の祭壇の中を見ると踏み出し阿弥陀が祀られている(浄土真宗の本尊に多い。今から民衆を救いに行く第一歩を踏み出そうとする姿を表した像)。全身虫喰いの跡が残るが小さい立派な像である。

ここから西に少し上ると峠の頂上で、道は北に向かう下り坂で、丙池(丙(えど)谷池・丙里池)が見えて来る。この坂を湯坂峠と呼ぶ。池の堤の道を北に進んで池が終る当り、菅茶山が「東上方道 西九州道 南福山道」と書いた道標があった。ここはもう神辺町(江戸時代の川南村)である。この道鏡は菅茶山記念館に在る。尚、湯坂峠は、水野勝成が福山城下を構築した時、西国街道との連絡道として開いた峠道である。神辺方面から福山城下に向かうには、横尾・千田経由では遠回りになる。

辻堂

白石交差点を南進し、二つ目の右に入る角に辻堂跡がある。跡としたのは、辻堂はいつの頃か崩壊して現在は礎石が一個残っているからである。ここには、地元の歴史サークルの建てた説明板があって「西下の辻堂 一間四方 神辺街道沿い寺西下一九〇番地」と書かれている。ここが寺西下と言われるのは、国道の反対側の山中に神宮寺があるからである。

この辻堂跡の横から南に真直に道が続いている。これは江戸時代神辺から、湯坂峠を経て、福山城下に続く街道である。ここを南下すると、丸池に出て、蔵王山に登る自動車道の登り口からJA奈良津支所の横を通り過ぎガード下を北吉津町の旭通リヘと続き、惣門に至る。参勤交代の道でもあった。

築山堂

横尾町の外れ、福塩線鶴が橋踏切の東に少し行った、盈進中高校のある峠山の北端の山裾に在った。ここは神辺から横尾・千田を経て福山城下に向かう道と、東城や神石から、又、山手方面から鶴が橋を渡り福山城下に向かう道との分岐点である。反対に福山からは東、北、西方面に向かう出発点である。江戸時代の鶴が橋は現在ある所より少し上流に掛かっていた。あらゆる方面からの出発点、入口であったわけで、ここに辻堂があった訳がよく分かる。そしてこの当りはミチガシラの字(あざ)が残っている。これは道頭で各方面ヘの分岐点にある字である。さて築山堂であるが、後に寺院に発展している。名称を「大悲山一松院」という。そして十年程前に、都市計画に基き一キロ程離れた場所に移転した。

この寺院の特色は、狭い境内に石造物の多い事である。峠山を巡る八十八カ所の出発地と帰着地になっている。三十三観音巡り(天保八年酉十二月)。六地蔵(文化十二乙亥八月)。徳本(とくごう)塔(文政元年十月六日)。明和七年十月の石塔(これはこの年九月に起った一揆の供養の為であろう)。廻国記念塔(文化元年十月)。因に本尊も聖観世音菩薩立像の石造である。そして「休み堂として四ツ堂を建立、築山堂と称し観音様を奉る 天保十五年十月(改元して弘化)」のこの寺が辻堂から始まった事を示す石碑がある。更に住職の墓も四基あり、明治、昭和二基、不明一基で、全て尼僧のものである。そうであれば年号の刻まれていない一基も恐らく尼僧のもので、幕末位のものではないだろうか。又、峠山の山裾にあった一松院の本堂は、明治以後に建てられた辻堂にいつの頃か僧が住みついて、近くの人達が、葬儀や法事の際、その僧に回向を頼む様になり、次第に寺として体裁を整え発展して行ったのであろう。尚、現在の一松院は無住で、神辺の護国寺住職が兼務して居られる。

