備陽史探訪:128号」より

小林 定市

神辺城跡

1、史書に登場しない神辺城主

私達が住んでいる郷土福山の歴史は、過去に多くの事件や出来事があってその影響による文化や伝承が現在迄連綿と伝えられていると思われる。そこで正確な郷土史を学ぶ際、最も参考に供されてきた史書が『福山市史』である。

例えば(『福山市史』中巻)の近世編は、慶長五年(一六〇〇)から始まり明治三年頃(一八七〇)まで書き継がれている。その内容は約二百七十年間(福島・水野・松平・阿部時代)に千三百四十余頁に及び、一年当たりに換算すると約四,六頁程度の記載が認められる。

ところが近世に至る直前の、豊臣秀吉から徳川家康に権力が移る大激動期の桃山時代には、朝鮮出兵や関ヶ原合戦があったにも拘らず関連記事が全くなく、約十年に亘る記述は僅か二頁程度と重要な戦闘記録が何も採用されていない。

問題は専門家の先生方が、何故桃山時代史を正しく把握できなかったのかが問題で、邪推すると不作為とも受け取れるのである。桃山時代も近世と同様詳しく解説すると、最低三十~四十頁の記載が可能となり歴史が益々面白くなる。

神辺城主の杉原盛重一族が没落した後、神辺城は約七年間毛利氏の直轄城となっていた。天正十九年(一五九一)出雲の月山富田城から、毛利元就の八男毛利元康(永禄三年一五六〇~慶長六年一六〇一正月)が神辺城主として来城、翌年元康は文禄の役に出陣し毛利輝元の陣代となり毛利軍一万五千人を預けられた。

文禄二年(一五九三)正月二十六日、李如松が率いる明軍十万の大軍が京城を目指して南下、京城を防守する五万の日本軍は進撃して碧蹄館に於いて激突、日本軍の先陣を務めた元康・小早川隆景・立花宗茂等の諸軍が一丸となって戦い大勝した。

関ヶ原合戦の通説では、毛利軍は戦わずして敗退した事になっているが果たして事実であろうか。実は関ヶ原で東軍と西軍が激突する三日前の、慶長五年(一六〇〇)九月十三日に、元康軍は徳川秀忠の義兄に当たる京極高次が守る、二重の濠に囲まれた大津城を陥落させていた。

このように備後神辺城主と深津城主(新城築城中)時代の元康は、両度の合戦に於いて毛利軍の勝利に大きく貢献した勇将であった。しかし、元康が徳川方に勝利したという情報は、徳川政権にとっては大打撃となり領民に知られたくない情報であったことは確かである。

2、徳川秀忠水野勝成派遣の謎

関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は芸備に福島正則を送り込んだ。家康死没すると新将軍の徳川秀忠は、水野勝成が最適任者と思い元和五年(一六一九)七月郡山から備後南部十万石の神辺城主「西国の鎮衛」として送り込んだ。

備南転封に関する従来からの通説は、勝成は剛勇の将として中国地方に最初に配された譜代大名として高く評価されてきた。それでは何故神辺に鎮衛を必要としていたのか、その根本原因に付いては現在まで明らかにされていない。

神辺転封を決定付けたのは、勝成本人の入部希望だけで実現するはずはあるまい。将軍秀忠の神辺地方安定支配の強力な意思に基付いて決定されたことは容易に想像できる。徳川政権安定の為には、備後の毛利色払拭が急務となっていた。

幕府は関ヶ原合戦後の世評には注意を払っていた事であろう。幕府は弱いと侮られては困る訳で「毛利最強の元康軍大津城攻略・徳川秀忠の義兄京極高次が守る大津城陥落」の風評が世間に広がる事の沈静化が最大の急務となっていた。

その為秀忠は神辺城に剛勇の武将の転封を必要としていた。そこで秀忠は家康と異なる見地から勝成の派遣に踏み切ったようである。勝成の転封を決意した秀忠の心境は現在まで明らかにされていないが、余人に窺い知ることのできない秘密の苦悩が存在した筈である。

封建時代の支配者達は支配権を永続させるため、自己に有利な情報は積極的に喧伝し、逆に不都合な情報は徹底的に操作して抹消するよう苦心していたようである。西軍に攻略された街道筋の大津城と伏見城は、徳川方の惨敗を象徴する城だけに早く廃城が決定した。

