杉原盛重と毛利氏を結ぶ女性(熊谷信直の姪と杉原直良の婚姻)

備陽史探訪:135号」より

木下 和司

一昨年から杉原盛重と毛利氏の関係を調べていて、いつも付き纏う疑問は、なぜ盛重が尼子氏攻略の要衝である伯耆尾高城を任されたかであった。吉川元春・元長・廣家・廣正の四代に仕えた森脇春方が著した『森脇覚書』には毛利氏領国全体の統治を司った評定衆が記されている。毛利氏評定衆に属した武将は以下の三つに分類される。

①毛利氏一門
吉川元春・小早川隆景、宍戸隆家等
②毛利氏「家中」(譜代家臣)
福原貞俊・志道広良・桂元澄等
③外様国衆
天野隆重・杉原盛重

この中で③の外様国衆が毛利氏領国全体の統治に関わることは極めて異質である。なぜ一門でも毛利氏「家中」でもない外様国衆が毛利氏という家の家政に関わったのだろうか。

天野隆重は、安芸国賀茂郡志芳堀を領した小規模な国衆であった。志芳堀は毛利氏の本領である高田郡吉田に隣接しているため古くから毛利氏と親交があり、応永十一年(一四〇四)及び永正九年(一五一二)の安芸国人一揆契状にも志芳堀天野氏の名が認められる。また、天野隆重の母は毛利氏譜代である福原広俊の息女であり、隆重の室は福原貞俊の息女であることから、毛利氏と志芳堀天野氏は深い繋がりのあった事が分かる。このような国衆・天野隆重と毛利氏の微妙な関係について、長谷川博史氏は「安芸国衆保利氏と毛利氏」(内海文化紀要二五)の中で、「国衆」と「家中」の境界と表現している。天野隆重の毛利氏に対する忠誠心には非常に強固なものがあり、永禄六年、豊前国苅田松山城を大友氏の猛攻から単独で守り抜き、また永禄十二年七月には出雲に乱入した尼子勝久の攻撃を月山富田城にて防ぎ切り、毛利氏領国崩壊の危機を乗り切ることに大きな役割を果たしている。

このように天野隆重は地縁・血縁両面から毛利氏の強い信頼を受け、その信頼に実績で応えた安芸国衆であるから毛利氏評定衆にその名を連ねても不思議ではないと考えられる。これに対してもう一人外様国衆でありながら、毛利氏評定衆に名を連ねる杉原盛重はどうであろうか。盛重の出自は備後国衆・山手杉原氏であったとされる。天文十二年(一五四三)から同十八年に渡る神辺合戦において神辺城に籠城していた盛重の活躍を攻城側の吉川元春が見初めて、弘治三年(一五五七)に神辺城主の後継に大抜擢したとされる。盛重の神辺城主としての初見史料は確かに弘治三年二月九日付けで神辺城麓の小領主屋吹氏に給地を与えた宛行状であり、これ以降、粟根氏や横山氏、三吉鼓氏などを率いて石見・出雲・伯耆の対尼子戦に活躍している。

前述の『森脇覚書』によれば、盛重が毛利氏評定衆に加えられるのは永禄五年(一五六三)頃の出雲洗合御陣以来とされる。永禄六年、伯耆の有力国衆である行松氏の病死を受けて盛重は尾高城主となっており(注1)、この頃から毛利氏の評定に参画する資格を得たと考えられる。この時の処遇は神辺からの国替えではなく、神辺城主の地位を維持したまま尾高城を任されており、毛利元就の非常な厚遇を受けていることが知られる。盛重が神辺城主への抜擢を受けてから僅か七年でなぜ出雲尼子氏攻略の要衝たる尾高城を委ねられたのか、これがこの三年間私を悩ました問題であった。元就という人物の慎重な、別の表現をすれば猜疑心の強い性格を考慮する時、「神辺城主になってからの盛重の活躍が素晴しかったから」の一言では片付けられない問題があると思われた。

