備陽史探訪:147号」より

後藤 匡史

元和五年(一六一九年)八月四日に、水野日向守勝成が備後十万石にて福山入封してから今年、平成二十一年(三〇〇九年)で、三九〇年になる。

初代勝成―二代勝俊―三代勝貞―四代勝種―五代勝琴まで、五代八十年続いたが、元禄十一年(一六九八年)勝琴が二歳にして死に、嗣子が無かった為お家断絶。然し、幕府は名跡を惜しんで結城一万八千石にて復帰したと思っていた。ところが、ある時、新入物往来社、月刊歴史研究をパラバラとめくっていた時このページに眼が止まった。

結城市に残る日記
      渡邊 久志郎

《元禄十六年癸未正月九日我たのみ奉る勝長君、しもふさの国結城の古城地を拝領おはしまし、あらたに城築なさせらるべしといふもかしこき、台命(将軍の命)を蒙らせ給ひぬることそゆかしくめでたかりけれ》

これは茨城県結城市の市史からお借りしたものだが、徳川家康の子である秀康が、豊臣秀吉の猶子(兄弟の子)として天正十八年結城晴朝の息女と婚姻して結城十万石の領主となった。その後関ヶ原合戦で武功を立てて越前国六十万石を戴き、福井城に移封されたのだが、そのあとの結城は、徳川家直轄領となり代官制が約百年も続いてしまった。現在は亡くなってしまったが結城郷土史家石島滴水先生のご本によると、百年続いた代官制によって結城はすっかり退廃してしまい、名城結城城も、荒れ果ててしまったという。そこで時の将軍徳川綱吉は、昔徳川家が岡崎藩主であった頃の縁者であり、徳川幕府を支えてきた旗本でもある、能登国(現在の石川県北部)西谷の城主水野隠岐守勝長に、結城領の立て直しを命じた。当時名君と云われていた水野勝長には、勝れた家臣が多数いた。その中で最も覚えめでたい水野織部長福(おさもと)という家老に、結城の下検分を命じたのである。下命を受けた水野長福は、後世文章家といわれた文筆家で、漢詩・俳句に長じていた。長福は江戸藩邸を立ったときから「結城使行」と題して、日記を書き始めた。その書き出しが、本稿の冒頭にお借りした元禄十六年癸未正月云々という名文なのである。

代官制によって廃れた結城をどう立て直すか、江戸藩邸を出た水野長福は、まず第一の目標である古城の改築に心血を注いだ。

江戸から千住・粕壁(かすかべ)・幸手・野木という道中の中で、下役人達に「覚(おぼえ)」として注意書を渡している。その覚書の中に、当時としては珍しいことが記されていた。

一、御領分之者自然法外之無礼仕懸候共、自分の了簡にてとがめらるべからず。

結城領の者に、なみはずれた無礼があっても、自分だけの了見で処分してはならないというのである。この覚書は十六箇条になっていて、いずれも領民に対し、細心の注意をはらったものである。一行が野木から間々田宿(現在の小山市間々田)に到着したとき、結城の名主三名と組頭一名が、羽織袴をつけて迎えに出ていた。宿泊は次の宿小山で、そこを早く出達した一行は結城領小田林で再び名主や年寄の歓迎を受けた。水野織部長福は休むいとまもなく結城城に入って検分を済ませると城下町を一巡し、その実体を日記に記した。現在結城紬は無形文化財に指定され、結城市財政を豊かにしてきたが、もし代官制のまま明治維新を迎えていたら、あるいは素朴で微妙な技を秘めた美しい絹織物は、時代の風雪の中で消え去っていたのではなかろうかと、私は思っている。結城四十八寺といわれるほど寺の多い街だが、どの寺にも水野家の石碑があって時代を物語っているのである。

(新人物往来社月刊歴史研究 より)

復帰後の年表

◎元禄十一年(一六九八年)水野勝琴、嗣子無く、お家断絶
◎元禄十一年(一六九八年)名跡取立、水野隠岐守勝長、能登西谷一万石
◎元禄十三年(一七〇〇年)勝長、下総結城、武射、山辺三郡一万石
◎元禄十四年(一七〇一年)結城、武射、常陸国真壁、下野国芳賀四郡にて三千石加増、 一万三千石
◎元禄十六年(一七〇三年)結城、真壁、芳賀三郡にて五千石加増、 一万八千石、結城城修築居城す。
◎明治元年(一八六八年)戊辰役にて一千石減封、 一万七千石
◎明治四年(一八七一年)廃藩置県

水野氏略系図

ちなみに水野勝成、福山入封八月四日は私の誕生日。また、このたび第四十四代アメリカ大統領、暫く、いや、バラク・オバマ氏も八月四日、こいつは春から縁起がいいや!

