2000年10月21日

福山市西域の史跡―中・近世山陽道を歩く―

ふるさと探訪」より

出内 博都

福山市西域

郷分地区

戸田川は備南平野を東流して石鎚山の麓でヘヤピンカーブして狭い地溝帯を南流する。その西岸一帯が郷分で、今は整備された河岸道路を走る路線バスの終点である。瀬戸内海の海運の発展。港町の整備によって中世末期には「山陽道」が、在郷町『横尾』から別れて芦田川を渡り、海岸道に変わった。

大渡し跡周辺

山陽道が瀬戸内沿岸に変わると、対岸の中津原との間は日頃は「歩行渡り」をし、冬季には板の仮橋をかけ、大水の時は舟をだした。舟小屋は今の集会所の上手辺りにあり、渡り道や舟付場は今の大橋より三〇〇メートル程上流で、目印だったのか『一本松』という地名が残っている。集会所など数軒の家のある前を北に通る道が『旧土手』の原形で、道端に残る「左新市」「右神辺」の道じるべや、独特の書体で書いた「髭(ひげ)題目」と言われる大きな『法界萬霊塔』に往時の街道の姿を偲ぶことができる。府中方面への近道としての『平ガ峠』、その平穏を祈る『北辰庵』や、地域の氏神としての『石原日和神社(明神)』のの弘治元年(一五五五)という創建伝承に、この地区の開発の歴史を知ることができる。

石原隧道

石原隧道

この石原集落の北端に、駅家町の『七社』から四キロメートルもの長さをもつ用水隧道の『石原隧道』がある。戦後のことで史跡とは言えないまでも、この水路は約一・五キロメートル下流で芦田川の下をくぐり、水野時代からの長い伝統をもつ『久松用水』の源流になる重要なところである。

新装なった大渡橋を過ぎて数百メートル行くと、右手に郷分の中心『栄谷』の集落が見える。福川の渓流沿いの道をすこし入ると『郷分小学校跡』や鎮守の『境天神社』寛永年代の開基伝承をもつ『永寿山長楽寺(曹洞宗)』などがある。川沿いの道を上って数百メートルの山麓一帯が『境梅林跡』で、かつて菅茶山・西山拙斎・門田朴斎などの文人墨客が訪れ、多くの詩を残しているが、今は当時を偲ぶものはない。渓流沿いに備南平野に通ずる道があり、二キロメートル程の所にかつての中継地『八反田』集落があるが今は殆ど無人である。

この谷の南端に巨大な山陽自動車道の橋があり、この橋脚から南一帯は採石場で、黒い岩膚に朱塗りの『郷分八幡神社』の社殿が目立つのも、時代の移り代わりを示す一齣(こま)といえよう。この神社の参道口に小さな石造屋形の祠がある。備南一帯に勢をはった宮氏の最期を、志川滝山城(加茂町北山)に飾った、宮入道光音の墓と伝えている。この墓から南へ数十メートルの採石場の中に『銅剣出土地』の標識が立っている。草木川の扇状地の先端に弥生期の『草木谷遺跡』があったが、いまは芦田川の川底になっている。備後の中心備南平野のネックとして重要な位置を占めていたところだろう。

この谷の西山麓に氏神の『草木奈良神社(鳴滝さん)』がある。水の神さんで以前上流の『白糸の滝』にあったものを、天正六年(一五七八)この地に移した伝承の中にも、中世以降の「むら」の形成の歴史が窺える。海と内陸を結ぶネックの地の象徴は『青ケ城跡』である。境谷と草木谷の間に突き出た山塊で、山陽自動車道の隧道が通っている、標高二三六・四メートルの主峯と二二六・五メートル、二一七・三メートルの副峯を持ち、比高二百メートルの険しい山である。主峯に十数段の連郭と数条の堅堀を持ち、二つの副峰にもそれぞれ数段の郭・堅堀・堀切りなど構えた三郭群構成で、境・草木の谷に備えている。登り口は南北の谷にあり、殊に草木谷からの上り回は『勝負坂』という地名があり、北西の郭群の大堀切りに通じている。

