1994年08月26日

法然と備後(浄聞房はどこに流罪されたのか)

備陽史探訪:61号」より

松岡 正

 ”このところ絆哀しく明け暮れて”「ひたすらに南無阿弥陀仏誕生寺」これは六月に行なわれた津山バス例会の最後の見学地、法然ゆかりの誕生寺(久米郡久米南町)に参詣したとき、熊谷操子さん(上下町)が吟じられた句である。

六月初めとしては珍しく暑い午後、広い本堂で、私達は住職の語る「法然上人の一代記」を厳粛な面ざしで拝聴していた。法話が”土佐へ法然が流罪された”というくだりになったとき、私の脳裏には『歎異抄」の”法然の弟子、備後国へ流される”という記録が浮かんで、”備後国の何処だろう”という疑間が執拗に私を捕えた。

『歎異抄』は要約して言えば、浄土真宗の宗祖親鸞の語録であり、絶対他力を旨とする浄土真宗の教義の神髄として広く世に知られている。

『歎異抄』の付記に

法然は土佐へ、親鸞は越後へ、浄聞房(注一)は備後国へ(以下略)流罪された

記録を残している。法然と親鸞の足跡はよく判っているが、浄聞房は備後国の何処へ流されたのか全く知られていない(注二)。

『備陽六郡志』の神嶋村(福山市西神島町、注三)の項に

法然寺法然上人讃州遠流のとき、此所に来り給い草庵を結び、しばし留りまいし所なり

と記されている。堤勝義先生は”神嶋村の伝承は法然ではなく、浄聞房ではなかったか”と推定されている(注四)。事実、法然の諸伝記を見ると、承久二年(一二〇七)法然は京都を離れ、神戸市兵庫―兵庫県高砂市―兵庫県御津町室津―香川県塩飽島―高松市(讃岐)にとどまり、土佐へ行かないうちに同年十二月に赦免され、翌年大阪市〔地名は現在呼称にしている〕に帰っていて備後に来たという足跡はない。私も堤先生の説に同意したい。

神嶋村の法然寺は法然ゆかりの地として弘治三年(一五五七)建立され、水野勝成が福山城を造ったとき、元和七年(一六二一)城下へ移し、安楽寺(福山市明治町)と改称したと『備陽六郡志』は伝えている。

ところで、「安芸国備後国知行帳」(一六一九)を見ると、神嶋村は鹿島村となっている。つまり、古くは鹿島と呼んでいた(注五)。

余談になるが、『万葉集』第十五巻三五九九

月読の 光清み 神島の 磯間の浦ゆ 舟出す我は

の神島は一般的に神嶋村(福山市西神島町)として伝えられているが、一説に岡山県笠岡市沖の神ノ島でないかという意見がある。私は以上の記録から見て、歌にある”神島”は笠岡沖の神ノ島だと考えたい。

そして”浄聞房は備後国鹿島へ流されたのだろう”と思う。

以上を、誕生寺での私の疑間への解答として、私の津山バス例会を終りとした。

注一 浄聞房一は岩波文庫版では浄円房一となっている。
注二 流罪の直接原因は、後鳥羽院の女房と法然の弟子安楽房一(死罪)との風紀問題であった。
注三 奈良時代には海中にあった小島であり、元和(一六一五~二四)の頃には、陸つづきであり、東側は海岸であった。
注四 『中世の備後の宗教・在地武士』堤勝義著。
注五 福山城下に移された鹿島町は、寛永十七年(一六四〇)出火があり、神島町と改称されたと小林定市先生(水呑町)は説明されている。