1993年10月31日

隠れた史跡と伝説を訪ねて(福山市)

備陽史探訪:58号」より

田口 義之

①百谷と足利房丸

足利右門大夫房丸、実は征夷大将軍従三位足利義澄公嫡子豊後守義範二男なり…

これを見せられた時には、さすがの私もびっくりしました。各地の家々に伝わる系図や由緒書はたくさん拝見しましたが、ほとんどは江戸時代から明治時代にかけて偽作されたもの。それでも、堂々と先祖を将軍の下に結びつけたものはありません。「ウソだろう…」とつぶやきながらも日を凝らすと、初めに「一房丸神社由緒」とあります。そうです。これは、現在も福山市加茂町百谷に鎮座している房丸神社の創建由来をつづったもの。しかも、明治四年に、時の太政官に差し出したひかえで、一般の系図とはわけが違います。

福山市街から国道一八二号線を北に三〇分、道は山路にさしかかります。風景は一変して、道路の左右には、音ながらの農村が広がっています。旧安那郡百谷村、現在の福山市加茂町百谷。房丸に興味を持った私は、夏の一日、一房丸が隠れ住んだという、ここ百谷を訪ねてみました。

まず道端に車を止め、房丸が住んだという「房丸屋敷」を訪ねました。しかし、屋敷跡は国道の敷地となり、面影はありません。東の山腹にある房丸夫婦の墓も、夏草にさまたげられて断念しました。以前に訪ねた時の記憶によりますと、房丸の墓は、高さ約1mほどの自然石で、はっきりと「永禄二年…足利右門大夫房丸」と刻んでありました。

国道を左に折れると、正面に高い石段が見えます。これが房丸を祭神とした房丸神社です。神社には、永禄四年(1561)の棟札が残り、房丸の没後、その霊を祭るために神社を建立したとあります。さらに、最初に述べた由緒書によりますと、百谷から山ひとつ隔てた東側の加茂町北山の竜田神社も、房丸の宝剣「竜田丸」を御神体として、江戸時代初期の寛文二年(1662)に建立されたと記されています。

伝記によれば、戦国の争乱を避けた足利房丸は、妻と六人の家臣と共にこの地に来たり、屋敷を構えて住みついたといいます。六人の家臣も周辺に住みつき、主人を守りながら農耕に従事したということです。

征夷大将軍の孫という伝承は、今となっては調べようがありません。しかし、疾風怒涛の乱世。将軍でさえ各地を流浪した時代です。房丸のような人物が備後の山間に逃れ住んだということも、ありえたかもしれません。

②謎の大原石塔群

福山市加茂町から険しい山道を越えると、同市山野町に入ります。盆地の中心で小田川を渡らずに左折し、田んぼの小道を北へ進むと、山野中学校の校舎が見えます。ここから西へ急坂を登ると、台地上へ出て、南へ数百m。左に防火用水のあるところを右折して山道へはいると、約百mで正光院跡と呼ばれる一角に着きます。こわれかかったお堂が建ち、右側の山際に忘れられたような石塔群が残っています。

現地に立ってみますと、うっそうと茂った夏草の中に、花コウ岩製の宝篋印塔が四基、結晶質石灰岩(こごめ石)製の宝篋印塔が約十基南北に身を寄せるようにして並び、山際にも十数基の小ぶりな石塔群、北側にも五基の五輪石塔が並んでいます。花コウ岩製の宝篋印塔は高さ一・八mに達する巨大なもので、台座、塔身、笠宝珠、九輪がほぼ完全に残り、文化財に指定されていないのが不思議なくらいです。各々の型式から、時代は南北朝時代から戦国時代のものとみました。

いったい、この石塔群はだれが何のために建てたのでしょうか。

謎を解く鍵は、こごめ石製の宝篋印塔にありました。そのうち一基の塔身に「白壁」の銘が入っていたのです。「白壁」とは、室町時代、備後最大の勢力を誇った中世の武家宮氏の五代目、宮元盛の法名です。宮一族とすれば、巨大さといい、見事さといい、謎の一部は解けます。しかしなぜ、宮一族の墓石が山間の小盆地にあるのか、謎は謎を呼びます。

実を言いますと、江戸時代の書物に、宮氏の墓石は、新市町下安井にあって、そのうちの一基に「白壁」の文字が刻んであるとあるのです。江戸時代までは新市町にあった宮氏の墓石が現在、山野町に残っている―。不可解な話です。

あえて推測すれば、古書に、宮氏の一族で山野に土着した者もいたとありますから、宮氏の子孫の方が荒れるに任せていた宮一門の墓石を山野に移し、供養しようとしたのかもしれません。

宮氏一族といえば、戦国時代、繁栄を極めながら、戦国時代、尼子に属したため、安芸の毛利元就に滅ぼされた悲運の戦国武将です。今は訪ねる者とてない、これら石塔の前にたたずむと、石塔の主が生きた時代、乱世の厳しさ、むなしさが実感として迫ってくるようです。

