2007年02月09日

城館を見直す目(その2)(破壊された大石城跡)

備陽史探訪:134号」より

杉原 道彦

神石高原町父木野村大石城跡について

数年前の台風で、私の生まれ育った神石高原町の山林は、杉やヒノキが倒れ大きな被害をうけました。倒木は商品価値がなく、材木業者にお金を払って木を引き取ってもらう状況にあります。いまも当時の爪あとが残り、山は荒れ林業経営は成り立ちません。昭和40年頃までは、山の本を売って子供を東京の学校に行かせたり、町外に新たに土地を求めたりした時代がありました。時流に乗った人は、一財産を築いた時期でもありました。

去年の初め、材木業者から山の木を売らないかと一本の電話がありました。話を聞くうち、地元の城山の倒木を、重機で進入路を拓いて処分をしたこと。所有者から、城跡にはお宝があると聞いて、主郭部分を重機で掘ったが何も出なかったことを聞きました。残念無念、人様の持ち山では、文句は言えません。山間の山城跡は、永久に保存が可能と高をくくっていたのが間違いでした。話を聞いて早速、現地に向いました。城山は、東側半分の木が、主郭から裾の林道まできれいに伐採されていました。

この山城跡は、以前に『山城探訪』に紹介した大石城のことです。調査当時は杉林に埋もれ、保存状態の良い城跡の一つでした。あらためて全体を見渡すと規模の大きさがわかります。主郭は、南北73m・幅15mあります。手前の郭から先端まで城の遺構は、南北に約200m伸びています。堀切や土塁や虎回は、重機によって破壊されました。当時作成した略測図は、都合で当会の測量調査はできておりません。母と当時五歳の息子とで巻尺を引っ張って作図をしたもので、とても完璧とは言えません。幸い、広島県の中世城館遺跡調査によって、尾多賀晴吾氏作図の大石城の図面で全体を把握することができます。

この地域の山城跡は、『備後古城記』に、藤尾村石屋原山城(いわやはら)・父木野村の2箇所が記されています。この大石城跡は、単に父木野村と表記されています。重機で作られた進入路を辿って破壊された郭を歩くうち、地山を掘り返された土の中から、小石が目にとまりました。手に取ってよく見ると、備前焼の破片でした。しばらくすると赤土の中から、カワラケ(土師質土器)の破片を見つけ城に関連した遺物であることを確認しました。

その後、3回ほど城跡に足を運び51点の陶磁器・土師質土器の破片を収集しました。田口会長の紹介で、県博の鈴木康之氏に鑑定を依頼して、次のことが判明しました。古備前の破片25点は、壷と大甕の一部で、15世紀後半から16世紀前半に作られたものと推定されました。亀山焼の破片8個は甕で、同時代のもの。カワラケの破片7個は、小皿や杯。古墳時代の須恵器の破片7個は、古墳のあった場所に城が作られる例が多く、よく出土する。その他すり鉢の破片1個、青磁の破片1個は小壺の花いれ。壁土の破片1個は、かまどの土のようです。製鉄跡なら中に金クソが混じるそうです。常滑焼の破片1個は大甕で、愛知県で13世紀から14世紀前半に焼かれたもので、作られた時代が限定されているそうです。

以上のことから、城が成立し利用された年代は、遅くても15世紀後半から16世紀前半に城が機能したことが判明しました。常滑焼の大甕の破片が、多数発見されれば陶器が作成され流通した年代から、城の成立年代が13世紀から14世紀に遡る可能性があるそうです。発掘調査によらなければ、詳細は判りませんが、城を守るため常駐して日常的に利用された山城跡の様子が伺えます。偶然に見つけた陶磁器などの破片から、先人の暮らしぶりの一端にふれることができました。主郭には、荒神様が祀られ、その下には刀が埋めてある伝承がありました。山の所有者は、多少の期待を持っていたようです。陶磁器の破片の発見は、城跡の年代特定に大きな成果となりました。

築城に関する資料は、『蘆名郡志』の藤尾村の萩原八幡神社の項に

長享二年成申(1488年)四月十六日、杉原又左衛門尉元信ハ葦浦庄(新市町常)ヲ領シ岩尾城ヲ築キ余材ヲ以神社ヲ再建

永禄七年(1564年)城主入江大蔵少輔ハ領内ノ疫病退散ヲ祈願シ霊験アリ、甲冑・剣・鏡ヲ神社二寄進

と棟札の存在が記してあります。一連の陶磁器などの破片から、この築城記録に符合する遺物であることも判明しました。記録にある岩尾城は、同郡志に岩屋山・石屋山城の記述があり、岩尾は岩屋の誤記と思われます。この城は、その名のとおり岩山を石積みで郭を加工した要害です。神谷川を挟んで相対にある大石城跡は、石積みは見当たらず、地山を削平した土の城に近い対照的な構造を示しています。城の規模や遺物から、大石城は本拠の城として機能していました。

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