1997年08月09日

悪代官伝承(福山藩天領時代の三代官について)

備陽史探訪:78号」より

小林 定市

テレビの時代物娯楽番組に、水戸黄門等にはよく悪代官が登場してくる。江戸時代、水野家が断絶した事が原因で、福山地方でも元禄十一年(一六八九)八月頃から約二年間、幕府が派遣した代官による、支配が行われた時期があった。江戸幕府直轄の領地を天領と称し、福山地方も天領となった。支配者が代わる時一部の領民の心に変化が生まれていた。

水野家が改易された事で、江戸幕府の直轄地となり、農民撫育・土木普請・年貢収納等の政務を代官が担当していた。福山の代官に任命された幕府下級の旗本は、山木与惣左衛門。曲淵市郎石衛門・宍倉与兵衛の三名であった。余程収奪が厳しかったのか当時の落首に、

山木よりししくら(宍倉)鷲のつかみ取り、まかりふち(曲淵)にそしつ(沈)む百姓

と『福山市史』は伝えている。

江戸時代、身分の高い武家社会では、大量の進物を贈答する慣わしがあった。しかし、身分の低い下級役人には表面的には贈物する事を禁じていた。それでも利益を得る目的で役人に密かに財物を贈り、贈物を受取った役人は目こぼしをする事が横行していた。天領時代沼隈郡水呑村箕島の立木を伐採した事に関して、下記の諸記録が見られる。

水野氏時代の箕島は、不時の用に備えて樹木を保存する禁伐林だったようで、

蓑嶋多ク揚梅実(やまもも)あり、草木はへしけ(生え繁)れり、水野家没落之以後一両年公方の領となり、代官山木与惣左衛門。曲淵市郎石衛門・宍倉与兵衛なと土民よりまいないをとり私欲二より国中の山林を百姓にきらす、これにより蓑嶋も田地となる、其後松平下総守の領となり、又蓑嶋草木しけれり。

と、水野家の旧臣吉田彦兵衛は(『水野記』十二嶋)に、幕府代官の悪政を遠慮会釈なく批判している。

続いて町人が書いた(『福山語傳記』箕島の樹木)には、

水野様御代には、箕島大いに繁り候島にて候を、御公領の時、御代官様へ願い木を伐り盡し山畑に致し申候積二候由、大きなる楠の木、水野様御代に御囲置遊ばされ候を、伐られ他所へ売申候ヨシ、此の御代(松平下総守忠雅)になり候而、御立山に遊ばされ候而今の如く少々茂り申候。

と町人が見聞した箕島山の変貌していった様子を、後々問題となっては困る賄賂の記述を避けるといった、細かな点に迄配慮を巡らし書き綴っている。

次に、阿部家の家臣宮原直倁の記した(『備陽六郡志』外篇。分郡之一)の水呑村蓑嶋に、

往古はことの外茂りたる山にて、楠の大木、其外用木を立置けるか、水野家落去の節、屋吹傳右衛門・三河屋勘臧などというもの切あらし沽却(売却)しける科に因て、両人共に召捕られ、勘臧は牢死し、傳右衛門は死罪に行れけるとかや。

と記し、水野時代は認可されない山林伐採が、代官政治を好機の到来と確信した在地の有力者達は、代官の許可を得て材木の販売迄行った様であるが、少しは続くのではないかと想定していた幕府領時代が、殊の外短かかった為か次の領主松平氏は、入国すると早速事件に関係した者達を処罰した様である。宮原直倁は事件の顛末を中心として死者のみを記しているが、死に至らなかった罪人も相当数いたのでは無かろうか。

幕府三代官の方は上下や笠岡に転勤となっているが、悪事を糾明された記録は全く見当たらない。

同じように利益を得ながら何時も犠牲となるのは、弱者の立場に置かれている庶民達であった。

同じ一つの事件であっても立場が異なると視点は三者三様で、吉田彦兵衛は同じ役人の立場から、幕府が派遣して役人が行った行為を「私腹を肥やす目的で行った悪政」として義憤を感じながら書いた様である。

水野家断絶後行われた元禄検地によって、従来の十万石を新しく十五万石と評価替され、新たに五万石を打出し、その五万石を天領として除外した結果、松平氏は残りの十万石に封じられが、実収は三分の二となっていた。少しでも収入となる筈の材木が売られていたのでは、簡単な刑罰で終わらす訳には行かなかったのであろう。

水野氏も松平氏も同格の大名で、幕府からの拝領した表高は十万石であった。しかし、新しく入部してきた松平氏は転封が重なった関係で、極度の財政難に陥っていた時期での事件であった。