「備陽史探訪:136号」より
小林 定市
1、はじめに
本会の会報第百三十四号に、「福山で一番冷遇されてきた人物」を寄稿して、草戸町の真言宗明王院(中世は真言律宗常福寺)の開基に関連した史料の問題点と経緯を明らかにしてきた。しかし、明王院には弘法大師の創基を裏付ける十一面観音立像と、観音堂の下に古建造物の存在を証明する柱穴群があり、県市の先生方から弘法大師の創基を証明する有力な証拠として肯定されてきた。
そのため県市の説が正しく、長井頼秀説より弘法大師説の方が優ると考えられるであろう。今回は観音堂建立以前の寺史疑惑の解明を進める目的から、柱穴と十一面観音像に付いて新視点から検証を試みる。
2、常福寺観音堂下の柱穴
昭和三十七年から行われた観音堂の解体修理調査で、観音堂下と周辺部及び観音堂の南側岩盤を穿った掘建て柱穴跡六十二箇が発見された。此の柱穴跡こそは観音堂の前身建物を証明する有力な建物跡と推定され、研究関係者から「縁起に云う弘法大師開創の建築遺蹟」であろうとして大きく公表されてきた。
専門家の柱穴鑑定と建造物の復元図「地下調査図」は完璧で、何の疑義を差し挟む余地は無いと思われていた。しかし、重要な観音堂下の十一箇の柱穴は、以外にも建物跡を証明する配置に掘られていなかった。
建物跡と想定され線引きされた方形の柱穴跡(桁行八・八m梁間八・五m)は、北側の四ヶ所(柱穴の間隔寸法が疑問)の柱穴だけで、残りの七箇の柱穴は建物の想定線上より遥か外側の無関係の位置に配置されており、建造物以外の目的で掘られた穴であることが明白となった。
通常建物の柱穴であれば縦横の柱穴間隔の寸法に規則性があり、床下全面に柱穴は掘られている筈であるがその痕跡は全く認められない。四角な建物に必要とされる、西北角(□15を)の隅柱穴跡は確認できず、最も重要で必要な地点に柱穴が掘られていなかったのである。西北角に必要な隅の柱穴が無い事は、建物跡としての主張を根底から崩すもので柱穴の検証が必要である。また、南の桁行八・八mの間には一ヶ所の柱穴も無く、どのような構造で棟の重量を支えるのであろうか。
別図に観音堂の基礎石群と、●印の「弘法大師開創当時の建築遺蹟柱穴跡」説の柱穴を図示すが、調査報告書の通り遺構に柱を建てると建造物の形状とならない。
前記の事由から柱穴が掘られた経緯は、建造物を目的として掘られた柱穴ではなく、建築の補助目的に掘られた足場用の柱穴であったものと推定する。
柱穴跡からは建物を倒した際に埋められた瓦が発見された。この出土した・瓦は柱を抜き去った柱穴跡に、古瓦と土が一緒に埋め戻されたのが原因であった。そのため出土した瓦の年代が判明すれば、建物が何時頃まで利用されたのか明らかにすることが出来た。
南西角の隅柱穴跡(18る)から発見されたのは、室町時代の瓦であった。室町時代の瓦が出土した意味は、学説と異なり建物は室町時代迄確実に存続していたのである。
観音堂南側に掘られた五十一本の柱穴跡を観察すると、柱穴の縦横間隔は適正に配置されていた。柱穴番号⑩からは「南北朝・室町・桃山・江戸時代の平・丸瓦片十五箇」が出土しており、江戸時代初期の瓦が出土した意義は大きく、江戸時代初期まで通説と異なり知られざる三棟の建物が実在していた。
二棟の痕跡を念頭に入れて常福寺時代の建物を再検討すると、南側から五重塔。掘立柱穴の建物二棟・観音堂・阿弥陀堂が北に向かって一直線上に並び建っていたのである。
桃山時代まで場所不詳であった大門は、建立当初の旧様を伝える柱・腰長押・台輪・方立が今もあり、その材質と技法は南北朝時代(五重塔の建立と同時期)の作造とされている。以上建物は大小区々であるが、頼秀の時代に建立された建造物は大門を含めると六棟に及んでいた。
3、十一面観音立像
明王院の本尊十一面観音立像は、大同の開基を裏付ける有力な証拠となる本尊と喧伝されてきた。しかし、十一面観音立像(重要文化財)の制作年代を巡って、専門家の間でも鑑定の結果は不一致となっていた。昭和の解説書(『福山市史」「福山の文化財」)が、平安時代前期の作と鑑定しているのに対し、平成の研究書(『明王院』『埋もれた港町草戸千軒』8)は平安時代後期作と鑑定しており、昭和と平成では約二百年前後も鑑定結果の相違が認められる。
最初に年代を鑑定した福山市は何を根拠に判定したのであろうか。十一面観音立像の作風は、平安時代中期の大仏師定朝(生年未詳~天喜五年 一〇五七)様式の典雅な風貌を伝えており、仏師は定朝様の末流であったと想像できる。前記の事由を考慮して年代を推定すると、十二世紀前後が妥当と考えられる。