http://bingo-history.net/uploads/2016/02/e6fbce19ee8e0d2108144a56edbc217b.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2016/02/e6fbce19ee8e0d2108144a56edbc217b-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:147号」より 後藤 匡史 元和五年(一六一九年)八月四日に、水野日向守勝成が備後十万石にて福山入封してから今年、平成二十一年(三〇〇九年)で、三九〇年になる。 初代勝成―二代勝俊―三代勝貞―四代勝種―五代勝琴まで、五代八十年続いたが、元禄十一年(一六九八年)勝琴が二歳にして死に、嗣子が無かった為お家断絶。然し、幕府は名跡を惜しんで結城一万八千石にて復帰したと思っていた。ところが、ある時、新入物往来社、月刊歴史研究をパラバラとめくっていた時このページに眼が止まった。 結城市に残る日記       渡邊 久志郎 《元禄十六年癸未正月九日我たのみ奉る勝長君、しもふさの国結城の古城地を拝領おはしまし、あらたに城築なさせらるべしといふもかしこき、台命(将軍の命)を蒙らせ給ひぬることそゆかしくめでたかりけれ》 これは茨城県結城市の市史からお借りしたものだが、徳川家康の子である秀康が、豊臣秀吉の猶子(兄弟の子)として天正十八年結城晴朝の息女と婚姻して結城十万石の領主となった。その後関ヶ原合戦で武功を立てて越前国六十万石を戴き、福井城に移封されたのだが、そのあとの結城は、徳川家直轄領となり代官制が約百年も続いてしまった。現在は亡くなってしまったが結城郷土史家石島滴水先生のご本によると、百年続いた代官制によって結城はすっかり退廃してしまい、名城結城城も、荒れ果ててしまったという。そこで時の将軍徳川綱吉は、昔徳川家が岡崎藩主であった頃の縁者であり、徳川幕府を支えてきた旗本でもある、能登国(現在の石川県北部)西谷の城主水野隠岐守勝長に、結城領の立て直しを命じた。当時名君と云われていた水野勝長には、勝れた家臣が多数いた。その中で最も覚えめでたい水野織部長福(おさもと)という家老に、結城の下検分を命じたのである。下命を受けた水野長福は、後世文章家といわれた文筆家で、漢詩・俳句に長じていた。長福は江戸藩邸を立ったときから「結城使行」と題して、日記を書き始めた。その書き出しが、本稿の冒頭にお借りした元禄十六年癸未正月云々という名文なのである。 代官制によって廃れた結城をどう立て直すか、江戸藩邸を出た水野長福は、まず第一の目標である古城の改築に心血を注いだ。 江戸から千住・粕壁(かすかべ)・幸手・野木という道中の中で、下役人達に「覚(おぼえ)」として注意書を渡している。その覚書の中に、当時としては珍しいことが記されていた。 一、御領分之者自然法外之無礼仕懸候共、自分の了簡にてとがめらるべからず。 結城領の者に、なみはずれた無礼があっても、自分だけの了見で処分してはならないというのである。この覚書は十六箇条になっていて、いずれも領民に対し、細心の注意をはらったものである。一行が野木から間々田宿(現在の小山市間々田)に到着したとき、結城の名主三名と組頭一名が、羽織袴をつけて迎えに出ていた。宿泊は次の宿小山で、そこを早く出達した一行は結城領小田林で再び名主や年寄の歓迎を受けた。水野織部長福は休むいとまもなく結城城に入って検分を済ませると城下町を一巡し、その実体を日記に記した。現在結城紬は無形文化財に指定され、結城市財政を豊かにしてきたが、もし代官制のまま明治維新を迎えていたら、あるいは素朴で微妙な技を秘めた美しい絹織物は、時代の風雪の中で消え去っていたのではなかろうかと、私は思っている。結城四十八寺といわれるほど寺の多い街だが、どの寺にも水野家の石碑があって時代を物語っているのである。 (新人物往来社月刊歴史研究 より) 復帰後の年表 ◎元禄十一年(一六九八年)水野勝琴、嗣子無く、お家断絶 ◎元禄十一年(一六九八年)名跡取立、水野隠岐守勝長、能登西谷一万石 ◎元禄十三年(一七〇〇年)勝長、下総結城、武射、山辺三郡一万石 ◎元禄十四年(一七〇一年)結城、武射、常陸国真壁、下野国芳賀四郡にて三千石加増、 一万三千石 ◎元禄十六年(一七〇三年)結城、真壁、芳賀三郡にて五千石加増、 一万八千石、結城城修築居城す。 ◎明治元年(一八六八年)戊辰役にて一千石減封、 一万七千石 ◎明治四年(一八七一年)廃藩置県 ちなみに水野勝成、福山入封八月四日は私の誕生日。また、このたび第四十四代アメリカ大統領、暫く、いや、バラク・オバマ氏も八月四日、こいつは春から縁起がいいや!備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです