真瀬氏と菖蒲城(福山市神辺町西中条)

備陽史探訪:83号」より

松岡 正三

「西中条村誌」や「神辺町史」には、菖蒲城が西中条 深水奥の東方山頂に存在していたことは、明記されているが、その詳細については、判らなかった。

ところが、最近になって「真瀬中条記」を手に入れることができた。それは真瀬良胤から重宣までの十四代の記録であるが、重宣一代のことは存命中のため、書かれていない。重宣の父 重良が天正十三(一五八五)年七月に亡くなっているので、慶長年間(一五九六~一六一四)に書かれたものらしい。

それを基に、みだしのことについて、纏めてみることにした。

Ⅰ、真瀬良胤、鎌倉から大和を経て、中条ヘ

真瀬良胤は、治承四(一一八〇)年に鎌倉で生まれる。桓武平氏の末裔である。和田合戦の際、建保元(一二一三)年に鎌倉を逃れ、和州吉野の奥の十津川の辺りに漂白する。宇智郡二見村(現 奈良県五条市二見)の岩内平太盛江を頼み、真瀬山に隠蟄する。

承久三(一二二一)年四月、後鳥羽上皇は北条一族を亡ぼさんとして、院宣を下す。(五畿七道の武士に対し)良胤は急ぎ京に上り、官軍に加わる。四月二八日従五位下に叙せられ、掃部之介に任ぜられる。和州宇智郡地頭職に補せられる。家の氏を真瀬と改め、真瀬山に城を築き、四年間を過ごす。

良胤は宇治瀬田へ向かい、北条軍十万余騎と戦い、官軍は敗れた。後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へ流される。(承久の乱)

良胤は官軍が敗れた際、丹波を経て、備後国へ逃れ下り、中条村寒水寺の恵順阿閣梨を頼り、隠蟄する。(良胤の母方の縁者なり。)

良胤が中条に来て、宣胤・重胤・宣常合わせて一〇七年が経過する。それぞれが平家の侍の娘を娶り、常重の時代になる。良胤は、仁治三(一二四二)年二月に没する。

Ⅱ、真瀬常重、船上山へ馳せ参ず。その後尊氏の配下に

真瀬常重は、正慶元(一三三二)年三月、後醍醐天皇が元弘の変の責任により、隠岐の島ヘ流され、翌 正慶二年三月に密かに天皇が名和長年を頼り、船上山に入られることを聞き、馳せ参ずる。

山陽・山陰の武士は、悉く馳せ参ずる。

同年五月には、足利高氏は北と南の六波羅を攻め落とし、新田義貞は相模入道高時一族を攻め滅ぼす。同年六月天皇は京都に戻られる。建武二(一三三五)年七月、相模二郎時行(高時の子)追討の勅命を受けた高氏は東国に向かう。その時、天皇より尊の字を賜う。 一説には正慶二(一三三三)年八月、従三位武蔵守叙任の時、賜うともいう。

尊氏東征に際し、真瀬常重は尊氏の配下になる。遠江・駿河・伊豆・相模における十数回の合戦で、時行を討ち負かす。

尊氏は征夷大将軍になり、新田義貞に難癖をつけるようになり、天皇は勅して、義貞に尊氏を討たせる。延元元(一三三六)年正月、尊氏東国勢を率いて大軍で攻め上るため、義貞・楠木正成・長年等、大渡・山崎・宇治瀬田で防戦するも、官軍利あらず、天皇は比叡山へ。官軍は、両三度京都へ攻め上り、尊氏を討ち負かす。

尊氏は、豊島(てしま)の合戦にも敗れ、九州へ逃れる。真瀬常重は、この時の合戦で、負傷し中条へ帰る。急いで、「とこなつ」の山に城郭を構え、「あやめ」の城と号し、そこに立て籠る。

Ⅲ、菖蒲城について

延元元(一三三六)年三月二日に城取地祭、鍬始めを行い、同年五月六日に完成し即日移る。従って、「あやめ」の城と名付ける。凡そ方三十間(五四・五メートル)の平坦面があり、更に上部が平らで仰視するような巨岩が西隅にあって、自然の「人呼びの丘」をなしていた。ところが昭和三三(一九五八)年に巨岩の粉砕が行われ、本丸の大半を東部から取り崩しており、数年も経たない中に、「人呼びの丘」は姿を消すだろう、と「神辺町史」には述べている。