しかし、この問いに対する答えを見つけることは、残存史料がないために容易ではなかった。が答えを見つける糸回は意外な所にと言うべきか、灯台元暗しの場所にあった。松山東雲女子大学の西尾和美氏が戦国期の芸予関係を女性史の観点から研究されており、その成果を近年、『戦国期の権力と婚姻』として刊行されている。この中で「厳島合戦前夜における芸予の婚姻と小早川隆景」という論文において、芸予間の婚姻を取り上げている。従来は、芸予間の婚姻関係による接近が始まるのは永禄年間以降とされるのに対して、厳島合戦に於ける水軍対策として芸予間に婚姻が結ばれたとされるのである。この婚姻は、宍戸隆家と毛利元就娘・五龍御寮人との間に生まれた女性が小早川隆景の養女として伊予守護・河野通宣に嫁ぐものであり(注2)、根拠としては『萩藩閥閲録』巻六八・杉原与三右衛門家文書に残る「小早川隆景書状」及び「五龍御寮人(宍戸隆家室)書状」が挙げられている。これらの書状は宍戸隆家娘の婚姻に関して、杉原直良室に宛てた書状である。『萩藩閥閲録』の編集者はこの書状の出された時期を永禄十年と推定しているが、西尾氏はこの書状が天文廿三年のものであると推定し、毛利氏と河野氏の婚姻関係が天文二十四年の厳島合戦の水軍衆対策として始まったと考えている。西尾氏は自身の推定を一次史料による裏付けを欠くとしているが、恵良宏氏が『宇部工業高等専門学校研究報告第十二号』に載せた「椙原文書について」の中に裏付けとなる一次史料が存在する。「椙原文書」とは盛重の家系である山手杉原氏に伝来した古文書であり、『萩藩閥閲録』の杉原与三右衛門家文書の原文書に当たる。

前述の「小早川隆景書状」及び「五龍御寮人書状」は杉原直良室が宍戸隆家娘の侍女として伊予に赴くことに同意したことに対する礼状である。『萩藩閥閲録』には載せられていないが、「椙原文書」には河野通宣が天文廿四年二月廿二日付けで杉原直良室に宛てた所領宛行状が存在しており、隆家娘に同行した直良室に化粧料を給与したと考えられる。この天文廿四年の直良室に対する所領給与が通宣と隆家娘の婚姻が天文廿三年であったことを直接的に証明している。

長い前置きを終えて、いよいよ本論である「杉原盛重と毛利氏を結ぶ女性について述べてみたいと思う。前述の二つの書状が永禄十年ではなく天文廿三年に発給されたことにより、山手杉原氏と毛利氏には天文初年頃まで遡る関係が見出されることになる。杉原直良室は熊谷信直の姪に当たる(注3)。「熊谷家系図」によれば、信直の妹が安芸国府中の国人・白井房胤に嫁いで儲けた女性である。この直良室の経歴が盛重と毛利氏を結ぶ鍵となる。「小早川隆景書状」によれば直良室は五龍御寮人の養育した経歴を持っており、五龍御寮人及び毛利氏から厚い信頼を寄せられた女性であった(注4)。つまり、盛重の兄である直良は毛利氏と深い繋がりのある女性を妻としていたのである。直良の次男・春良は天文廿三年に吉川元春から加冠を受けて元服している。当時の武家の元服年齢及び嫡子・直盛がいることを考慮すると、直良の婚姻時期は天文十年以前に遡ることになる。更に直良の「直」は熊谷信直の編諱であると考えられることから、直良の元服前から山手杉原氏と熊谷氏には繋がりが存在したことになり、その関係は天文初年頃まで遡れることになる。天文年間以前、熊谷氏は尼子氏に近く毛利氏とは敵対関係にあったが、天文二年、毛利元就が信直を味方に付けて以来、毛利氏の強力な戦力となっている。つまり、天文初年頃から熊谷氏を媒介として山手杉原氏は毛利氏と繋がりを持っていたことになる。

山手杉原氏と毛利氏の関係が天文初年頃まで遡れること及び毛利氏が厚い信頼を寄せている女性が盛重の兄嫁であったことは、盛重が神辺合戦以前から毛利元就の目に留まり、その知遇を得ていた可能性が強いことを示している(注5)。また、山手杉原氏と毛利氏の関係を媒介したのは、熊谷氏に繋がる女性との婚姻関係である。熊谷信直の嫡女は天文十六年に吉川元春に嫁しており、盛重を神辺城主に抜擢したとされる元春との強い関係も、この婚姻関係から生まれたと推測される。

