2007年10月18日

元禄検地帳正文の謎(福山藩検地帳の行方)

備陽史探訪:79号」より

小林 定市

広島大学所蔵水呑村検地水帳

広島大学所蔵 水呑村検地水帳

水野家四代目福山城主水野勝種が元禄十年(一六九七)八月二十三日に福山で卒去すると、七男の勝岑は同年十二月二十二日に父の遺領を相続した。勝琴の兄達が全て早世したため、一歳で家督を相続する事となったのである。

幼なくして領主となった勝岑は、将軍に襲封の御礼言上の為翌十一年三月福山を出発したが、旅の途中病にかかり五月五日江戸に於いて死去してしまった。領主が不在となった水野家は将軍家に奉公出来なくなり継嗣断絶によって改易となった。

福山十万石は幕府領となり、幕府代官が福山領を支配する事になった。幕府は備後福山領が幕領となった機会に、元禄十二年正月、備前岡山藩に対し福山領の総検地を実施するよう命令を出した。岡山の検地役人は同年五月下旬から検地を実施し、五ヵ月後の十月上旬には山林と薮の検地も完了させ、岡山に全員引き上げて行った。

この時の記録を元にして、後日作成されたのが元禄十三年の検地水帳で、福嶋氏の検地帳や水野時代の坪地詰帳では、六尺五寸の間竿を用い三百歩を一段とし、田畑一筆当たりの収穫高を記入した。

しかし、元禄の検地水帳では前記の方法と異なり、六尺一分の間竿を以て一段三百歩とし、高面積のみを記載し収穫高の記入を留保し、石盛りは幕府が決定した。

検地帳は貢租の基礎台帳になっていたことから、検地帳の正文は藩役所で用いられ、藩役所から広島国税庁に移された後、広島大学に払い下げられた検地帳がある。

水呑村の検地帳が広島大学に収蔵されている事を知り、閲覧願いを申請したところ、大学のご好意により水呑村の寛文十一年の坪地詰帳他・元禄検地帳の閲覧を許可された。本年七月八日大学の図書館で、水呑村の検地帳二十四冊を整理すると驚いた事に、元禄十三庚辰年五月の(『備後国沼隈郡水呑村御検地水帳』四冊之内・壹番帳・弐番帳・三番帳、『沼隈郡水呑村薮年貢小前帳』)が各々二冊、合計八冊の正文を確認する事が出来たのである。

検地帳の正文は各村の役場と、藩役所の双方に一部保管されているものと想定していたが、藩役所に二部保管されていたとすれば、村役場の一部を加えると、正文は三通作成されていた事になる。

一方、水呑村庄屋から村役場、福山市との合併に伴い福山市に移管されたと推定される、元禄検地帳他近代の資料約百四十余点があった。福山市史編纂会の事務局井上仲二郎氏は『福山市史』のあとがきに、

戦災をまぬがれた周辺に於ける市役所の各支所(水呑村)に収蔵されていた、検地帳。その他の重要史料を中央に集め得たことも一つの大きな収穫となりました。

と記され、また昭和四十六年三月に福山市史編纂会から発行された収『蔵者別近世資料目録』の(水呑支所)の欄に、元禄検地帳他に一四六点の記載が見られた。

そこで、昭和六三年五月福山市に対し、水呑の近世近代資料の閲覧を請求したところ、市側から返書による回答は、「資料目録中、福山城文書とありますが、現在のところ文書館には保管いたしておりません。日録編纂時の間違いかと考えられます」との返事に疑間は解消しなかったが、出来れば三冊の正文を一ヵ所に集めて研究したいものである。