この城の主としては瀬尾四良左衛門『芸備風土記(増補)』皆内(かいち)出雲守(兼景・兼綱・兼盛)『西備名区』などを伝えている。この城は大きさ、構築方式からみて備南地域で最もすぐれた城の一つである。芦田川の地溝帯が次第に整備され、備南平野の入口の拠点の城として、一村落土豪のみでなく、常に大内・毛利という背後勢力の地域的経略の中に位置づけられる城だったのであろう。東山麓に『沖土居』の地名を残しているが、地域整備や堤防築造のため原形は何も残っていない。

山手地区

早木谷集落から南に数百メートル南下し、右に別れて、東西に通る旧山陽道だった山手街道に入る。二百メートル位の泉小学校前の交差点を右折して、五百メートル位北西に入ると『山手八幡神社』がある。貞観元年(八五九)と古い勧請を伝えている。天文年間銀山城主杉原盛重が再興し、社領を寄進した。その後神辺城主となった毛利元康が蔀山(しとみやま)(深津村)に移したが『不応神慮』と元に復したと伝えている『水野記』。真偽のほどは不明であるが、広域の庄、郷が地域的な自然村落に分離独立するとき、鎮守八幡を奪いあった伝承は各地に残っている。それだけ由緒ある神社だったのだろう。この坂を下った付近に大正の初め(一九一二~)頃舟小屋が作られ、出水のときは人々や物資を土手まで運んでいたということは、今では想像もつかないことである。

大鏡山三宝寺

大鏡山三宝寺

ここから西へ数百メートルの辻を右(北)へ三百メートル上がると『大鏡山三宝寺』がある。寺伝によれば、延暦二四年(八〇五)南都興福寺の僧が、山手の佐倉に『等伝寺』を建てたことに始まり、弘安四年(一二八四)法燈国師が今の地に臨済宗『三宝寺』を建立したと伝え、今でも法燈国師像を安置している。その後災害により荒廃したが、大永二年(一五二二)銀山城主杉原氏が菩提寺として再興し、曹洞宗に改宗した。この寺には杉原一族の基とみられる石塔や、片山病の先覚者藤井好直、長男の漢学者藤井葦川の墓などある。

三宝寺の山門前を三百メートルほど南へ下ると、右側の民家の塀の上に『太閤屋敷跡』という木札がみられる。豊臣秀吉が朝鮮出兵のとき宿陣した屋敷があったと伝えられる所で、元和(一六一五~)頃には築地も崩れ、残っていた豊国神社も幕府をはばかり、荒神社として祀られている。ここから百メートルばかり下り四辻を右に五百メートルで県道に合流する。そこの交差点にある榎の大木は、『山陽道一里塚』の名残で、幹回り二・一メートル高さ一〇・五メートルあり、貴重な存在と言えよう。

俄谷御趣法砂留

俄谷御趣法砂留

一里塚をすぎて北方三百メートルほど入ると、正和年代(一三一二~)の開基と伝える『光明山円正寺』があり、寺の西方二百メートルの所に、見事な松の庭木をもち、大形屋敷と伝承された屋敷があるが、これは、神辺地方に発生する難病『片山病』にとりくみ、絶減の先駆をなした漢方医『藤井好直家の跡』である。この道を西北に進み、山陽自動車道の高架をくぐり、 一・五キロメートルほどで『俄池(にわかいけ)』に着く。この池の東の谷の山道を三百メートルほど行くと、天保時代(一八〇四~)に築かれた砂留『俄谷御趣法砂留・俄谷下砂留』がある。いずれも高さ十メートル余、幅三〇メートルに及ぶ大規模な砂防堤である。砂留へは県道を西行して三百メートル、津之郷の『弘法入口』のバス停から北へ二キロ行き、俄山不動院から入ると便利である。

山手の中心史跡である銀山城跡へは、この不動院の上手の林道を数百メートル東行して、左側の道路法面を上がるのが一番よい。後に神辺城の城主として、この一帯を支配した杉原氏の居城で、標高二四九・八メートルの尾根を利用して築かれたもので、山頂から南と東に派生した支尾根に十数段の連郭と、十数条の堅堀、堀切り、土塁や、石垣などの遺構もあり、備南屈指の要害で、国人衆の筆頭杉原氏の勢いを残している。杉原氏の退いた後には、高橋右馬允資高が入ったと伝えている。