毛利氏の領国支配に於いて、山陽方面は小早川隆景が担当し、山陰方面は吉川元春が担当し、熊谷信直がその補佐に当たっていた。杉原盛重は信直を媒介として元春とも深い関係を持っていたからこそ、永禄六年頃に対尼子戦線の要衝である伯耆国尾高城を任せられたと考えられるのである。西尾和美氏は、国人領主間の婚姻を媒介としたネットワークが地域権力の基礎を形作り、その上位権力にも影響力を及ぼすと延べられている。以上見てきたように杉原氏と毛利氏の結びつきも、熊谷信直の姪である女性と杉原直良との婚姻を媒介としたものであった。中世史には女性に関する史料は非常に少数であるが、「家」と「家」との関係を考える時、重要な役割を果たす場合が多い。杉原光平の研究に於いても、光平の甥。平政平娘と村上源氏・土御門氏との婚姻が光平という武士の性格を考える上で重要なポイントとなった。今回も、同様に一人の女性がキーポイントとなって盛重と毛利氏の関係を見出すことが出来た。歴史に於いて女性の果す役割を強く再認識することとなった。

(注1)『森脇覚書』に「伯州行松病死之後、後室杉原盛重を被仰合、いずみ山に入城候」とある。
(注2)西尾氏は、五龍御寮人娘は来島通総に嫁ぎ、通総の死後に息子(後の通直)を連れて河野通宣と再婚したとする。しかし、通宣が杉原直良室に直接化粧料を給与していることから見て、婚姻相手は通宣とするべきだと考える。
(注3)『萩藩閥閲録』巻六八・杉原与三右衛門家文書には、直良室は熊谷信直姪にて宮元盛の娘とするが、熊谷系図・白井系図によって白井胤房娘とするべきだと考える。
(注4)「小早川隆景書状」に「五りう御れう人の事、ようせうより御とりそたての事候ま々」とある。
(注5)神辺合戦における山手杉原氏の立場を再考する必要があるが、別稿に譲る事としたい。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1990/11/mouri.gifhttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1990/11/mouri-150x100.gif管理人中世史「備陽史探訪:135号」より 木下 和司 一昨年から杉原盛重と毛利氏の関係を調べていて、いつも付き纏う疑問は、なぜ盛重が尼子氏攻略の要衝である伯耆尾高城を任されたかであった。吉川元春・元長・廣家・廣正の四代に仕えた森脇春方が著した『森脇覚書』には毛利氏領国全体の統治を司った評定衆が記されている。毛利氏評定衆に属した武将は以下の三つに分類される。 ①毛利氏一門 吉川元春・小早川隆景、宍戸隆家等 ②毛利氏「家中」(譜代家臣) 福原貞俊・志道広良・桂元澄等 ③外様国衆 天野隆重・杉原盛重 この中で③の外様国衆が毛利氏領国全体の統治に関わることは極めて異質である。なぜ一門でも毛利氏「家中」でもない外様国衆が毛利氏という家の家政に関わったのだろうか。 天野隆重は、安芸国賀茂郡志芳堀を領した小規模な国衆であった。志芳堀は毛利氏の本領である高田郡吉田に隣接しているため古くから毛利氏と親交があり、応永十一年(一四〇四)及び永正九年(一五一二)の安芸国人一揆契状にも志芳堀天野氏の名が認められる。また、天野隆重の母は毛利氏譜代である福原広俊の息女であり、隆重の室は福原貞俊の息女であることから、毛利氏と志芳堀天野氏は深い繋がりのあった事が分かる。このような国衆・天野隆重と毛利氏の微妙な関係について、長谷川博史氏は「安芸国衆保利氏と毛利氏」(内海文化紀要二五)の中で、「国衆」と「家中」の境界と表現している。天野隆重の毛利氏に対する忠誠心には非常に強固なものがあり、永禄六年、豊前国苅田松山城を大友氏の猛攻から単独で守り抜き、また永禄十二年七月には出雲に乱入した尼子勝久の攻撃を月山富田城にて防ぎ切り、毛利氏領国崩壊の危機を乗り切ることに大きな役割を果たしている。 