草戸千軒を巡る謎(大洪水伝承と草戸村の石高推移)

備陽史探訪:110号」より

小林 定市

今年(平成十四)の正月二日、自動車で草戸大橋を渡っていると、草戸稲荷神社に初詣でしようとする長蛇の自動車で河川敷の駐車場は混雑していた。

駐車場は中世の港町・市場町と推定されてきた草戸千軒遺跡の上に設けられ、現世利益を求める多くの善男善女の参拝者姿が見受けられた。

草戸村の現在まで判明している二つの主な歴史的事実について検討を加えると、慶長五年(一六〇〇)十月福島正則が芸備の領主となり、翌年に実施した福島検地に依って草戸村は誕生しており、同年の検地に依る村高は二五七石余であった。

次に有名なのが草戸千軒の水害で、現在まで『備陽六郡志』の寛文十三年(一六七三)水害説が通説となっている。しかし、古文書学と記録学の立場から地元史料を再検討すると、『備陽六郡志』より約五〇年程早く水野家の家臣吉田彦兵衛が書き残した(『水野記十三』)が『備陽六郡志』より劣る史料とは考え難い。同書は延宝二年(一六七四)に草戸千軒を大洪水が襲い民家が流れ地形が崩れたと記している。古文書史料として両書を比較すると、「備陽六郡志』より『水野記』の方が数段勝る史料であることは確実である。

専門家の先生方による、草戸千軒中洲に新涯が開発されたとする年代は、寛文十年と記されているがどんな確証が用意されているのであろうか。新涯造成から三年経過した寛文十三年に草戸千軒中洲を襲った洪水で、「新涯に洪水が押し入り千軒の町家を押し流した」との説は疑問が残る。

(『福山市史』中巻の第八六図福山の開発)には、福山湾内と草戸千軒中州新涯の造成推定絵図が描かれ、芦田川草戸村中洲新涯地の開発されたとする推定年代として、寛文十年の文字が記入されており、新涯開発絵図を見る限り、草戸村の千軒中洲に農耕文化が始まる時期は寛文十年以降と理解されるであろう。

「福山市史」中巻福山の開発 草戸千軒中州寛文十年開発図
「福山市史」中巻福山の開発 草戸千軒中州寛文十年開発図

その四年後に出版された、山川出版社の『広島県の歴史』と、近年出版された平成十一年版の『広島県の歴史』にも、前記の『福山市史』の草戸新涯開発絵図「寛文十年説」はそのまま採用されている。

寛文の草戸中洲新涯造成は、一度に草戸中洲全体の耕地が造成されたと解釈されたらしいが、草戸村の慶長検地と地形や耕作地面積に付いて子細に検討を加えると、戦国時代以前に中洲で農耕が行われていたことは確実で、実際の新涯造成は小規模造成であったが、史料の検討を行わず大規模新涯造成と拡大解釈されてきた。

私は数年前に、広島大学の付属図書館に草戸村の検地帳(地詰帳)が保管されていることを知り、大学に貴重資料利用許可願を提出し許可を得て検地帳を書写した。この検地関係資料を基にして、草戸千軒水害が発生した以前の村高と、その後に開発された新開の実態に追ってみたい。

水野氏は、領内一斉地詰を寛文十一年に実施しているが、草戸村では三年後の延宝二年に襲った大水害で、農地が大被害を受け地詰の記録が役立たなくなったのであろう。被災した農地が復旧し農耕の見通しがついた、延宝九年に再度の地詰を実施したのであった。草戸村に近い川口村と多治米村でも延宝二年の水害で堤防が決壊し延宝九年に地詰を行っている。

次に実情が不明であった江戸時代の草戸村は、東側の芦田川下流域の土砂堆積でできた中洲地区と、西側の草戸山側の山裾傾斜地に早くから開発されてきた田畑に二分できる。

芦田川は中洲の左右(東方・西方)と中央の三派に分流。西方を流れる前川と、中央の中川に、野上村の境を流れる東川(鷹取川・淀川)と、三本の川を区別する呼称が付けられていた。この草戸千軒中州遺跡上の農耕地は、水位の関係から水田には向かず畑地となっていた。江戸時代前期から中期頃にかけて宏大な中洲に痩せた砂畑が広がっており、中洲の耕地は水害のため絶えず増減を繰返し変動していた。