福山地方では元康時代の関係史料が、意図的に抹消されてきた可能性が濃厚である。そのため元康の事績は徹底して消去されたらしく、江戸時代と比べ桃山時代を研究した史書は極端に少なく、桃山時代史は封印状態となり現代に至る迄解明が中々進捗しない。

3、厚狭毛利家文書

元康の活躍を裏付けるには史料が必要であるが、福山地方には元康関係の事績と史料は抹消されたらしく殆んど伝えられていない。長和庄の領家悲田院の代官となり、草戸と深い関わりを持っていた渡辺氏の根拠地山田郷が、天正十九年に元康の所領に組み込まれる事件が発生した。そこで元康の関係史料を追及していたところ、偶然当時の古文書や古記録から、元康が十年もの間神辺城主となり、桃山時代に朝鮮と大津城で大活躍した武将で、しかも敗戦記録が見当たらない珍しい武将であることが判明した。

毛利元康は初め出雲松江の末次城主であったが、兄元秋の死後跡を継いで月山城主となり後に神辺城主となった。元康と夫人矢野を含めた知行高は、『八箇國時代分限張』に依ると二万四千二十三石余りと少なく目立たない存在であった。

その後の活躍で所領は五万余石に増加していたらしく、元康の子息元宣は長門厚狭に於いて一万五百石を拝領していた。毛利輝元は改易後に家臣の領知高を五分の一程度に縮減しており、神辺時代の正確な記録は見当たらないが、転封前には五万石余を超えていたと見做される。

従来から知られている元康関係の史料は、毛利一門の厚狭毛利家文書として『閥閲録』に十五通収載されているに過ぎなかった。そこで山口文書館に何度も通い調査したところ元康の文書は、子孫の要望で特別に地元の山陽町立厚狭図書館に保管されていたことが判明した。

文書の存在を確認するため厚狭図書館に三度通い、平成十一年四月六日、館長の格別の計らいで未公開史料数十通を見せて頂き大変感動した記憶がある。昨年九月山口文書館を訪ねたところ、新たに『山口県史』が発刊され、同書に「山陽町立厚狭図書館蔵文書・厚狭毛利家文書」が五十六通収載されていた。

4、元康の文禄の役

朝鮮の役当時「毛利輝元は百二十万石、その家臣である元康は僅か二万石余」と所領は少なく、毛利家の研究者からは研究の対象外とされていたらしく、毛利家に対して大した貢献は出来なかったのであろうと軽く考えられてきた節がある。

石高と毛利家や吉川家の史料から推測する限り元康の活躍は殆ど知られていない。しかし、元康は渡鮮後に毛利軍一万五千人の大将として活躍したことは厳然とした事実である。元康の活躍を明確にする目的で、豊臣政権の有力大名の軍勢動員数を記録した「太閤記」を参考に記す。

一万五千人を駆使できた大名は僅少で、備後に関係があった諸将と軍勢記録に「肥前國名護屋在陣衆・総勢十万三千四百十五人」とあり、徳川家康は「一万五千人 武蔵大納言殿」、水野勝成の父水野忠重は「千人 水野下野守」、と記載され、忠重は豊臣秀吉の家臣として千人を動員して肥前に下向した大名であった。

次に「朝鮮国渡海勢・総勢二十万五千五百七十人」とあり、小早川隆景は「一万人 同(羽柴)小早川侍従」、芸備の領主となった福島正則は「五千人 福島左衛門太夫」と記録されている。猶毛利輝元の軍勢は最も多く三万人であった。

渡鮮した毛利輝元は厳しい朝鮮の気候に体調を崩し、余儀無く前線から後退して療養する身となった。そこで輝元は元康を陣代(首将に代わって軍務を統轄)に登用した。予期しなかった主の病で、元康は一躍毛利軍半分の軍勢を指揮する大将となった。一万五千人の軍勢を動員したのは輝元と家康だけで、小早川隆景と福島正則の軍勢を合算した軍勢と同数であった。