津之郷・赤坂地区

津之郷地区

山手から県道を西へ数百メートル、本谷川の堤防の谷尻停留所につく。川沿いに北へ百数十メートルで小学校につく。この学校の北西一帯が弥生時代中期の『本谷遺跡』である。津の郷の地名が示すように、港であったので、小学校の校門を入った左手に、二千年前の中国『新』の時代の貨幣『貨泉』の出土した標識がたっている。小学校の裏の民家の間の小道を二百メートルほどあがると、段々畑の上に左端に神社をもち、東西に長く頂上が平坦な丘がみえる。これが通称『ごてん山』といわれ、足利義昭(一五代将軍)が、織田信長に追われ、天正四年(一五七六)毛利氏を頼って備後に下り、天正十五年大坂に帰るまでに、鞆など各地を居所としていたが、最後の居館をここに構えたと伝える屋敷跡である。惣堂神社(『福山志料』は三嶋神社)の建立、住宅団地、耕地の整備などで中世居館の跡は失われているが、天正十五年(一五八七)隣村『赤坂』での秀吉、義昭の会見記『九州御動座記』に”…公方様御座所も赤坂之近所也…”とあり、義昭の居住は事実であろう。

この丘の西側の本谷川沿いの道路を北上し、自動車道の高架をくぐつて川を渡り、高架に沿う側道にはいる。北側に見える民家の上一帯が『本谷古墳群』で、市指定の『一号古墳』は石室のみで、長さ八・五メートル、幅一・九メートル、高さ二・三メートルあり、古墳時代後期の六世紀後半のものと考えられる。この尾根筋には同じような古墳が数基あり、須恵器・勾玉・小玉・腕飾りなどが出土している。

古墳から川沿いに二百メートルほど下って自動車道の高架をくぐらず、右に三十メートルほど行って右側に、段々畑に沿った小道を登ると三百メートルほどで『石鎚神社』につく。ここが永禄年間(一五五八~)に、田邊越前守光吉が築城したと伝える『串山城』である。東西に長い地溝帯の中央に突出した標高一四一・五メートルの山塊の頂上に、岩盤を巧みに利用した数段の連郭や帯郭、さらに北方尾根続きの堀切りなどあり、眺望も抜群で、山城の雰意気を味わうには手頃なハイキングコースである。

山城を降りて高架をくぐり、三百メートルほど南西に行くと、民家の裏に稲荷神社がある。この神社は古墳の石室の中に祠を祀り、前に赤い鳥居が建ててある。これが市指定史跡の『坂部四号古墳』である。この古墳は横穴式の円墳で、石室は長さ八。一三メートル、幅一・六四メートル、高さ一・三メートルあり、銀メッキした「耳環」が出土している。この付近も数基の横穴式古墳があり『坂部古墳群』とよばれ、いずれも古墳時代後期のものである。自動車道建設の時発掘調査され、特に『坂部三号古墳』は原形のまま西方に移築された。ここも石室の中に祠を作り「山の神」として祭られている。

この古墳の下から坂部集落を横ぎるように、東へ数百メートル行くと左側に見える寺が『田辺寺(でんぺいじ)』である。寺の伝承によれば養老五年(七二一)行基菩薩が建立した『和光寺』の跡で、その後平安時代のはじめ、弘法大師が唐より帰国の途中、この寺にたちより栴檀(せんだん)の木で毘沙門天の像を刻み、本堂に安置したと言われており、政治・経済の中心地だったことを物語っている。この寺が衰え、永禄年間(一五五八~)串山城主田辺氏が「むら」作りの中心として菩提寺の『田辺寺』を建立し、今日に至っている。

伝和光寺塔心礎(田辺寺境内)

伝和光寺塔心礎(田辺寺境内)

昭和のはじめごろ、門前の畑から、多くの遺物(布目瓦・蓮花・唐草文様の軒丸瓦・塔の九輪の破片・風鐸など)が出土した。さらに塔の中心礎石も発見され、伝承を裏付ける古代寺院跡として、県重文・県史跡に指定されている。弘法大師の作と伝える毘沙門天像(多聞天像)も平安仏として確認され、県の重文になっている。また塔の礎石は境内に置かれているので、いつでも見ることができる。この寺の南一帯が古い時代から栄え、和光寺の門前町を造っていたことは、JR新幹線工事のときに発掘調査し、今は消滅した『ザブ田遺跡』から、弥生時代から中世末期頃までの遺跡や遺物が、多く発見さらたことからも知ることができる。