南方には、約十間(一八・二メートル)に三間(五・四五メートル)の曲輪があり、北方には、岩石の累々とした障害地点をおいて、約三間(五・四五メートル)四方の曲輪が、三箇所存在する。

この城は、天文七(一五三八)年七月八日、真瀬出雲守信直が戦いに破れ、自害し城が焼滅するまで、二〇二年間存在したことになる。

Ⅳ、再び真瀬備中守常重のこと

尊氏は、筑前の国多々良浜の合戦に勝って、九州勢を味方につけ、大軍を率いて攻め上る。延元元(一三三六)年五月、兵庫の合戦では、鞆の津より陸路攻め上った左衛門督直義の配下に、真瀬常重はなる。

官軍は利を失い、湊川で楠木正成が自害し、新田義貞は敗北した。尊氏は天皇を欺き、花山院に押し込める。

これからは、天下は足利の時代となる。康永二(一三四三)年二月に、常重は将軍御教書を賜り、中条村地頭職に補せられる。唐団扇の紋を賜る。貞治三(一三六四)年八月六日没する。

Ⅴ、真瀬出雲守信直のこと、その子 重良のこと

真瀬常重より、信正、重清、重兼、重氏、重時、信包を経て信直に至る。

その間、真瀬氏は尼子方であった。信直の代になって、大内勢に攻められ、妻於イノとともに、城に火を放って自害した。その子、重良は僅か八歳であったが、乳母に付き添われ、久佐村の楢崎三河守豊景を頼って行き、泰源左衛門尉光行に預けられる。天文一七(一五四八)年八月一五日に元服する。この時重良は一八歳であった。烏帽子親は、長大蔵左衛門尉元親であった。父親の信直と朋友であったからという。

天文二二(一五五三)年九月二五日に、泰光行の娘と結婚する。光行は病気勝ちで家督を弟親国に譲る。大永三(一五二三)年には、親国は、尼子経久に滅ぼされる。

天文二三(一五五四)年九月一五日、重良は始めて芸州折敷畑の合戦に臨む。陶晴賢は、毛利元就が大内義隆の弔い合戦を仕掛けて来る、と察知して折敷畑に攻めて来たのである。それより先、天文二〇年八月に、大内義隆は陶晴賢の謀反に遇い、山口を逃れ、長州深川の大寧寺で九月一日に自害している。その跡目として、豊後の大友宗鱗の弟、義長を継がしている。

重良は、五尺七寸(一七六cm)の大男で、腕力抜群であったという。元就の勝利に終り、論功により給金一〇貫を拝領し、名も一字貰って、元朋と改める。

弘治元(一五五五)年一〇月晦日の厳島の合戦では、小早川隆景の配下となり、武勇を顕す。芦田郡鵜飼村で二〇貫の所領を賜る。二日後の一一月二五日には、小早川隆景は元朋を所望し、翌二六日には六〇貫の加増を隆景は元就にお願いして、元朋は合計八〇貫の所領となったという。

永禄一二(一五六九)年九月二〇日、筑州立花の城攻めの時の武功により、鵜飼村一円を賜る。天正一二(一五八五)年四月二八日、予州金子の城攻めにも、名を轟かせたが、傷を負い、小早川隆景に惜しまれながら、七月六日息を引き取った。墓所は小林山にある。

Ⅵ、再び真瀬信直のこと

真瀬常重より信直まで、中条の高 二一七貫余り、石高にして一〇八五石余りを領していた。信直のあとは、宮庄五郎若狭守が、城山跡に楼閣を構えて居城する。

その後中条は、延宝四(一六七八)年九月二八日に、西と東の両村に分かれる。ところで、天文七(一五三八)年七月八日に自害した真瀬信直は、生前信仰心が厚く、享禄二(一五二九)年四月に始めて寺を建立し、興福院と号する。