明王院がある西方の山裾側は、低い山が連なり洪水の影響を受けにくい地区で、耕作に適した主な耕地の地区は半坂地区であった。草戸村は平地と低い山から流れ出る水量が少ない村で、延宝九年の地詰に依ると草戸村の田地は、僅か二町七反歩と他村に比べ信じられない程の小面積であった。

隣接する他村の田畑案分面積を参考にして、半坂地区の畑地面積を推定すると約四町歩程度が適当な面積となる。半坂地区の田畑を合計した、総面積七町歩弱が西側山裾傾斜地の耕地であった。東側中洲の耕地面積は草戸村の総面積から、半坂分の七町歩を差し引いた残り面積が草戸中洲の耕地面積ということになる。

前記の計算式を適用して村高の推移を見ると、延宝九年頃の草戸中洲の耕地面積は約三十七町歩余と減少していたが、十八年経過した元禄十年には三十五町歩も増加し、中洲の総面積は約七十二町歩となり桃山時代の作高にほぼ回復していた。

草戸千軒水害を記した史料は『備陽六郡志』の他に、『備陽六郡志』より約三十年も以前の寛保元年(一七四一)頃に、水野家の台所役人五兵衛の曾孫娘が書いた、『一本福山語伝記』に草戸新開を築造した経緯と場所を特定できる記載が見られる。

同書の中に、「草戸川を水呑の沖まで土手を築き中渡りと申す所を、明王院前の川計りに一と流れにして、東の方を新涯に致し候へば勝手の由、江戸者願いにて仰せ付けられ程なく大方に出来候」と記しており、中洲の東方に江戸者が新涯を造成した事が判明する。複雑な説明であるが江戸時代の前期には、草戸中洲に慶長六年以前(中世の中洲新涯)から存在していた西側常福寺前の中洲耕地と、寛文年間の終頃に草戸中洲東に、江戸者が新たに築造し不首尾に終わった面積不詳の江戸者新涯跡が存在していた。

江戸時代中期の福山城下を記した地図に、「草戸中洲の中央北東部に切土手跡数ヶ所」を記す地図があり、切土手跡は草戸水害伝承を伝えた江戸新涯の場所とほぼ一致する。場所は草戸町の一丁目と二丁目当りで、昔の地名坊寺(榜示)から小松原当りの西方で、同地が江戸者新涯の土手跡らしい。現在まで江戸者新涯の面積を明らかにする資料は明らかにされていないが、水野家の役人が開発に関与していなかった事を考慮すると、十~二十町歩程度の小規模の新涯開発だったと考えられる。

草戸千軒の発掘が始まって約四十年、専門家による草戸村の検地史料調査と解明は全く進められていない。

伝承の江戸者新涯(草戸中洲東北部新涯)造成説が、誤った先入観によって過大に評価された結果、草戸中洲新涯は全て寛文十年頃に開発されたとする、出典史料が何も無い根拠不詳の学説が近年になって生まれた。

検地の前置きが長くなったが、草戸村の村高の推移は別表の通りで、慶長六年の検地高は二五七石余であったが、九六年後の元禄十年の村高は二四三石余と約十四石も減少しており、慶長六年の面積が知られていないので単純比較は出来ないが、草戸中洲での生産高は減少又は横這いであった。

延宝二年の大水害で、草戸千軒が蒙った被害の規模であるが、水害の修復を終えた延宝九年の地詰高は百六十石弱で慶長検地より百石も減少していた。この時水害の影響を受けなかった草戸半坂分の出来高を差し引いた出来高が当時の草戸中洲の出来高となる。半坂の田高二五石余に、畑高(四町歩×約五斗代)二十石を合計した約四五石が半坂地区一帯の田畑推定作高である。

