備陽史探訪:129号」より

小林 定市

本紙の第百二十七号に、「戊辰福山城攻防戦」を掲載しました。今回は福山城攻防戦を指揮した、長州軍の第四中隊長有地品之丞(男爵・海軍中将)の回想が、『維新戦役実歴談』収載されていたのでそのままを記します。

有地品之丞の先祖は、戦国時代に福山市芦田町の有地村を本拠として活躍していた国人であった。しかし、関ヶ原合戦後毛利輝元に従い長州に移り郷土を去った。

長州軍が尾道に進駐した時期は、慶応三年十二月一日頃であった。備後派遣軍は山口で編成されたらしく、第四中隊は一働きして手柄を立てようと勇んで尾道に進出した。回想文は原文の儘を記す。

國を出発して尾道に行って長い問居った。其の時に丁度京都から報(鳥羽伏見合戦の捷報)が聞こえると、直ちに福山へ迫って、「福山藩では誤って発砲した」と云う様な言い訳であったが、その位だから大した事ではなかったけれども、城に迫って発砲(本庄村圓照寺から臼砲発射)し、其の内に福山侯は謝罪した。其の時の談判には、杉子爵も居られた。尾道に出た兵の総指揮官は堅田大和で参謀が杉孫七郎(枢密院顧問官)、そうして井上侯等が今出頑八とか云う変名で福山と談判に参加されたと思う、其の時の福山藩の謝罪書というものを或る本で見たから序でに茲に掲げて置こう。

回想は初め城攻めから戦勝に至る経過と、終戦交渉を簡略に載せていたが会談内容が判明した。水呑村のお菊の茶屋に於いて、福山藩軍使石川文兵衛は「誤って発砲した」との陳弁に努めていた。

次に書かれていた謝罪書は、表題が(備後福山降参状写)と書かれた写しで、内容は『福山市史』の一一六三頁に載せられている勤皇の「誓約書」と同文で、末尾に「慶応四戊辰正月九日・家老佐原作右衛門他八名が杉孫七郎他三名宛」の年月日と名前があり、同じ文書でも攻撃方は「降参状」籠城方は「誓約書」と喧伝している。

それからまだ福山攻めより前に、尾道に居る内に備後の有地村というのがある。此の有地村は福山領で、数年前に我輩が有地村へ行ったことがある。其の時分に、以前から有地家に縁故のあるものに出会った。彼等は「福山侯に願って帯刀を許して貰いたいということを周旋して貰いたい」とて長州へ頼みに来た事もあるけれども昔の事であるから、他の藩に向いてそんな事を言う訳にはいかぬから其の儘になって居った。然るにこういう時代になったから、農兵というものを福山で拵えた。其の地方ではそんな考えが前からあったから、其の村の平田と云う者が農兵の隊長になったのである。所が長州の兵が尾道へ出て居る時に彼が刀を差してやって来て、段々話を聞くと「今度農兵の隊長となりました」と言うからそれなら、「長州は福山と戦うのだから、お前等が刀を差したのは宜しいが、近い内に戦はなければならぬかも知れぬ」と言うた所が、其の隊長になった奴が、それは勿論表面から言えばそうじやが、「併し戦いが起こったという時分には、我々は隊を率いて長州の命令に従います」と言った。有地村と言う所は、福山から二里半あるが、帯刀を許して貰いたいと言うのは古い時代からの希望で、其の頭分は平田龍右衛門と言うて、其の家は由緒ある旧家であったと見えて、新市と言うところで天王社という古い宮がある。其の宮を我輩の先祖が再建(天正十一年(一五八三)七月)した。其の時分の棟瓦が残って居る。其の棟瓦に刻んであるのが、有地九助の先祖が総裁で、平田龍右衛門の先祖が工事の長(棟札に普請奉行)であった。其の地方では顔の利いた奴だ、龍右衛門の子供が三人居って、其の二人が揃って中隊長や小隊長になって残らず遣って来た。「本当に戦いが始まれば御味方をします」と言ってきた、事があった。

以上で福山関係の記述が終わるが、其の以後京都・東海道・奥州と各地を転戦している。有地氏と旧家臣の信頼関係は崩れること無く、二百七十年近く経過した近世初頭まで続いていた事は驚きである。また籠城戦が長期化した場合、領主の搾取に一揆で対決してきた農民の一部は、表面化しなかったが攻撃軍の支援に回る萌芽を秘めていた。

福山の通説と異なる、長州側の福山戊辰戦争史料を二回に亘って明らかにしてきたのであるが、従来のように史料の収集を一方側にだけ限定していたのでは、都合が悪い記録は抹消や糊塗され、事件や戦争の真相を明白に出来ない事を此の度改めて痛感した。

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