真瀬氏減亡後は、興福院も類廃したが、再建の施主が現れ、遍照寺と号し、再建された。広山寺の末寺となる。

ちなみに、真瀬信直の戒名は、興福院椿寂寿長居士である。

遍照寺は、山城として宮一族の居城となる。

なお、真瀬良胤から真瀬信直までの十二代の石塔は、寒水寺にある。しかし、真瀬和泉守信包は討ち死しており、出雲守信直は自害しておるため、死骸は葬らず、石塔のみであるという。(平成九年九月十一日記)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png管理人中世史「備陽史探訪:83号」より 松岡 正三 「西中条村誌」や「神辺町史」には、菖蒲城が西中条 深水奥の東方山頂に存在していたことは、明記されているが、その詳細については、判らなかった。 ところが、最近になって「真瀬中条記」を手に入れることができた。それは真瀬良胤から重宣までの十四代の記録であるが、重宣一代のことは存命中のため、書かれていない。重宣の父 重良が天正十三(一五八五)年七月に亡くなっているので、慶長年間(一五九六~一六一四)に書かれたものらしい。 それを基に、みだしのことについて、纏めてみることにした。 Ⅰ、真瀬良胤、鎌倉から大和を経て、中条ヘ 真瀬良胤は、治承四(一一八〇)年に鎌倉で生まれる。桓武平氏の末裔である。和田合戦の際、建保元(一二一三)年に鎌倉を逃れ、和州吉野の奥の十津川の辺りに漂白する。宇智郡二見村(現 奈良県五条市二見)の岩内平太盛江を頼み、真瀬山に隠蟄する。 承久三(一二二一)年四月、後鳥羽上皇は北条一族を亡ぼさんとして、院宣を下す。(五畿七道の武士に対し)良胤は急ぎ京に上り、官軍に加わる。四月二八日従五位下に叙せられ、掃部之介に任ぜられる。和州宇智郡地頭職に補せられる。家の氏を真瀬と改め、真瀬山に城を築き、四年間を過ごす。 良胤は宇治瀬田へ向かい、北条軍十万余騎と戦い、官軍は敗れた。後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へ流される。(承久の乱) 良胤は官軍が敗れた際、丹波を経て、備後国へ逃れ下り、中条村寒水寺の恵順阿閣梨を頼り、隠蟄する。(良胤の母方の縁者なり。) 良胤が中条に来て、宣胤・重胤・宣常合わせて一〇七年が経過する。それぞれが平家の侍の娘を娶り、常重の時代になる。良胤は、仁治三(一二四二)年二月に没する。 Ⅱ、真瀬常重、船上山へ馳せ参ず。その後尊氏の配下に 真瀬常重は、正慶元(一三三二)年三月、後醍醐天皇が元弘の変の責任により、隠岐の島ヘ流され、翌 正慶二年三月に密かに天皇が名和長年を頼り、船上山に入られることを聞き、馳せ参ずる。 山陽・山陰の武士は、悉く馳せ参ずる。 同年五月には、足利高氏は北と南の六波羅を攻め落とし、新田義貞は相模入道高時一族を攻め滅ぼす。同年六月天皇は京都に戻られる。建武二(一三三五)年七月、相模二郎時行(高時の子)追討の勅命を受けた高氏は東国に向かう。その時、天皇より尊の字を賜う。 一説には正慶二(一三三三)年八月、従三位武蔵守叙任の時、賜うともいう。 尊氏東征に際し、真瀬常重は尊氏の配下になる。遠江・駿河・伊豆・相模における十数回の合戦で、時行を討ち負かす。 尊氏は征夷大将軍になり、新田義貞に難癖をつけるようになり、天皇は勅して、義貞に尊氏を討たせる。延元元(一三三六)年正月、尊氏東国勢を率いて大軍で攻め上るため、義貞・楠木正成・長年等、大渡・山崎・宇治瀬田で防戦するも、官軍利あらず、天皇は比叡山へ。官軍は、両三度京都へ攻め上り、尊氏を討ち負かす。 尊氏は、豊島(てしま)の合戦にも敗れ、九州へ逃れる。真瀬常重は、この時の合戦で、負傷し中条へ帰る。急いで、「とこなつ」の山に城郭を構え、「あやめ」の城と号し、そこに立て籠る。 Ⅲ、菖蒲城について 延元元(一三三六)年三月二日に城取地祭、鍬始めを行い、同年五月六日に完成し即日移る。従って、「あやめ」の城と名付ける。凡そ方三十間(五四・五メートル)の平坦面があり、更に上部が平らで仰視するような巨岩が西隅にあって、自然の「人呼びの丘」をなしていた。