2010年04月09日

片山城発見記(福山市神辺町・伝説の城は存在するか?)

備陽史探訪:153号」より

小林 定市

足利義昭の事跡に関連して、『中国工程記』の津之郷村の城主を調べていたところ、

此ノ古城山ハ俄山坂邊ノ城卜云ウ、往古ハ鍋島丹後守ノ居城卜云ウ

と書いてあり、何故『備後古城記』の坂部丹後守・阿部十兵衛と城主名が異なるのであろうと考えていた。

『中国工程記』宝歴十二年(1763)

『中国工程記』宝歴十二年(1763)

備後国安那郡神辺村形山(片山)拡大部分図

何気なく少し別の箇所に目を移すと、形(かた)山の引出し線の先に「東ノ方尾筋二堀切二ヶ所矢倉跡」との文字の一部が読めた。神辺町の片山が山城跡であるとの文意が記載されていたのである。また左上方に片山城の別図があり、図面は山城の特徴を巧みに表現してあり、主郭の左右に郭と切岸の省略図が描かれていた。

歴史の町で有名な神辺の先生方が、『中国工程記』の情報を読み落とされる可能性は「万に一つ」も無いものと考えたが、現地を確認することが先決と、二月九日の午前中一人で徒労に終る事を承知で調査に出向いた。

先ず片山の周囲の道を一周した後、自動車を高屋川の堤防に止め堀切とは逆の西側の墓地から登り始めた。山は数年前まで手入れが行われていたらしく、山道跡も残されており苦労することなく登ることができた。四分の三程度登った辺りから郭らしいものが次々に現れ、頂上に設けられた三角点(標高約七十m)のある主郭までに、六郭を確認し南側の側面にも郭跡が見られた。

主郭から更に東方に進むと尾根は次第に低くなり、一番低い所の北側の数m下がった窪地に井戸は掘られていた。後で地元の人に聞いた話によると、山上の井戸を放置しておくことは危険であることから、コンクリートの蓋を造り井戸の上に載せたとのことであった。そのため井戸の調査はあきらめた。しかし、他所の山城跡に比べると高い位置に掘られている。

窪地から緩やかな坂を登ると第二の主郭(二六m×二一m)に到達した。主郭の東は一段と低くなり、中央部には比較的新しい瓦が散乱している。後で地元の人に瓦の所以を聞くと、近代に至り創建された善光寺跡であることが判明した。

瓦の郭で平坦地は終わり、下りの尾根を少し進むと堀切らしきものが見受けられた。この堀切までが『中国工程記』に書かれた山城跡で絵図と現地はほぼ一致している。

片山城跡は福山市神辺町川南にある独立丘陵で、山麓の範囲は東西約四百八十m・南北約百八十mの楕円形となっている。位置は神辺平野の南部に立地し、東方約二km先には神辺城が聳えている。西方を芦田川の本流が南下し、北方より高屋川・加茂川・六間川も合流しており中世は三角州地帯であったものと推測できる。

福山地方の歴史資料に登場しない、片山城跡が城として機能していた最終年代は、天文十六年(一五四七)頃迄ではなかろうか。その事由は村尾城(神辺城の前身城名)の西方約二km先に立地しており、当時の山名理興と大内氏の交戦経緯から、大内方は村尾城より片山城を先に攻略して迂回前進したことは当時の文書からでも明らかである。

築城は高屋川からの攻撃を想定して縄張りがされたらしく、郭は西に集中して設けられており山麓の切岸跡は、後年に至り堤防造りや土砂の採取に民家が建てられている等して不明となっている。

戦国時代の片山城周辺地は、宏大な湿地帯が広がっていたらしく、近世に至り神辺平野において新涯造成が始まるのは慶長十七年(一六一二)からである。場所は片山城の北方に当る二十軒屋村・十九軒屋村・十三軒屋・八軒屋村(四ヶ村)の約六十町歩の新開が一度に開発されている。片山城周辺地区の水田が開発されるのは、排水との関係から元和年中頃かそれ以降であろう。