③芋原の大スキ伝説

現地を歩いて驚きました。標高四百mの高原の集落は、幅三m程の空堀によって、ぐるりと取り囲まれていたのです。

福山市の中心部から北へ約一五km、加茂町の谷あいから急坂を車で約十分、ここに空堀によって囲まれた高原の村・芋原(いもばら)があります。芋原には、この空堀にまつわる不思議な伝説が伝わっています。それは―この地には大昔、大人(おおひと)が住み、牛に大きな鋤(すき)を引かせて歩いていた。その跡が「大スキ」と呼ばれる空堀になったのである。大人は、芋原の村を一周したが、南の辺りで石に引っかかり、力を入れたら、そこの土が神辺町の山王山や御幸町の正戸山まで飛んで行った。だから、今でも山王山や正戸山の土の色と同じなんだと。

かつて、芋原の人々は、夜、決して大スキに近付きませんでした。大スキの跡は、夜は魔物が通る道だと信じられていたからです。

もちろん、現在この話を信じている人はいません。でも、現実に大スキの跡と言われる空堀は、芋原の周囲に残っています。では一体、この空堀は、いつ、ダレが築いたのでしょうか?

①古代山城説

最近になって唱えられ始めた説で、大スキは「続日本紀」養老三年(719)の条に見える古代朝鮮式山城「茨城」の跡ではないか、という説です。空堀が芋原全体を囲むというように、非常に大規模であるし、この付近は「茨城」が存在したと言われる古代の安那郡抜原(ぬばら)郷にあたるため、「茨城」の遺跡が残っていても不思議ではないな考えられるからです。

②志川滝山合戦の陣城説

芋原の西南には、谷を隔てて戦国時代の山城・志川滝山城跡が残っていますが、戦国時代、この城が安芸の毛利元就に攻められた時、城方、あるいは毛利方の築いた陣城の跡とする説です。

③戦国城塞村説

戦乱が続いた室町時代には、集落や都市も外敵から身を守るために周囲に堀を掘って、村や都市自体を城塞としました。近畿地方にも多くの実例が残っており、芋原の空堀もその名残ではないか、とする説です。

現在、大スキの跡は開拓などによって、年々姿を消しつつあります。発掘すれば、年代・目的なども分かるはずなのですが…それまでは、そっと残しておきたい遺跡の一つです。

④蛇円山

小さいころ、高い山と言えば、熊ケ峯(四三八m)・蔵王山(二二五m)・蛇円山(五四五m)の名前を思い浮かべたものです。中でも蛇円山の名前は「じゃえん」という不気味な響きとともに強い印象が残っています。初めてこの山に登ったのは中学三年生の六月。山麓で登り道を聞いた時、「蛇円きゃあ、蛇円にゃあハミ(まむし)が多いどう」と脅かされたことも、今では良い思い出です。

蛇円山に登るには、府中街道を通ってもいいのですが、車で行くのでしたら、芦田川の土手道を通った方が分かりやすいでしょう。御幸町の中津原から土手道に上ると、すぐ右前方に円すい形の秀麗な山容が見えます。これが、一名「備後富士」とも呼ばれる蛇円山です。芦田川の土手を山守橋北詰で右折、真っすぐ進めば駅家町服部の谷、谷奥で左折すれば登山道へ。私が初めて登ったころは、幅五〇cmくらいの山道をあえぎながらでしたが、今では自動車道も完成し、道標も完備しているので、だれでも登れます。山頂からの眺めは素晴らしく、南は、はるかに瀬戸内海が白く輝き、周囲は雄大な吉備高原の山並みが広がっています。

山頂には、八大竜王を祭る神殿が建っています。この神様は水神で、蛇円山の名の起こりとなったもの。俗に、蛇円山の山容は、「蛇がトグロを巻いた様子に似ている」ところからその名がついたと言われていますが、蛇は古代より、農耕のシンボル・水神として祀られてきた動物―つまり、平野から望むと秀麗な姿を見せるこの山は、古代より「水神のまします神の山」として、いつしか蛇円山と呼ばれるようになったと考える方が妥当でしょう。そう言えば、山の中腹に、岩畳神社と呼ばれる古社がありますが、平安時代以来と言われるこの神社には、昔は社殿がなかったとか。古代、神社には社殿がなく、山や巨石、巨木を御神体としてお参りする拝殿のみでした。その名残なのでしょう。

山頂のすぐ下には、女郎屋敷と呼ばれる土塁をめぐらした広場、山中には、和田屋敷・梶原屋敷。原城と呼ばれる由緒ありげな屋敷跡と山城跡が残っています。戦国のころ、城塞として利用されたのでしょうか。それにしても興味の尽きない山です。