芋原「大すき」探索(古代山城茨城か宮氏の中世山城か)

備陽史探訪:60号」より

小島 袈裟春

芋原の大すき

はじめに

『備陽史探訪』第四二号に、芋原の「大すき」について現地に御住いのI氏と云う方の論文が掲載されて居て、『続日本紀』の養老三年(七一九)の項に記されて居る「備後国……茨城を停む」の茨城に比定出来るのではなかろうか、とあった。

私はそれ以来忘れた事はなかったのであるが、何せ、現地不案内で今まで見学の機会がなかったのである。

今回計らずも、当のI氏の御案内で探索が出来るとあらば、少々の体の不調など構って居れないのであった。

集合場所の龍田神社の前に、顔見知りのT氏が先着して居たので早速聞いて見た。

私「古代山城と云う説がある様ですがどんな構造でしょうか」

T氏「私も大分以前に一度見学しただけで良く分らないが、まぁ一種の堀の様なものですね。それに村の人達の間には昔巨人が住んで居て、村の廻りに溝を堀り、投げ捨てた土が神辺平野に点在する小山になったと云う、伝説があるそうですよ」

私「あゝそれは良い話ですね。私はそう云う話が好きだし、参考になります。その御話丈でも来た甲斐があります」

・・・この伝説によって少なく共現住の方々の遥か御先祖まで、堀の造成に係わった形跡のない事が分かったのであった。

さて「大すき」は龍田神社の南、二百米程の山裾から始って居た。山の陵線に添った形で続いて居る。陵線の南は畑、北は雑木林、陵線から北側に四~五米下って、幅二~三米程、堀土を北に一~一・五米程盛上げた形跡がある。それが東方向に百米程上って、四一二米の芋原の最高点に達する。頂上はかなり広く、平担な雑木林で、南端からの眺望は絶好であった。福山の海まで一望である。蔵王山など先の伝説の如く、本当に一掬いの土塊に見えた。北端には水道用の地下タンクとポンプ場が建設されて居て、工事で「大すき」の一部が攪乱されても居た。

思うにこの場所は城で云えば本丸に相当し、望楼を造れば村落内は勿論、三百六十度の警戒が出来る位置である。「大すき」は又陵線を東に下がり、バス道と小路の三叉路を越え、東向いの山陵に現われる。この様に「大すき」は、三つのピーク、二つの谷を越えて断続し、更に南に廻り込んで、芋原集落の大部分、約六十戸の人家と耕地を、東西約千米、南北約五百米の長円形で囲って居るとの事であった。無論この範囲は旧北山村の最良地であって『西備名区』に、五百二十余石と記す村高の半数以上を占める地域でもある。

さて、この「大すき」は何時、何の為に、誰によって造られたのであろうか。私なりに考察して見ようと思う(大きくは二説ある)。

一、茨城と考える。

前述の如く「続日本記」養老三年の項の比定であって「いばら、又はうまら」と「いもはら」との音韻の近似性を云うのであるが、何等かの遺跡が判然と存在するのは芋原のみで、他の候補地、福山蔵王山、岡山県井原市等は何もないのである。

又芋原「大すき」は環濠の一種であって、この付近では神辺の亀山遺跡の環濠に近似して居り、それが高地化して防御力を高めたもの、との見方も出来る。この場合は弥生時代との連続も考えられ、更に『日本書紀』の安閑紀の項、備後国……多禰屯倉(みやけ)に擬せられて居る「種(たね)」の地名も芋原の西北に近く存在し、又芋原の東に「小仁吾」の地名もある。事務局長の七森氏によれば「仁吾」は古代軍団に関係する、との説があるらしい。

この様な状況証拠をふまえて、七世紀頃の「茨城」は何を守る為か、と考えると、それはもう、加茂谷から神辺にかけての古墳、即ち初期・中期・後期に渉る群集墳の主達を、であろう。それは又同時に、その頃の国庁が神辺か府中か、と云う問題ともからみ合うのである。

