1998年12月05日

石田三成の書状―福山城伏見櫓の真実―

備陽史探訪:86号」より

小林 定市

伏見櫓

福山を通る人々に最も日に映りやすい文化財は、重要文化財の福山城伏見櫓だが、この櫓は徳川秀忠が伏見城の松の丸から移築させたと伝えられる建物である。

伏見城はもともと京都伏見の指月(しげつ)の丘に豊臣秀吉が築いた城であったが、慶長元年(一五九六)の地震で城は崩壊。秀吉は直ちに場所諸竣象、指月の北東約五百m先にある木幡山に、木幡山(こわたやま)城(桃山城)の再建を進め、翌年天守閣を完成させている。

慶長五年(一六〇〇)七月、木幡山城は関ヶ原の合戦の前哨戦で西軍の攻撃を受けて炎上したのであるが、戦後、徳川家康によって再建が進められた城である。

福山では希望的な願望からか、伏見櫓は秀吉が築いたとする説が昔から有力であった。すると福山の伏見櫓は炎上を免れた櫓だったのであろうか。現在まで、伏見城全体が確かに炎上したとする史料はまだ明らかにされていない。

そこで築城主を知る手掛かりとして、間接的な史料であるが、築城主が城の中に用いていた家紋がある。

秀吉が伏見城で用いていた家紋は桐紋で、現在再建された伏見城天守閣には、「文禄三年(一五九四)」との陽刻銘が刻ま、透(す)かしの桐紋が入った銅製の鼎が展示されている。また、京都大原の天台宗寂光院の庭にある鉄製の置灯籠伝「豊臣時代の伏見城中の灯籠」にも透かし桐紋がある。

ところで、伏見城から福山城に移転した伏見建造物群の家紋について、『水野家築城記』は

伏見御殿一・風呂屋一・石貳ツ共同時伏見ヨリ拝領ノヨシ葵御紋アリ

と記している。また『備陽六郡志』は「御殿、箱棟に葵の御紋付」と記し、『福山志料』にも「御風呂屋、葵の御紋有」とあり、前記の三史料はいずれも建物に徳川家の家紋があったと記している事から、関ヶ原の合戦後に徳川家康が伏見城を再建させた事を想定させる建造物である。

豊臣秀吉が死に、次いで秀吉に信頼されていた前田利家が死ぬと、老獪(ろうかい)な徳川家康は誓約を無視して豊臣恩顧の大名を籠絡服従させ全権を握ろうとしていた。

慶長五年(一六〇〇)六月、上杉景勝と家康の関係が決裂すると、家康は上杉討伐の大軍を率いて関東ヘと駒を進めるのであるが、留守中の異変を予想し、伏見城を鳥居元忠等に守備させた。

一方、石田三成は家康の東征を機に挙兵し、西国大名の結集を計って伏見城を攻撃した。その西軍に毛利軍は加わるのであるが、攻撃した毛利方の記録に、

「慶長五年七月、鳥居彦右衛門尉伏見籠城に付、大阪より御人数差向けられ候節、御当家より吉川広家(富田月山城主十四万石)様、久留米(小早川)秀包(ひでかね)(久留米城主十三万石)様、毛利元康(神辺城主、深津王子山にも城を築く)様、堅田兵部少輔元慶差向けられ候節、俊久(小野外記允)御人数に加はり、八月朔日落城の節討死仕り候

と『閥閲録』にあることから、備後南部の軍勢は伏見城攻撃に参加し、同城を落城させていたのである。

石田三成は伏見城攻撃の督励(とくれい)に伏見に来ていたが、八月五日、伏見から近江佐和山城に帰城すると、当日早速信濃上田城の真田昌幸に長文の書状を送っているが、その一節に

一、先書にも申し候伏見の儀、内府(家康)留守居の為、鳥居彦右衛門・松平主殿・内藤弥二右衛門父子、千八百余騎楯籠り候。去月十九日より取巻き、当月朔日未の刻、無理に四方より乗込み候為、一人も残らず討果し候。大将鳥居首は、御鉄砲頭鈴木孫三郎討捕り候。しかして城内ことごとく火をかけ、焼討ちに致し候

と『真田軍功家伝記』は伝えている。三成は翌六日にも続いて昌幸宛に次の長文の書状を送っている。

一、先書にも申し候大阪西丸の家康留守居の者、五百余り居り候を追出し伏見城に遣わし、西丸へ輝元(毛利)を移し、其以後伏見城鳥居彦右衛門大将にて千人百余り置き候を、各申し談じ、去る朔日に四方より乗破り、一人残らず打取り城中御殿をば、此の間雑人原踏荒らし候間、ことごとく火を懸け一宇も残らず焼払い候事

と『古今消息集』は伝え、七日には常陸(ひたち)水戸の佐竹義宣にも前書と同様の書状を送っている。すなわち

一、伏見の城に右の者共置候へば、済まざる事に候間、去る朔日四方より乗入れ、籠り居り候者一人も残らず討果す、殿中此の間雑人原踏み散らし候間、一宇も残らず焼捨て候事」

と『上杉氏白河軍記』にもあり、これらを見ると、秀吉が築いた伏見城は、石田三成によって完全に焼却されていたのである。

その後、家康は伏見城の造営に着手した様で、『義演准后日記』の慶長六年(一六〇一)三月十五日の条には、「伏見城へ内府御移徒云々」の記述がある。以上、前記の史料が残されていた事から、伏見城から福山城に移築された諸建造物は、徳川家康が関ケ原合戦後に再建した建物であったことがわかる。