『太平記』への招待~南北朝時代の備後~

備陽史探訪:51号」より

田口 義之

行今年は太平記の年と言っていいくらい南北朝時代が一つのブームとなっている。

もちろん、これは今年のNHK大河ドラマが吉川英治原作の『太平記」を取り上げたことによるが、太平記の時代は、一面地方の時代と言っても良いぐらい全国各地の武士達が活躍した時代である。

わが備後地方も例外ではない。古典『太平記』をひもといてみても多くの備後武士達が登場する。私達の郷土はこの時代になってやっと歴史時代に突入したと言っても良いだろう。

以下、この時代の主な備後武士と主な合戦を紹介し、来る七月二十八日に開かれる太平記座談会への案内としたい。

桜山四郎入道

南北朝内乱のさきがけとなった備後武士。『太平記』によると、元弘元年九月、河内の楠木正成と共に後醍醐天皇に応じて備後一宮に挙兵。一時は備後半国を討ち従へ安芸、備中への進出を計ったと伝えるが、笠置山が落ち、楠木も自害(誤報)したと伝わると軍勢は離散、翌元弘二年正月、一宮吉備津神社の社殿に火をかけ、一族と共に自害して果てたという(太平記巻三桜山自害の事)

杉原信平、為平

福山市西町にある能満寺で世に出る機会を待っていた兄弟は、建武三年二月、西走する足利尊氏に鞆で随行、同年二月の多々良浜の合戦で抜群の戦功を挙げ立身のきっかけをつかんだ。この時、兄弟の奪戦に感動した尊氏は彼等の母衣(ほろ)に西国一の大功の者と自らしたため、のち兄の信平には備後国本郷庄木梨庄の地頭職を、弟為平には木梨庄半分地頭職を与えその功にむくいたという。備南の雄族本梨杉原氏の興りである。

江田泰氏

備北の武士で、建武三年六月、九州から上洛、後醍醐天皇を比叡山に追った足利軍にあって、山上の後醍醐軍に対し、備後の国の住人江田源八泰氏と名乗って一番に突進、叡山の悪僧杉本山神大夫定範と一騎打に及んだと言う(太平記巻一七山門攻事付日吉神託事)。

泰氏は鎌倉時代三谷郡の地頭として入ってきた広沢氏の庶流で、芸藩通志によると三谷郡向江田村現(三次市)天良山城主であったという。

三吉覚弁

彼も又、南北朝の内乱に自己の命運をかけた人物である。

覚弁は鎌倉時代に三次の地頭職に補任された佐々木氏の子孫で、先祖は承久の乱で天皇方について失脚。

内乱に再び世に出るのはこの時、と覚弁はいさみ立った。彼は終始足利尊氏方について戦功を挙げ、観応二年には久井庄泉村(現久井町)の地頭職を獲得した。しかし、彼の実力ではその支配も思うに任せず、父祖相伝の鼓の田畑(現神辺町下竹田)を子息さやいろこくらに譲ったのもつかの間、彼の死後、所領は一族に押領されてしまった。

宮兼信と盛重

しかし、この内乱をうまく乗り切った一族もあった。室町から戦国にかけて在地最大の勢力を誇った宮一族である。

この時代宮一族からは、終始尊氏方についた兼信と、反対派の南朝方或は足利直義方に属した盛重が現われ、両者がしのぎを削ることによって宮氏は勢力を伸ばして行った。両者の行動を見ると、尊氏が優勢の時は兼信が前面に出、反対派が力を振うと盛重が活躍。結局彼等の活躍によって宮氏は備後最大の豪族となった。

鞆の攻防

南北朝の内乱で備後が主要な舞台となることもあった。一つは瀬戸内の要港鞆の攻防である。

鞆は、建武三年二月、西走する足利尊氏がこの地で光厳上皇の院宣を得、足利氏開運の地となったところであるが、以後もしばしば南北両朝の攻防の的となり、特に興国三年五月、この地を舞台に繰り広げられた鞆軍は有名である(太平記巻二二、義助朝臣病死事付鞆軍事)。

その後、鞆には貞和五年四月、足利直義の養子直冬(実は尊氏の長子)が中国探題として来住、いわゆる観応の擾乱が始まると、尊氏、直義抗争の最前線となった。

尊氏の腹心高師直は同年九月、備後の杉原為平に命じて直冬を九州に追い、ここに南朝、尊氏方、直冬方と中国地方を三分しての激しい戦いがくりひろげられることになる(太平記巻二十七、右兵衛佐直冬鎮西没落事)。

備後宮内合戦

運命の人直冬は養父直義の遺志をついで実父尊氏に戦をいどんだ。文和二、四年と上洛を果たすが二度とも父尊氏弟義詮の反撃にあって敗退、直冬の声望は次第に下り坂となった。そして、彼の没落を決定づけたのは又もや備後での戦いであった。

貞治元年、再起をかけた直冬は山名氏の後援を得て山陰より備後に兵を進めた。目標は備後亀寿山城に拠る宮入道々仙であった。

宮内芦(品郡新市町)に陣した直冬は、亀寿山城の宮氏と対戦すること約一年、翌貞治二年九月、反撃に転じた宮氏に敗れ、歴史の表舞台から消えて行った。

直冬はいかなる神のばちにてか宮にはさのみおじて逃らん

実父に刃向い、宮氏に一度も勝てなかったことを皮肉った落首である(太平記巻三十八、諸国宮方蜂起の事)。

この戦いは中国地方の帰趨を決め、宮氏の勝利によって直冬の敗北が決定し、同時に山陰の山名氏、防長の大内氏が相次いで幕府に帰順、世はようやく太平の時を迎えるのである。
太平記の舞台「鞆」