新幹線工事で消滅した他の史跡に、中世土豪の居館の雰囲気を伝えた『小森館跡』がある。『谷尻』から国道二号線にでる途中、山陽本線の踏切を渡り、国道(二号線)との中程で、左手に見える新幹線の車両基地、そこの黄色いバラスクレーンの辺りが館跡である。八百年来の関東御家人の伝統を引く横山氏が、この地に濠や石垣、土塁をもつ居舘を構えて四百年、都市化の波に揉まれながら存在し続けた。バラスの山と黄色のクレーンに、”…つわものどもの、夢の跡…”の感ひとしおである。

赤坂地区

津之郷をでて国道二号線を西へ一・八キロメートル、バイパスを旧道にはいって三百メートル、左手にきれいな丸山がみえる。これが市指定の『イコーカ山古墳』である。周囲が削られて独立古墳に見えるが、JR線をはさんで東側の丘にも、四基の円墳があったことからみて、古墳群の一つとみることができる。残存部分の直径約一〇メートル高さ約三メートル、発掘調査は行われていないが、円筒埴輪が二重に巡らされていた状況から、古墳時代中期の五世紀後半のものとみられている。

赤坂八幡神社宝篋印塔(福山市重要文化財)

赤坂八幡神社宝篋印塔
(福山市重要文化財)

この古墳の後ろに高さ一メートルあまり、三面「格狭間(こうざま)」の基礎をもつ、形のよく整った「宝篋印塔」がある。残念ながら相輪が失われており、悲運の将軍「足利義昭」の墓と伝えている。事実は別として、義昭が津之郷に住み、豊臣秀吉が西下の途中、赤坂で対面したが、徳川氏の天下になり、秀吉関係の史実が消されたていく中で、何らかの形で残そうとしたものであろう。

国道を渡って済美中学校下を、西へ五百メートルほど行くと、道の右側に市指定『スベリ石一号古墳』の標柱がある。ここから山にはいり、三叉路を右にとり、採石場を過ぎて東側の尾根の頂上部に、直径約一三メートルの円墳がある。南方に開口した「片袖式石室」で、石室は、長さ九・五メートル、幅ニメートル、高さ二・五メートルある大きなものである。

県道に下って、西に数百メートル行くと右側の柵の奥に、高さ二・二七メートル.横四メートルの岩面に、梵字で金剛界曼茶羅五仏の種子を彫った大岩がある。貞享二年(一六八五)に、福山浜の町の豪商木屋孫右衛門が施主となり、「福山常法義龍阿閣梨造之」と彫った『石の曼茶羅』である。

ここから西へ百メートルのところに『赤坂八幡神社』がある、この神社は古く貞観年代(八五九~)の創建伝承や、建久二年(一一九一)再建の記録(別当寺、福成寺記録)などがある。天正八年(一五八〇)神辺城主杉原盛重が再建した棟札があり(『沼隈郡誌』)、赤坂、早戸、加屋、津之郷四ケ村の氏神とした。こうした由緒を物語るかのように、社殿の東方の丘に、高さ二・三五メートル、基底一辺一・五メートルの大きな『宝篋印塔』が、端正な形で建っている。南北朝様式で、「福山市重文」になっている。

ここから西へ百メートル余り、河手川沿いを南に、国道をよぎり一キロメートル、「赤坂バイパス」のカルバートボックスを抜けて、右の旧道を一キロメートルほどで『勝負銅山跡』につく。赤坂には他にも鉱山伝説があるが、ここの銅山は、千年以上古い開発伝承をもっている。実際に採鉱されたのは、幕末(嘉永頃=一八四八~)から、昭和初期までと言われ、盛んなときは坑夫五〇余名(二〇余世帯)が住んでいた。今でも草木の生えぬ地肌や、いくつかの坑口(マブ)が当時を物語っている。

この銅山の上に、『川上城跡』がある。標高一六一メートルの頂上に、大堀切りを構え、北束の尾根に九段の郭を連ね、主郭には土塁もある。さらに両側の谷の要所には、六条の堅堀もあり、よく整っている。長者伝説をもつ、新庄太郎の末裔という、村上加賀守実秀の城と伝えている。付近には、安井城、狸之城などの関連史跡や、麓に土居、的場、などの関連地名が残っている。

《参考文献》
広島県史、福山市史、福山志料、西備名区、備陽六郡志、沼隈郡誌、広島県の地名、山城探訪、古墳探訪、広島県城館調査報告書、日本地名大辞典(角川書店)、福山藩の砂留(広島県)