このように天野隆重は地縁・血縁両面から毛利氏の強い信頼を受け、その信頼に実績で応えた安芸国衆であるから毛利氏評定衆にその名を連ねても不思議ではないと考えられる。これに対してもう一人外様国衆でありながら、毛利氏評定衆に名を連ねる杉原盛重はどうであろうか。盛重の出自は備後国衆・山手杉原氏であったとされる。天文十二年(一五四三)から同十八年に渡る神辺合戦において神辺城に籠城していた盛重の活躍を攻城側の吉川元春が見初めて、弘治三年(一五五七)に神辺城主の後継に大抜擢したとされる。盛重の神辺城主としての初見史料は確かに弘治三年二月九日付けで神辺城麓の小領主屋吹氏に給地を与えた宛行状であり、これ以降、粟根氏や横山氏、三吉鼓氏などを率いて石見・出雲・伯耆の対尼子戦に活躍している。 前述の『森脇覚書』によれば、盛重が毛利氏評定衆に加えられるのは永禄五年(一五六三)頃の出雲洗合御陣以来とされる。永禄六年、伯耆の有力国衆である行松氏の病死を受けて盛重は尾高城主となっており(注1)、この頃から毛利氏の評定に参画する資格を得たと考えられる。この時の処遇は神辺からの国替えではなく、神辺城主の地位を維持したまま尾高城を任されており、毛利元就の非常な厚遇を受けていることが知られる。盛重が神辺城主への抜擢を受けてから僅か七年でなぜ出雲尼子氏攻略の要衝たる尾高城を委ねられたのか、これがこの三年間私を悩ました問題であった。元就という人物の慎重な、別の表現をすれば猜疑心の強い性格を考慮する時、「神辺城主になってからの盛重の活躍が素晴しかったから」の一言では片付けられない問題があると思われた。 しかし、この問いに対する答えを見つけることは、残存史料がないために容易ではなかった。が答えを見つける糸回は意外な所にと言うべきか、灯台元暗しの場所にあった。松山東雲女子大学の西尾和美氏が戦国期の芸予関係を女性史の観点から研究されており、その成果を近年、『戦国期の権力と婚姻』として刊行されている。この中で「厳島合戦前夜における芸予の婚姻と小早川隆景」という論文において、芸予間の婚姻を取り上げている。従来は、芸予間の婚姻関係による接近が始まるのは永禄年間以降とされるのに対して、厳島合戦に於ける水軍対策として芸予間に婚姻が結ばれたとされるのである。この婚姻は、宍戸隆家と毛利元就娘・五龍御寮人との間に生まれた女性が小早川隆景の養女として伊予守護・河野通宣に嫁ぐものであり(注2)、根拠としては『萩藩閥閲録』巻六八・杉原与三右衛門家文書に残る「小早川隆景書状」及び「五龍御寮人(宍戸隆家室)書状」が挙げられている。これらの書状は宍戸隆家娘の婚姻に関して、杉原直良室に宛てた書状である。『萩藩閥閲録』の編集者はこの書状の出された時期を永禄十年と推定しているが、西尾氏はこの書状が天文廿三年のものであると推定し、毛利氏と河野氏の婚姻関係が天文二十四年の厳島合戦の水軍衆対策として始まったと考えている。西尾氏は自身の推定を一次史料による裏付けを欠くとしているが、恵良宏氏が『宇部工業高等専門学校研究報告第十二号』に載せた「椙原文書について」の中に裏付けとなる一次史料が存在する。「椙原文書」とは盛重の家系である山手杉原氏に伝来した古文書であり、『萩藩閥閲録』の杉原与三右衛門家文書の原文書に当たる。 前述の「小早川隆景書状」及び「五龍御寮人書状」は杉原直良室が宍戸隆家娘の侍女として伊予に赴くことに同意したことに対する礼状である。『萩藩閥閲録』には載せられていないが、「椙原文書」には河野通宣が天文廿四年二月廿二日付けで杉原直良室に宛てた所領宛行状が存在しており、隆家娘に同行した直良室に化粧料を給与したと考えられる。この天文廿四年の直良室に対する所領給与が通宣と隆家娘の婚姻が天文廿三年であったことを直接的に証明している。 長い前置きを終えて、いよいよ本論である「杉原盛重と毛利氏を結ぶ女性について述べてみたいと思う。