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/683548ec2a275413683bbfae95f76823.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/683548ec2a275413683bbfae95f76823-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:51号」より 田口 義之 行今年は太平記の年と言っていいくらい南北朝時代が一つのブームとなっている。 もちろん、これは今年のNHK大河ドラマが吉川英治原作の『太平記」を取り上げたことによるが、太平記の時代は、一面地方の時代と言っても良いぐらい全国各地の武士達が活躍した時代である。 わが備後地方も例外ではない。古典『太平記』をひもといてみても多くの備後武士達が登場する。私達の郷土はこの時代になってやっと歴史時代に突入したと言っても良いだろう。 以下、この時代の主な備後武士と主な合戦を紹介し、来る七月二十八日に開かれる太平記座談会への案内としたい。 桜山四郎入道 南北朝内乱のさきがけとなった備後武士。『太平記』によると、元弘元年九月、河内の楠木正成と共に後醍醐天皇に応じて備後一宮に挙兵。一時は備後半国を討ち従へ安芸、備中への進出を計ったと伝えるが、笠置山が落ち、楠木も自害(誤報)したと伝わると軍勢は離散、翌元弘二年正月、一宮吉備津神社の社殿に火をかけ、一族と共に自害して果てたという(太平記巻三桜山自害の事) 杉原信平、為平 福山市西町にある能満寺で世に出る機会を待っていた兄弟は、建武三年二月、西走する足利尊氏に鞆で随行、同年二月の多々良浜の合戦で抜群の戦功を挙げ立身のきっかけをつかんだ。この時、兄弟の奪戦に感動した尊氏は彼等の母衣(ほろ)に西国一の大功の者と自らしたため、のち兄の信平には備後国本郷庄木梨庄の地頭職を、弟為平には木梨庄半分地頭職を与えその功にむくいたという。備南の雄族本梨杉原氏の興りである。 江田泰氏 備北の武士で、建武三年六月、九州から上洛、後醍醐天皇を比叡山に追った足利軍にあって、山上の後醍醐軍に対し、備後の国の住人江田源八泰氏と名乗って一番に突進、叡山の悪僧杉本山神大夫定範と一騎打に及んだと言う(太平記巻一七山門攻事付日吉神託事)。 泰氏は鎌倉時代三谷郡の地頭として入ってきた広沢氏の庶流で、芸藩通志によると三谷郡向江田村現(三次市)天良山城主であったという。 三吉覚弁 彼も又、南北朝の内乱に自己の命運をかけた人物である。 覚弁は鎌倉時代に三次の地頭職に補任された佐々木氏の子孫で、先祖は承久の乱で天皇方について失脚。 内乱に再び世に出るのはこの時、と覚弁はいさみ立った。彼は終始足利尊氏方について戦功を挙げ、観応二年には久井庄泉村(現久井町)の地頭職を獲得した。しかし、彼の実力ではその支配も思うに任せず、父祖相伝の鼓の田畑(現神辺町下竹田)を子息さやいろこくらに譲ったのもつかの間、彼の死後、所領は一族に押領されてしまった。 宮兼信と盛重 しかし、この内乱をうまく乗り切った一族もあった。室町から戦国にかけて在地最大の勢力を誇った宮一族である。 この時代宮一族からは、終始尊氏方についた兼信と、反対派の南朝方或は足利直義方に属した盛重が現われ、両者がしのぎを削ることによって宮氏は勢力を伸ばして行った。両者の行動を見ると、尊氏が優勢の時は兼信が前面に出、反対派が力を振うと盛重が活躍。結局彼等の活躍によって宮氏は備後最大の豪族となった。 鞆の攻防 南北朝の内乱で備後が主要な舞台となることもあった。一つは瀬戸内の要港鞆の攻防である。 鞆は、建武三年二月、西走する足利尊氏がこの地で光厳上皇の院宣を得、足利氏開運の地となったところであるが、以後もしばしば南北両朝の攻防の的となり、特に興国三年五月、この地を舞台に繰り広げられた鞆軍は有名である(太平記巻二二、義助朝臣病死事付鞆軍事)。 その後、鞆には貞和五年四月、足利直義の養子直冬(実は尊氏の長子)が中国探題として来住、いわゆる観応の擾乱が始まると、尊氏、直義抗争の最前線となった。 尊氏の腹心高師直は同年九月、備後の杉原為平に命じて直冬を九州に追い、ここに南朝、尊氏方、直冬方と中国地方を三分しての激しい戦いがくりひろげられることになる(太平記巻二十七、右兵衛佐直冬鎮西没落事)。 備後宮内合戦 運命の人直冬は養父直義の遺志をついで実父尊氏に戦をいどんだ。文和二、四年と上洛を果たすが二度とも父尊氏弟義詮の反撃にあって敗退、直冬の声望は次第に下り坂となった。そして、彼の没落を決定づけたのは又もや備後での戦いであった。 貞治元年、再起をかけた直冬は山名氏の後援を得て山陰より備後に兵を進めた。目標は備後亀寿山城に拠る宮入道々仙であった。 宮内芦(品郡新市町)に陣した直冬は、亀寿山城の宮氏と対戦すること約一年、翌貞治二年九月、反撃に転じた宮氏に敗れ、歴史の表舞台から消えて行った。 直冬はいかなる神のばちにてか宮にはさのみおじて逃らん 実父に刃向い、宮氏に一度も勝てなかったことを皮肉った落首である(太平記巻三十八、諸国宮方蜂起の事)。 この戦いは中国地方の帰趨を決め、宮氏の勝利によって直冬の敗北が決定し、同時に山陰の山名氏、防長の大内氏が相次いで幕府に帰順、世はようやく太平の時を迎えるのである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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