仏像は移動することも考慮する必要がある。尾道市の瀬戸田にある耕三寺は、昭和十一年に創建された新寺院である。同寺にも創建と無関係な本尊が祀られており、本堂の木像釈迦如来坐像(重要文化財)は、奈良興福寺に旧蔵された仏像で平安時代の作とされている。このように耕三寺は創建より約九百年も古い仏像を本尊としており、仏像は必ずしも寺の創建と一致しない場合が多い。
仏像に仏師名や年代の銘文があれば問題はないが、無銘の場合は創建とこじつけて発表する事は行き過ぎであろう。従来からの明王院の歴史究明は、最初に「弘法大師の結論あり」とする一貫した方針の下に進められた観がある。
その結果近世に至ると堂塔の建立者頼秀の消去が画策され、明王院の寺史は歪められ弘法大師に結び付けて語られてきた。
明王院の住僧は、室町時代の本山が奈良の真言律宗西大寺であったことや、代々の住持職の任免権を西大寺が掌握していた可能性には思い至らなかったようである。
地頭の長井頼秀が草戸周辺と港湾を掌握しながら、莫大な財力を投入して常福寺を創建したことや、水野時代に水野家の都合で寺院合併が強行され、寺号と法脈が断絶に至ったという史実は忘れ去られていた。
今一度原点に立ち返り、弘法大師創基説の資料を精査すると、初見資料は観音堂が建立されてから三百六十九年後に書かれた棟札であった。
筆者の十九世宥翁は棟札に、「明王密院は相伝えて曰く、大同の年我が弘法大師の創基、数百年来の仏閣宝塔今に尚存ず」と書いており、大同の年に弘法大師が建てた仏閣が元禄三年まで現存すると書いていた。
真先に行わなければならない棟札の真偽鑑定が行われず、誤読と誤解釈から弘法大師の創基説が擁護されてきたのである。結局十九世宥翁は観音堂の起源に就いて、「元応三年を大同の年」「頼秀を弘法大師」に改め、創建年と名前を差し替えた棟札を作製していたのである。
この悪質な換骨奪胎を謀った縁起が、何故何時まで放置されるのであろうか。寺史捏造を見抜けない人達は、弘法大師の牽強付会に賛同して頼秀を否定しても、弘法大師に結び付ける事は時間的に困難である。
原図『国宝明王院本堂修理工事報告書』本堂基礎石と掘立柱穴位置図
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福山で一番冷遇されてきた人物
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小林 定市 1、はじめに
本会の会報第百三十四号に、「福山で一番冷遇されてきた人物」を寄稿して、草戸町の真言宗明王院(中世は真言律宗常福寺)の開基に関連した史料の問題点と経緯を明らかにしてきた。しかし、明王院には弘法大師の創基を裏付ける十一面観音立像と、観音堂の下に古建造物の存在を証明する柱穴群があり、県市の先生方から弘法大師の創基を証明する有力な証拠として肯定されてきた。 そのため県市の説が正しく、長井頼秀説より弘法大師説の方が優ると考えられるであろう。今回は観音堂建立以前の寺史疑惑の解明を進める目的から、柱穴と十一面観音像に付いて新視点から検証を試みる。
2、常福寺観音堂下の柱穴
昭和三十七年から行われた観音堂の解体修理調査で、観音堂下と周辺部及び観音堂の南側岩盤を穿った掘建て柱穴跡六十二箇が発見された。此の柱穴跡こそは観音堂の前身建物を証明する有力な建物跡と推定され、研究関係者から「縁起に云う弘法大師開創の建築遺蹟」であろうとして大きく公表されてきた。 専門家の柱穴鑑定と建造物の復元図「地下調査図」は完璧で、何の疑義を差し挟む余地は無いと思われていた。しかし、重要な観音堂下の十一箇の柱穴は、以外にも建物跡を証明する配置に掘られていなかった。 建物跡と想定され線引きされた方形の柱穴跡(桁行八・八m梁間八・五m)は、北側の四ヶ所(柱穴の間隔寸法が疑問)の柱穴だけで、残りの七箇の柱穴は建物の想定線上より遥か外側の無関係の位置に配置されており、建造物以外の目的で掘られた穴であることが明白となった。 通常建物の柱穴であれば縦横の柱穴間隔の寸法に規則性があり、床下全面に柱穴は掘られている筈であるがその痕跡は全く認められない。四角な建物に必要とされる、西北角(□15を)の隅柱穴跡は確認できず、最も重要で必要な地点に柱穴が掘られていなかったのである。西北角に必要な隅の柱穴が無い事は、建物跡としての主張を根底から崩すもので柱穴の検証が必要である。また、南の桁行八・八mの間には一ヶ所の柱穴も無く、どのような構造で棟の重量を支えるのであろうか。 別図に観音堂の基礎石群と、●印の「弘法大師開創当時の建築遺蹟柱穴跡」説の柱穴を図示すが、調査報告書の通り遺構に柱を建てると建造物の形状とならない。 