「備陽史探訪:136号」より
根岸 尚克
神石高原町の父木野に長生きの水というPH7で中性の清麗な水が山の中腹から湧き出ている所があり、時折汲みにいっている。順番を待っている間、道の反対側の山道を散歩しながら足元をふと見ると、片栗の花が咲いていて踏みそうになった。目の前の山の中腹にも紅紫色の花があちこちに咲いていて、ここは片栗の群生地だった。水汲み場に戻るとまだ待ち時間があるので、旧道を奥に歩いていく。すると表示板があり、片栗を掘らないでくださいとある。民家があり家の人に聞いてみると、家の前の山道の脇にも随分咲いているから見てくださいといわれて歩いてみると、あちこちに可憐な花がみられる。薮甘草の芽も伸びている。大葉ぎぼうしもある。わさびもあるよと教えてもらった。
水汲みを終えて道の駅で食事を取って、何年か前に訪れた、薮椿で知られる時安の教西寺に向かう。以前訪れた時は椿の花は散っていて再訪を期していた寺である。
教西寺 薬師如来を本尊とする元天台宗の寺院。正和四(一三一五)年、本願寺三世覚如上人の嫡男存覚上人の勧化により真宗となり、形見として阿弥陀仏の尊形を染筆され賜る。存覚上人手植えの薮椿の木があり樹齢七百年、県指定天然記念物、根回り二・四メートル高さ八メートル。私達の他にも三々五々訪れる人があり、住職が応対されている。梵鐘もある。大戦末期に供出されて昭和三十一年再建したものである。薮椿は本堂の前庭にあり、南にやや傾いて立っている。今を盛りと深い紅色の花を咲かせ七百年の星霜を経て尚樹勢衰えず、根元は落花で埋まっている。主幹には三箇所瘤ができている。千年に近い風雪に耐えてきた証である。住職のお話では落花は朝日に良く輝いているがすこしすると色が褪せてくるようである。
地上三メートルあたりで六本に分かれた支幹は箒状に広がり、枝先に紅色の花と約の黄色や花糸の自色が調和して落ち着いた風情がある。
教西寺の九代住職高松了覚(馬屋原正親、別名右京)は、備中高松城との係りの深い人である。父は小畠(神石高原町)九鬼城を築いた馬屋原正国という武将である。右京は戦乱の中、居城の九鬼城が部下の放火により焼け落ちたため、兄弟婿の備中の国賀陽郡高松村の清水宗治のもとに落ち延びた。高松城滞在中の天正十(一五八三)年秀吉による水攻めに遭遇する。高松城が陥落寸前、本能寺の変が勃発。毛利方の申入れで城主清水宗治の切腹により城兵を助命するという和睦が成立。六月四日、白装束の宗治らは秀吉の差し向けた小舟を秀吉陣所前に漕ぎ出し、贈られた酒肴で最後の杯を酌み交わし、「誓願寺」を謡い舞い納めて切腹して果てた。右京は世の無常を感じ、発心して義兄や将兵等の供養の為、高松了覚と名を改め、縁あって教西寺に招聘された。高松は高松城に因む事はいうまでも無い。
【西教寺】
https://bingo-history.net/archives/12128https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/22b89b133ff3b18bd8571cf0de43285f.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/22b89b133ff3b18bd8571cf0de43285f-150x100.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:136号」より
根岸 尚克 神石高原町の父木野に長生きの水というPH7で中性の清麗な水が山の中腹から湧き出ている所があり、時折汲みにいっている。順番を待っている間、道の反対側の山道を散歩しながら足元をふと見ると、片栗の花が咲いていて踏みそうになった。目の前の山の中腹にも紅紫色の花があちこちに咲いていて、ここは片栗の群生地だった。水汲み場に戻るとまだ待ち時間があるので、旧道を奥に歩いていく。すると表示板があり、片栗を掘らないでくださいとある。民家があり家の人に聞いてみると、家の前の山道の脇にも随分咲いているから見てくださいといわれて歩いてみると、あちこちに可憐な花がみられる。薮甘草の芽も伸びている。大葉ぎぼうしもある。わさびもあるよと教えてもらった。 水汲みを終えて道の駅で食事を取って、何年か前に訪れた、薮椿で知られる時安の教西寺に向かう。以前訪れた時は椿の花は散っていて再訪を期していた寺である。 教西寺 薬師如来を本尊とする元天台宗の寺院。正和四(一三一五)年、本願寺三世覚如上人の嫡男存覚上人の勧化により真宗となり、形見として阿弥陀仏の尊形を染筆され賜る。存覚上人手植えの薮椿の木があり樹齢七百年、県指定天然記念物、根回り二・四メートル高さ八メートル。私達の他にも三々五々訪れる人があり、住職が応対されている。梵鐘もある。大戦末期に供出されて昭和三十一年再建したものである。薮椿は本堂の前庭にあり、南にやや傾いて立っている。今を盛りと深い紅色の花を咲かせ七百年の星霜を経て尚樹勢衰えず、根元は落花で埋まっている。主幹には三箇所瘤ができている。千年に近い風雪に耐えてきた証である。住職のお話では落花は朝日に良く輝いているがすこしすると色が褪せてくるようである。 地上三メートルあたりで六本に分かれた支幹は箒状に広がり、枝先に紅色の花と約の黄色や花糸の自色が調和して落ち着いた風情がある。 教西寺の九代住職高松了覚(馬屋原正親、別名右京)は、備中高松城との係りの深い人である。父は小畠(神石高原町)九鬼城を築いた馬屋原正国という武将である。右京は戦乱の中、居城の九鬼城が部下の放火により焼け落ちたため、兄弟婿の備中の国賀陽郡高松村の清水宗治のもとに落ち延びた。高松城滞在中の天正十(一五八三)年秀吉による水攻めに遭遇する。高松城が陥落寸前、本能寺の変が勃発。毛利方の申入れで城主清水宗治の切腹により城兵を助命するという和睦が成立。六月四日、白装束の宗治らは秀吉の差し向けた小舟を秀吉陣所前に漕ぎ出し、贈られた酒肴で最後の杯を酌み交わし、「誓願寺」を謡い舞い納めて切腹して果てた。右京は世の無常を感じ、発心して義兄や将兵等の供養の為、高松了覚と名を改め、縁あって教西寺に招聘された。高松は高松城に因む事はいうまでも無い。
【西教寺】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会