尚「仁吾」と云う地名は備中、備後に比較的多い様である。

二、中世山城跡と考える。

天文二十年(一五五一)志川滝山城に宮氏一統が結集して、毛利軍と最後の決戦をした時の山城跡との説がある(『西備名区』)。

その十七年前の天文三年、宮氏の本拠地新市の亀寿山城が、毛利氏を中心とする大内軍に破れて降伏した時幼い当主、宮元範は叔父の志川滝山城主、宮兼光に預けられ、芋原を住居とした(『山野村語談記』世良戸城氏著)。又、同氏によれば、毛利氏に反旗を翻えした天文二十年、元範が本陣を構えたのも芋原であったという。

西の支えは志川滝山城、東の支えは上野城(芋原の東)ともあって、これは納得の出来る陣形でもある。

一般に云われる如く志川滝山城のみでは、何共心もとないが、前記の陣形であれば充分な勝算を持った決戦だったと思える。時間はあったのである。地形を充分に研究した事であろう。溺手の守りに堀切りを巡らす。それが今日集落北の陵線に顕著に残る「大すき」の姿かも知れない。

この時の戦いにおいて宮氏方は昼の勝軍の油断を衝かれた。毛利軍は夜襲を仕掛けたのである。前記の世良氏によれば、芋原、滝、種一帯は乱戦状態となり、酸鼻を極めた、とある。主将官元範は身をもって備中に逃れた。一般村民は全減したのであろう。