ところが昭和三三(一九五八)年に巨岩の粉砕が行われ、本丸の大半を東部から取り崩しており、数年も経たない中に、「人呼びの丘」は姿を消すだろう、と「神辺町史」には述べている。 南方には、約十間(一八・二メートル)に三間(五・四五メートル)の曲輪があり、北方には、岩石の累々とした障害地点をおいて、約三間(五・四五メートル)四方の曲輪が、三箇所存在する。 この城は、天文七(一五三八)年七月八日、真瀬出雲守信直が戦いに破れ、自害し城が焼滅するまで、二〇二年間存在したことになる。 Ⅳ、再び真瀬備中守常重のこと 尊氏は、筑前の国多々良浜の合戦に勝って、九州勢を味方につけ、大軍を率いて攻め上る。延元元(一三三六)年五月、兵庫の合戦では、鞆の津より陸路攻め上った左衛門督直義の配下に、真瀬常重はなる。 官軍は利を失い、湊川で楠木正成が自害し、新田義貞は敗北した。尊氏は天皇を欺き、花山院に押し込める。 これからは、天下は足利の時代となる。康永二(一三四三)年二月に、常重は将軍御教書を賜り、中条村地頭職に補せられる。唐団扇の紋を賜る。貞治三(一三六四)年八月六日没する。 Ⅴ、真瀬出雲守信直のこと、その子 重良のこと 真瀬常重より、信正、重清、重兼、重氏、重時、信包を経て信直に至る。 その間、真瀬氏は尼子方であった。信直の代になって、大内勢に攻められ、妻於イノとともに、城に火を放って自害した。その子、重良は僅か八歳であったが、乳母に付き添われ、久佐村の楢崎三河守豊景を頼って行き、泰源左衛門尉光行に預けられる。天文一七(一五四八)年八月一五日に元服する。この時重良は一八歳であった。烏帽子親は、長大蔵左衛門尉元親であった。父親の信直と朋友であったからという。 天文二二(一五五三)年九月二五日に、泰光行の娘と結婚する。光行は病気勝ちで家督を弟親国に譲る。大永三(一五二三)年には、親国は、尼子経久に滅ぼされる。 天文二三(一五五四)年九月一五日、重良は始めて芸州折敷畑の合戦に臨む。陶晴賢は、毛利元就が大内義隆の弔い合戦を仕掛けて来る、と察知して折敷畑に攻めて来たのである。それより先、天文二〇年八月に、大内義隆は陶晴賢の謀反に遇い、山口を逃れ、長州深川の大寧寺で九月一日に自害している。その跡目として、豊後の大友宗鱗の弟、義長を継がしている。 重良は、五尺七寸(一七六cm)の大男で、腕力抜群であったという。元就の勝利に終り、論功により給金一〇貫を拝領し、名も一字貰って、元朋と改める。 弘治元(一五五五)年一〇月晦日の厳島の合戦では、小早川隆景の配下となり、武勇を顕す。芦田郡鵜飼村で二〇貫の所領を賜る。二日後の一一月二五日には、小早川隆景は元朋を所望し、翌二六日には六〇貫の加増を隆景は元就にお願いして、元朋は合計八〇貫の所領となったという。 永禄一二(一五六九)年九月二〇日、筑州立花の城攻めの時の武功により、鵜飼村一円を賜る。天正一二(一五八五)年四月二八日、予州金子の城攻めにも、名を轟かせたが、傷を負い、小早川隆景に惜しまれながら、七月六日息を引き取った。墓所は小林山にある。 Ⅵ、再び真瀬信直のこと 真瀬常重より信直まで、中条の高 二一七貫余り、石高にして一〇八五石余りを領していた。信直のあとは、宮庄五郎若狭守が、城山跡に楼閣を構えて居城する。 その後中条は、延宝四(一六七八)年九月二八日に、西と東の両村に分かれる。ところで、天文七(一五三八)年七月八日に自害した真瀬信直は、生前信仰心が厚く、享禄二(一五二九)年四月に始めて寺を建立し、興福院と号する。 真瀬氏減亡後は、興福院も類廃したが、再建の施主が現れ、遍照寺と号し、再建された。広山寺の末寺となる。 ちなみに、真瀬信直の戒名は、興福院椿寂寿長居士である。 遍照寺は、山城として宮一族の居城となる。 なお、真瀬良胤から真瀬信直までの十二代の石塔は、寒水寺にある。しかし、真瀬和泉守信包は討ち死しており、出雲守信直は自害しておるため、死骸は葬らず、石塔のみであるという。(平成九年九月十一日記)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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