前記の事由から柱穴が掘られた経緯は、建造物を目的として掘られた柱穴ではなく、建築の補助目的に掘られた足場用の柱穴であったものと推定する。 柱穴跡からは建物を倒した際に埋められた瓦が発見された。この出土した・瓦は柱を抜き去った柱穴跡に、古瓦と土が一緒に埋め戻されたのが原因であった。そのため出土した瓦の年代が判明すれば、建物が何時頃まで利用されたのか明らかにすることが出来た。 南西角の隅柱穴跡(18る)から発見されたのは、室町時代の瓦であった。室町時代の瓦が出土した意味は、学説と異なり建物は室町時代迄確実に存続していたのである。 観音堂南側に掘られた五十一本の柱穴跡を観察すると、柱穴の縦横間隔は適正に配置されていた。柱穴番号⑩からは「南北朝・室町・桃山・江戸時代の平・丸瓦片十五箇」が出土しており、江戸時代初期の瓦が出土した意義は大きく、江戸時代初期まで通説と異なり知られざる三棟の建物が実在していた。 二棟の痕跡を念頭に入れて常福寺時代の建物を再検討すると、南側から五重塔。掘立柱穴の建物二棟・観音堂・阿弥陀堂が北に向かって一直線上に並び建っていたのである。 桃山時代まで場所不詳であった大門は、建立当初の旧様を伝える柱・腰長押・台輪・方立が今もあり、その材質と技法は南北朝時代(五重塔の建立と同時期)の作造とされている。以上建物は大小区々であるが、頼秀の時代に建立された建造物は大門を含めると六棟に及んでいた。
3、十一面観音立像
明王院の本尊十一面観音立像は、大同の開基を裏付ける有力な証拠となる本尊と喧伝されてきた。しかし、十一面観音立像(重要文化財)の制作年代を巡って、専門家の間でも鑑定の結果は不一致となっていた。昭和の解説書(『福山市史」「福山の文化財」)が、平安時代前期の作と鑑定しているのに対し、平成の研究書(『明王院』『埋もれた港町草戸千軒』8)は平安時代後期作と鑑定しており、昭和と平成では約二百年前後も鑑定結果の相違が認められる。 最初に年代を鑑定した福山市は何を根拠に判定したのであろうか。十一面観音立像の作風は、平安時代中期の大仏師定朝(生年未詳~天喜五年 一〇五七)様式の典雅な風貌を伝えており、仏師は定朝様の末流であったと想像できる。前記の事由を考慮して年代を推定すると、十二世紀前後が妥当と考えられる。 仏像は移動することも考慮する必要がある。尾道市の瀬戸田にある耕三寺は、昭和十一年に創建された新寺院である。同寺にも創建と無関係な本尊が祀られており、本堂の木像釈迦如来坐像(重要文化財)は、奈良興福寺に旧蔵された仏像で平安時代の作とされている。このように耕三寺は創建より約九百年も古い仏像を本尊としており、仏像は必ずしも寺の創建と一致しない場合が多い。 仏像に仏師名や年代の銘文があれば問題はないが、無銘の場合は創建とこじつけて発表する事は行き過ぎであろう。従来からの明王院の歴史究明は、最初に「弘法大師の結論あり」とする一貫した方針の下に進められた観がある。 その結果近世に至ると堂塔の建立者頼秀の消去が画策され、明王院の寺史は歪められ弘法大師に結び付けて語られてきた。 明王院の住僧は、室町時代の本山が奈良の真言律宗西大寺であったことや、代々の住持職の任免権を西大寺が掌握していた可能性には思い至らなかったようである。 地頭の長井頼秀が草戸周辺と港湾を掌握しながら、莫大な財力を投入して常福寺を創建したことや、水野時代に水野家の都合で寺院合併が強行され、寺号と法脈が断絶に至ったという史実は忘れ去られていた。 今一度原点に立ち返り、弘法大師創基説の資料を精査すると、初見資料は観音堂が建立されてから三百六十九年後に書かれた棟札であった。 筆者の十九世宥翁は棟札に、「明王密院は相伝えて曰く、大同の年我が弘法大師の創基、数百年来の仏閣宝塔今に尚存ず」と書いており、大同の年に弘法大師が建てた仏閣が元禄三年まで現存すると書いていた。 真先に行わなければならない棟札の真偽鑑定が行われず、誤読と誤解釈から弘法大師の創基説が擁護されてきたのである。結局十九世宥翁は観音堂の起源に就いて、「元応三年を大同の年」「頼秀を弘法大師」に改め、創建年と名前を差し替えた棟札を作製していたのである。 この悪質な換骨奪胎を謀った縁起が、何故何時まで放置されるのであろうか。寺史捏造を見抜けない人達は、弘法大師の牽強付会に賛同して頼秀を否定しても、弘法大師に結び付ける事は時間的に困難である。 原図『国宝明王院本堂修理工事報告書』本堂基礎石と掘立柱穴位置図 <関連記事>
福山で一番冷遇されてきた人物管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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