【補足】(都合により図は掲載していません)
中国行程記の干田村
◎中央少し左に茶色で「鶴が橋」が描かれる。「長さ二四間 板橋」とある。築山堂は鶴が橋の少し中央寄り、仙田村・横尾村境に在った。高札もあった。
◎中央少し右に、菅茶山筆の「東上方道 西九州道 南福山道」の道標がある。
□「この道福山乃御城下ヨリ一里半福山城ヨリ江戸参勤交代筋ナリ福山迄ノ□ニ湯の坂卜云有リこの先二大迫卜云坂式ケ所有り」と読める。
◎中央に仙田村神辺村村境とある。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/1c4ed3d066071cdcaad26322d39a3875.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/1c4ed3d066071cdcaad26322d39a3875-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:177号」より 根岸 尚克 菅茶山の『福山志料』には千田村に築山堂・大迫堂・辻堂と三ヶ所の四ツ堂が載っている(備陽六郡志には一ヶ所も記述がない)。その場所を訪ねるとそれぞれの経過を経ている事が分かる。 大迫堂 国道182号線千田町の白石交差点近く、弓井歯科横の湯川沿いの緩やかな上り坂を登ると東西に分かれる場所があり、東に少し行った所の山寄せに建っている。よくある一間堂より一廻り小さいお堂である。隣りには荒神堂があり、こちらの方が立派で中央の祭壇の中を見ると踏み出し阿弥陀が祀られている(浄土真宗の本尊に多い。今から民衆を救いに行く第一歩を踏み出そうとする姿を表した像)。全身虫喰いの跡が残るが小さい立派な像である。 ここから西に少し上ると峠の頂上で、道は北に向かう下り坂で、丙池(丙(えど)谷池・丙里池)が見えて来る。この坂を湯坂峠と呼ぶ。池の堤の道を北に進んで池が終る当り、菅茶山が「東上方道 西九州道 南福山道」と書いた道標があった。ここはもう神辺町(江戸時代の川南村)である。この道鏡は菅茶山記念館に在る。尚、湯坂峠は、水野勝成が福山城下を構築した時、西国街道との連絡道として開いた峠道である。神辺方面から福山城下に向かうには、横尾・千田経由では遠回りになる。 辻堂 白石交差点を南進し、二つ目の右に入る角に辻堂跡がある。跡としたのは、辻堂はいつの頃か崩壊して現在は礎石が一個残っているからである。ここには、地元の歴史サークルの建てた説明板があって「西下の辻堂 一間四方 神辺街道沿い寺西下一九〇番地」と書かれている。ここが寺西下と言われるのは、国道の反対側の山中に神宮寺があるからである。 この辻堂跡の横から南に真直に道が続いている。これは江戸時代神辺から、湯坂峠を経て、福山城下に続く街道である。ここを南下すると、丸池に出て、蔵王山に登る自動車道の登り口からJA奈良津支所の横を通り過ぎガード下を北吉津町の旭通リヘと続き、惣門に至る。参勤交代の道でもあった。 築山堂 横尾町の外れ、福塩線鶴が橋踏切の東に少し行った、盈進中高校のある峠山の北端の山裾に在った。ここは神辺から横尾・千田を経て福山城下に向かう道と、東城や神石から、又、山手方面から鶴が橋を渡り福山城下に向かう道との分岐点である。反対に福山からは東、北、西方面に向かう出発点である。江戸時代の鶴が橋は現在ある所より少し上流に掛かっていた。あらゆる方面からの出発点、入口であったわけで、ここに辻堂があった訳がよく分かる。そしてこの当りはミチガシラの字(あざ)が残っている。これは道頭で各方面ヘの分岐点にある字である。さて築山堂であるが、後に寺院に発展している。名称を「大悲山一松院」という。そして十年程前に、都市計画に基き一キロ程離れた場所に移転した。 この寺院の特色は、狭い境内に石造物の多い事である。峠山を巡る八十八カ所の出発地と帰着地になっている。三十三観音巡り(天保八年酉十二月)。六地蔵(文化十二乙亥八月)。徳本(とくごう)塔(文政元年十月六日)。明和七年十月の石塔(これはこの年九月に起った一揆の供養の為であろう)。廻国記念塔(文化元年十月)。因に本尊も聖観世音菩薩立像の石造である。そして「休み堂として四ツ堂を建立、築山堂と称し観音様を奉る 天保十五年十月(改元して弘化)」のこの寺が辻堂から始まった事を示す石碑がある。更に住職の墓も四基あり、明治、昭和二基、不明一基で、全て尼僧のものである。そうであれば年号の刻まれていない一基も恐らく尼僧のもので、幕末位のものではないだろうか。又、峠山の山裾にあった一松院の本堂は、明治以後に建てられた辻堂にいつの頃か僧が住みついて、近くの人達が、葬儀や法事の際、その僧に回向を頼む様になり、次第に寺として体裁を整え発展して行ったのであろう。尚、現在の一松院は無住で、神辺の護国寺住職が兼務して居られる。 【補足】(都合により図は掲載していません) 中国行程記の干田村 ◎中央少し左に茶色で「鶴が橋」が描かれる。「長さ二四間 板橋」とある。築山堂は鶴が橋の少し中央寄り、仙田村・横尾村境に在った。高札もあった。 ◎中央少し右に、菅茶山筆の「東上方道 西九州道 南福山道」の道標がある。 □「この道福山乃御城下ヨリ一里半福山城ヨリ江戸参勤交代筋ナリ福山迄ノ□ニ湯の坂卜云有リこの先二大迫卜云坂式ケ所有り」と読める。 ◎中央に仙田村神辺村村境とある。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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