前述の二つの書状が永禄十年ではなく天文廿三年に発給されたことにより、山手杉原氏と毛利氏には天文初年頃まで遡る関係が見出されることになる。杉原直良室は熊谷信直の姪に当たる(注3)。「熊谷家系図」によれば、信直の妹が安芸国府中の国人・白井房胤に嫁いで儲けた女性である。この直良室の経歴が盛重と毛利氏を結ぶ鍵となる。「小早川隆景書状」によれば直良室は五龍御寮人の養育した経歴を持っており、五龍御寮人及び毛利氏から厚い信頼を寄せられた女性であった(注4)。つまり、盛重の兄である直良は毛利氏と深い繋がりのある女性を妻としていたのである。直良の次男・春良は天文廿三年に吉川元春から加冠を受けて元服している。当時の武家の元服年齢及び嫡子・直盛がいることを考慮すると、直良の婚姻時期は天文十年以前に遡ることになる。更に直良の「直」は熊谷信直の編諱であると考えられることから、直良の元服前から山手杉原氏と熊谷氏には繋がりが存在したことになり、その関係は天文初年頃まで遡れることになる。天文年間以前、熊谷氏は尼子氏に近く毛利氏とは敵対関係にあったが、天文二年、毛利元就が信直を味方に付けて以来、毛利氏の強力な戦力となっている。つまり、天文初年頃から熊谷氏を媒介として山手杉原氏は毛利氏と繋がりを持っていたことになる。 山手杉原氏と毛利氏の関係が天文初年頃まで遡れること及び毛利氏が厚い信頼を寄せている女性が盛重の兄嫁であったことは、盛重が神辺合戦以前から毛利元就の目に留まり、その知遇を得ていた可能性が強いことを示している(注5)。また、山手杉原氏と毛利氏の関係を媒介したのは、熊谷氏に繋がる女性との婚姻関係である。熊谷信直の嫡女は天文十六年に吉川元春に嫁しており、盛重を神辺城主に抜擢したとされる元春との強い関係も、この婚姻関係から生まれたと推測される。 毛利氏の領国支配に於いて、山陽方面は小早川隆景が担当し、山陰方面は吉川元春が担当し、熊谷信直がその補佐に当たっていた。杉原盛重は信直を媒介として元春とも深い関係を持っていたからこそ、永禄六年頃に対尼子戦線の要衝である伯耆国尾高城を任せられたと考えられるのである。西尾和美氏は、国人領主間の婚姻を媒介としたネットワークが地域権力の基礎を形作り、その上位権力にも影響力を及ぼすと延べられている。以上見てきたように杉原氏と毛利氏の結びつきも、熊谷信直の姪である女性と杉原直良との婚姻を媒介としたものであった。中世史には女性に関する史料は非常に少数であるが、「家」と「家」との関係を考える時、重要な役割を果たす場合が多い。杉原光平の研究に於いても、光平の甥。平政平娘と村上源氏・土御門氏との婚姻が光平という武士の性格を考える上で重要なポイントとなった。今回も、同様に一人の女性がキーポイントとなって盛重と毛利氏の関係を見出すことが出来た。歴史に於いて女性の果す役割を強く再認識することとなった。 (注1)『森脇覚書』に「伯州行松病死之後、後室杉原盛重を被仰合、いずみ山に入城候」とある。 (注2)西尾氏は、五龍御寮人娘は来島通総に嫁ぎ、通総の死後に息子(後の通直)を連れて河野通宣と再婚したとする。しかし、通宣が杉原直良室に直接化粧料を給与していることから見て、婚姻相手は通宣とするべきだと考える。 (注3)『萩藩閥閲録』巻六八・杉原与三右衛門家文書には、直良室は熊谷信直姪にて宮元盛の娘とするが、熊谷系図・白井系図によって白井胤房娘とするべきだと考える。 (注4)「小早川隆景書状」に「五りう御れう人の事、ようせうより御とりそたての事候ま々」とある。 (注5)神辺合戦における山手杉原氏の立場を再考する必要があるが、別稿に譲る事としたい。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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