他に鍋島直茂一万三千・宇喜田秀家一万・島津義弘一万。加藤清正八千と記録されていても、毛利軍半分に及ばず元康の軍勢は朝鮮で最大となっていた。

いくら輝元の下命で陣代に就いたとしても、元康に作戦能力や人望が欠落していれば毛利の家臣団は従わなかったであろう。在鮮当時の活躍を裏付ける史料として、秀吉が元康宛てに出した朱印状九通が厚狭に伝えられている。

武将の能力は戦闘に於いて最も発揮される、一般の史書は明軍と日本軍の決戦場、碧蹄館での戦いは小早川隆景・立花宗茂等が明軍を破った所として昔から有名である。

しかし、通説と実戦では大きく乖離しており、当時の朝鮮合戦記録と秀吉の朱印状を見る限り、隆景・宗茂・元康宛の朱印状は同文で、元康の働きは隆景・宗茂に勝とも劣らない内容であった。

そのため秀吉は特別に元康の武勲を賞し、褒美として自身の乗馬を朝鮮まで送り届けている。以上元康は文禄の役で、朝鮮派遣総軍勢の十四分の一程度の軍勢を指揮した武将で、知行高の十数倍以上の軍勢と共に朝鮮の山野を駆け巡っていた。

5、元康の関ヶ原合戦

慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原合戦の直前、東軍に味方し大津城に籠城した京極高次軍三千を、西軍から派遣された毛利元康軍一万五千が包囲攻撃して陥落させた。

従来の大津城籠城戦記は、徳川・京極氏側に残された後世の史料を含め編纂され、攻撃した毛利氏側の史料は殆ど採用せず徳川氏に好都合な資料を中心に編纂されていた。そのため多くの史書は中正さを欠落させた内容となっている。

大津城は琵琶湖と東海道に直近した城郭で、現在の浜大津港南方に位置していた。城は家康の特別の援助で大修築され、琵琶湖の水を取り込んだ三重の濠に囲まれ城に改修されていた。外濠の幅は十九間から二十間という大規模なもので、天守は琵琶湖畔に突き出た形となっていた。

高次は最初西軍方として伏見城攻めに参加していたが、家康との密約も有り東軍に鞍替えして九月三日に同城へ籠城した。その際琵琶湖の軍船を城内に引き入れ、逢坂の関と粟津に前衛陣地を設け、防御の柵を造り同時に城外にも陣地を構築した。

輝元は大阪に居た元康を総大将として軍勢と共に派遣した。西軍の先遣隊は逢坂山に近い東海道脇に布陣していたので、後着した元康は陣替えを命じ、三井寺に近い長等山の中腹に本陣を移し、八日から大砲で眼下の大津城に砲撃を加えた。

輝元は第二次援軍として、碧諦館の猛将小早川秀包と立花宗茂を派遣した。十二日秀包と宗茂の援軍が到着すると、軍議を開き総攻撃を十三日と決定、同日暁闇から城の三方から外濠を埋める渡濠作戦を開始した。秀包の記録依ると「晩景に落城に及ぶ」記しており、十三日に高次は降伏したらしく秀包と宗茂は感状を発給している。

徳川氏は敗戦を糊塗するため、大津城攻防戦は京極側が善戦したように装っている。そのため従来の定説では、戦闘は「翌十四日も続いていた」としている。しかし、高野山奥の院にある「大津城討死供養碑」には、「慶長五年庚子九月十三日、大津城中討死之侍衆高次馬廻也、二十二士の名前を列記」と彫られ、定説より秀包の記録の方が正確で僅か一日の総攻撃で陥落させていた。

関ヶ原で勝利を収めた家康が、西軍を追うような形で大津城に入ったのは九月二十日であった。防御施設の破壊の凄さに驚くと同時に前進を停止し、同城に七日間も留まり戦後処理を行なった。その間に京都大阪方面の情報を入手し、石田光成と安国寺恵瓊を捕縛した後に上京した。通説で戦わず後退したことになって居た毛利軍は、京極高次が守る東海道の喉元大津城に派遣され、関ヶ原合戦の前哨戦に於いて快勝していた。京極高次の妻お初(常高院)は秀忠の妻の姉であった。義姉の常高院は元康の大津城砲撃の恐怖を繰り返し秀忠に伝えていたのであろう。城砲撃の恐怖を聞かされた秀忠は、周囲に相談することなく水野勝成の神辺城転封を決意したようである。