『中国工程記』は宝暦十三年(一七六三)に、中国道(山陽道)を絵と文章で記録した優良な一級史料で、福山でも三十余年前から展示と複写出版が行われている。目に付く主な出版物を列挙すると、昭和五十二年には神辺郷土史研究会から(『江戸時代の神辺宿』七頁目に掲載)が出版され、続いて昭和五十七年にも神辺郷土史研究会から(『近世神辺宿の町並』四頁目)として連続出版されている。更に平成十二年には県立歴史博物館から(『近世芸備の山陽道』五頁目)が出版され。翌十三年にも福山城博物館から(『絵地図でみるふくやま』裏表紙)が出版されるなど、江戸時代の郷土を知る手掛かりとなる好史料として度々紹介されている。

『中国工程記』の片山城に関係する記述は、

此ノ古城ハ形山ノ城ト云、神辺村ノ川南分ノ城卜云ナリ、此辺ノ田ノ中工入レハ人別足カブレテ難義ス、夫故漆山共云、東ノ方尾根筋二堀切二ヶ所有、矢倉ノ跡多シ、城主知ラズ

と書いてあり、高屋川についても「此川、上御領村ヨリ落来ル」と川の源流まで解説してある。

江戸時代の片山の正確な地名を知る手掛かりとなる史料に、広島大学所蔵の元禄十三年(一七〇〇)の(「備後國安那郡川南村御検地水盤二番帳・三番帳)がある。同帳に記された川南の多くの字の中に、「片山に続く、字の異なる地名の字が六ヶ所、漆山の字が三ヶ所」が記載されている。このように片山と漆山は同じ山でありながら二つの山名の呼称が見受けられた。

先程の御検地水帳に「片山西平そ祢」の畑が「五十筆・総合計の総面積が四反四畝八歩」と記載されている。「片山西平そ祢」とは山頂の郭の土地の嶺を「そ祢」と記載したもので、農民が郭の跡地を畑地に転用したものかそれとも後に郭の周辺地を開墾して畑地を増したのかは不明である。

片山病とは、片山とその周辺の農村でかつて見られた風土病で、日本住血吸虫が原因となって発病する。よどんだ水に生息する宮入貝に寄生する住血吸虫が、水田に入った農民の手足から皮膚から侵入して発生する病気で、最初は小さな湿疹ができ我慢出来ないほど痛く痒くなり、身体はやせ衰え腹ばかり脹れて太鼓のようになり死すという。

片山の死者が一番多かったことから片山病と称される病である。その原因は日本住血吸虫が病因とわかる以前は昔漆を積んだ船が転覆したためと考えられ、そのため片山の別称として漆山の名があった。

片山城跡が判明したことから、村尾城と周辺諸城との関連を再検討する必要性が生まれた。次の文書(『萩藩閥閲録』一〇四-一)は、天文十六年六月二日、大内氏の奉行三人が湯浅元宗に宛てた書状である。

大内氏奉行人(小原隆言・青景隆著・陶隆満)連署奉書。去る四月外郡(深津郡)五ケ(坪生庄の龍王山・福山市坪生町)村の動きの時、勝渡山(正戸山城・福山市御幸町上岩成)の面に至り、毛利方出張の處同陣に有り、御馳走の通り元就(毛利)に注進の趣、慥かに披露せしめ候(以下略)

とあり、従来の村尾城の攻防戦の通説では、村尾城の東南約五km先にある龍王山の戦闘だけが報じられてきた。

しかし実際の戦況は異なり、同じ頃大内・毛利の連合軍の別働隊は、村尾城の西方約三km先にある正戸山城まで交戦しながら進出したことは確実で、芦田川沿いを北進した別働隊は村尾城の東西から挟撃作戦を展開していた。

問題は正戸山城と片山城の関連であるが、筆者個人の見解として、宮次郎左衛門尉の要害(遍照寺山城)との関連から、片山城は正戸山城に先立ち攻略されていた可能性が高く、そのため片山城の命運は天文十六年四月頃に尽きていたものと思考する。