2010年06月10日

没落の謎(備後から長州に移った渡辺氏と法華寺騒動)

備陽史探訪:154号」より

小林 定市

一、長州の渡辺氏

室町時代から戦国時代の初期に、備後守護山名氏から備後国沼隈郡草戸(草土千軒を含む)の代官(領王・守護山名氏)に登用され、山名氏の実権が備後から失われた後は草戸を見限り、実力で山田郷(福山市熊野町)に移って行った渡辺氏がいた。

その渡辺氏も、関ヶ原合戦後は毛利輝元に従い長州に移住したのであるが、知行高の縮小から渡辺四郎右衛門景(出雲守・穆庵)は嫡男の渡辺佐渡信を長州に残し、二男・三男を連れて鞆に帰り後に水野家に仕えた。今回は長州に残った渡辺佐渡信の系統が、信のあと常・宣・繁・直・茂と続くのであるがその間に没落した経緯を追求してみたい。

長州藩に於いては、享保五年(一七二〇)から門閥家の調査に着手し六ヶ年を経て、同十一年に『萩藩閥閲録」を完成させた。所収された諸家数は千百三十四家に及んでいたが、何故か山田郷の渡辺家は『閥閲録』に収載されていなかった。

備後渡辺氏の毛利家に対する、長年の忠節と貢献年数を勘案しながら収録されている諸家の史料と比較すると遜色はなく、『閥閲録』に記載されるべき家筋に含まれることが当然と考えられるが見当たらない。

その後も長州藩に於いては編纂が続けられ、元文年間の頃から天保年間の頃に完成したのが『萩藩譜録』である。この時長州五代目の渡辺三郎左衛門直は、伝来の文書や系図を提出しており、解読された文書が『広島県史』の(『萩藩譜録』七-十八)である。しかし、渡辺氏関係の文書全てが収録された訳ではなかった。

渡辺四郎右衛門常略歴

(『萩藩譜録』七-十八)山口県文書館所蔵

二、長州法華寺の喧嘩囲碁

長州渡辺氏の記録に依ると、長州二代目渡辺四郎右衛門常は、寛永十八年(一六四一)十一月、萩市恵美須町にある日蓮宗松原山法華寺に於いて、萩焼き(御用焼物所)の李勺光の子息、山村新兵衛松庵と囲碁を打って争い刃傷沙汰に及び、深手を負い養生が叶わず翌年五月に死去してしまった。

渡辺常のこの喧嘩碁が原因となり、知行高の縮小を申し渡され高四十石に変更された。当時三代目の吉之丞宣は僅か二歳であったため、吉之丞宣が十五歳の成人を待ち父が死没した経緯を教え敵討ちの機会を狙っていた。

明暦四年(一六五八)二月十五日、有名な法華寺騒動が起こった。吉之丞宣はその十七回忌に、法華寺の西門前に於いて叔父渡辺源助俊の助太刀を得て、念願の山村松庵の仇討ちに成功した。

当時法華寺の本堂は西向きに建っていたが、縁起が悪いとして南面に再建された。また、斬合いがあった西門は不浄門であるとして閉鎖し、毛利一門の家老厚狭毛利家(神辺城主毛利元康の子孫の家系)萩屋敷にあった門を移建して、南表門にしたと『萩市中覚書』は記している。

備後渡辺氏の菩提寺日蓮宗常國寺(福山市熊野町)は、下総日蓮宗中山法華経寺系の京都本法寺を本山としていた。長州に移った渡辺氏も先祖の宗旨を追従し、下総中山法華経寺の第十一世日典上人を開山とする、長州の法華寺と寺縁を結んでいたため同寺で囲碁を楽しんでいたのであろう。

毛利家の吉之丞宣と源助俊に対する処遇であるが、①、吉之丞宣は五人扶持を賜る。②、源助俊も新たに知行を賜り召出される。③、万治四年(一六六一)吉之丞宣は屋敷地を拝領する。④、寛文二年(一六六二)、五人扶持を召上げられ、知行四十石の他に切米三十石を支給されたと書き出している。このように長州の渡辺家は、予想も出来ない家運衰退の運命に遭遇していた。