新しく入植した人達に「大すき」築造の伝承が途絶えた事も頷(うなず)ける。

最後にもう一つ。「大すき」は近年まで村人は勿論、地域史家の間でも全く話題にされなかったが、十年程前、備陽史探訪の会が初めてアプローチし、以後注目を集める様になったと、同地出身のS氏から教えて頂いた。研究調査等は未だこれからなのである。その意味で、来年発行する予定の同会編集『山城探訪』の出版が期待されるのである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1994/05/c16de270490062ddb3aaf0ad5522dc1a.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1994/05/c16de270490062ddb3aaf0ad5522dc1a-150x100.jpg管理人中世史古代史「備陽史探訪:60号」より 小島 袈裟春 はじめに 『備陽史探訪』第四二号に、芋原の「大すき」について現地に御住いのI氏と云う方の論文が掲載されて居て、『続日本紀』の養老三年(七一九)の項に記されて居る「備後国……茨城を停む」の茨城に比定出来るのではなかろうか、とあった。 私はそれ以来忘れた事はなかったのであるが、何せ、現地不案内で今まで見学の機会がなかったのである。 今回計らずも、当のI氏の御案内で探索が出来るとあらば、少々の体の不調など構って居れないのであった。 集合場所の龍田神社の前に、顔見知りのT氏が先着して居たので早速聞いて見た。 私「古代山城と云う説がある様ですがどんな構造でしょうか」 T氏「私も大分以前に一度見学しただけで良く分らないが、まぁ一種の堀の様なものですね。それに村の人達の間には昔巨人が住んで居て、村の廻りに溝を堀り、投げ捨てた土が神辺平野に点在する小山になったと云う、伝説があるそうですよ」 私「あゝそれは良い話ですね。私はそう云う話が好きだし、参考になります。その御話丈でも来た甲斐があります」 ・・・この伝説によって少なく共現住の方々の遥か御先祖まで、堀の造成に係わった形跡のない事が分かったのであった。 さて「大すき」は龍田神社の南、二百米程の山裾から始って居た。山の陵線に添った形で続いて居る。陵線の南は畑、北は雑木林、陵線から北側に四~五米下って、幅二~三米程、堀土を北に一~一・五米程盛上げた形跡がある。それが東方向に百米程上って、四一二米の芋原の最高点に達する。頂上はかなり広く、平担な雑木林で、南端からの眺望は絶好であった。福山の海まで一望である。蔵王山など先の伝説の如く、本当に一掬いの土塊に見えた。北端には水道用の地下タンクとポンプ場が建設されて居て、工事で「大すき」の一部が攪乱されても居た。 思うにこの場所は城で云えば本丸に相当し、望楼を造れば村落内は勿論、三百六十度の警戒が出来る位置である。「大すき」は又陵線を東に下がり、バス道と小路の三叉路を越え、東向いの山陵に現われる。この様に「大すき」は、三つのピーク、二つの谷を越えて断続し、更に南に廻り込んで、芋原集落の大部分、約六十戸の人家と耕地を、東西約千米、南北約五百米の長円形で囲って居るとの事であった。無論この範囲は旧北山村の最良地であって『西備名区』に、五百二十余石と記す村高の半数以上を占める地域でもある。 さて、この「大すき」は何時、何の為に、誰によって造られたのであろうか。私なりに考察して見ようと思う(大きくは二説ある)。 一、茨城と考える。 前述の如く「続日本記」養老三年の項の比定であって「いばら、又はうまら」と「いもはら」との音韻の近似性を云うのであるが、何等かの遺跡が判然と存在するのは芋原のみで、他の候補地、福山蔵王山、岡山県井原市等は何もないのである。 又芋原「大すき」は環濠の一種であって、この付近では神辺の亀山遺跡の環濠に近似して居り、それが高地化して防御力を高めたもの、との見方も出来る。この場合は弥生時代との連続も考えられ、更に『日本書紀』の安閑紀の項、備後国……多禰屯倉(みやけ)に擬せられて居る「種(たね)」の地名も芋原の西北に近く存在し、又芋原の東に「小仁吾」の地名もある。事務局長の七森氏によれば「仁吾」は古代軍団に関係する、との説があるらしい。 この様な状況証拠をふまえて、七世紀頃の「茨城」は何を守る為か、と考えると、それはもう、加茂谷から神辺にかけての古墳、即ち初期・中期・後期に渉る群集墳の主達を、であろう。それは又同時に、その頃の国庁が神辺か府中か、と云う問題ともからみ合うのである。 尚「仁吾」と云う地名は備中、備後に比較的多い様である。 二、中世山城跡と考える。 天文二十年(一五五一)志川滝山城に宮氏一統が結集して、毛利軍と最後の決戦をした時の山城跡との説がある(『西備名区』)。 その十七年前の天文三年、宮氏の本拠地新市の亀寿山城が、毛利氏を中心とする大内軍に破れて降伏した時幼い当主、宮元範は叔父の志川滝山城主、宮兼光に預けられ、芋原を住居とした(『山野村語談記』世良戸城氏著)。又、同氏によれば、毛利氏に反旗を翻えした天文二十年、元範が本陣を構えたのも芋原であったという。 西の支えは志川滝山城、東の支えは上野城(芋原の東)ともあって、これは納得の出来る陣形でもある。 一般に云われる如く志川滝山城のみでは、何共心もとないが、前記の陣形であれば充分な勝算を持った決戦だったと思える。時間はあったのである。地形を充分に研究した事であろう。溺手の守りに堀切りを巡らす。それが今日集落北の陵線に顕著に残る「大すき」の姿かも知れない。 この時の戦いにおいて宮氏方は昼の勝軍の油断を衝かれた。毛利軍は夜襲を仕掛けたのである。前記の世良氏によれば、芋原、滝、種一帯は乱戦状態となり、酸鼻を極めた、とある。主将官元範は身をもって備中に逃れた。一般村民は全減したのであろう。 新しく入植した人達に「大すき」築造の伝承が途絶えた事も頷(うなず)ける。 最後にもう一つ。「大すき」は近年まで村人は勿論、地域史家の間でも全く話題にされなかったが、十年程前、備陽史探訪の会が初めてアプローチし、以後注目を集める様になったと、同地出身のS氏から教えて頂いた。研究調査等は未だこれからなのである。その意味で、来年発行する予定の同会編集『山城探訪』の出版が期待されるのである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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