慶長六年・福島検地 推定草戸村半坂・千軒中州高
慶長六年・福島検地 推定草戸村半坂・千軒中州高

不正確な推定計算であるが、百六十石弱から半坂分の約四五石を差し引いた、残りの約百十五石程度が草戸千軒中洲の出来高であった。専門家の先生方の草戸中洲新涯開発説は寛文十年と発表されていても、信じられないことであるが事実は全く逆で、洪水の影響を受けた草戸中洲の耕地は荒廃し生産高は慶長六年を基準にすると約五四%に半減していた。

草戸村の村高は、延宝二年の草戸千軒水害以降農民の多大な水害復旧作業の努力によって、二五年経過した元禄十年(一六九七)になって、やっと福島正則が入部した百年前と同じ水準の村高、三百五十石を回復させることに成功した。

中世草戸村一帯の支配権について、主な通説は長和庄の領家悲田院が支配したと主張されてきた。しかし、草戸の支配権(代官職)を行使していた渡邊氏の史料によると、備後守護山名時熈(應永の初期)の頃から、山名氏は草戸の支配権を掌握していた。幕府と渡辺氏の領地を巡る主従関係は何もなく、渡辺氏は山名氏から草戸の代官職を与えられており、草戸の支配権は守護山名氏が保持していた。草戸村と草戸千軒は山名氏の守護領又は守護請地だった可能性が高い。

草戸中洲における、農耕の始まりが中世の何時頃からどのように進められたか明らかにする史料は現在まで明らかにされていない。しかし、福島正則が入部してから検地を実施するまでの一年間に、草戸中洲新涯が開発されたとは考え難く、慶長検地の約二五七石は福島正則が入部するより以前の村高を示すもので、桃山時代に備後南部を支配した毛利元康時代の村高が慶長検地の村高と考えられる。

水野時代の草戸村は、城下近村という実情から入作者は他村の農民の他に、水野家の家臣・商人・武家の奉公人・足軽外の雑多な職業従事者が多かったため、年貢の取立てが難しく集めるのに苦労するとか、水害が多い痩せた少面積の砂畑等の特殊事情を配慮して、水野家の検地役人は特別に緩い検地(御救検地)を実施してきた。

ところが水野家が断絶し、備前池田藩が実施した元禄検地は水害常襲村といった特殊事情に何の配慮を廻らさない過酷な検地で、草戸村の村高は厳しく査定され、二四三石から一挙に三倍近い四五二石余と決定した。草戸村民にとって三百九石の増加は年貢の大幅な年貢増を想定させ、村の存続に影響を与える大問題となっていた。

増加の最大の要因は、草戸村を毎年のように襲う水害に何の配慮を廻らさず、水害のない時期に反当りの収穫高(石盛)を無水害年の想定で決定したことが最大の要因であった。

草戸村民は非常に厳しい元禄検地対応策として、水野氏から幕府代官に代って入部した松平氏の役人に、草戸村の百姓達は村の水害による窮状を訴え、四百五十石余の検地高に付いては「百姓共相続仕り難い」と嘆願した。すると松平氏の役人も温情して、村作高の中より御用捨引きとして毎年百三石二斗五升の定引きを決定。その結果草戸村の新村高は三百四十九石四斗弱と定められた。以後阿部氏の時代にも引続き村高の定引きが継続して認められている。

福山城下側の新涯は度々沖だしされて新涯は西方に拡大造成され、城下町を水害から護るため堅固な大堤防が野上村側に築かれた。しかし、草戸村には脆弱な堤防しか認められず、草戸村堤防の土量は野上村側堤防の四分の一程度の貧弱な堤防であった。草戸村に強固な堤防を築造させ、万一野上村側の堤防が先にでも決壊する事態に到ると、城下町の水没は免れず草戸村の水害と引換えに福山城下町の安全は確保されていた。

城下町繁栄のため、芦田川の川幅は洪水の水量を考慮せず必要以上に狭められていた。江戸時代末頃の川幅は、明王院前の前川が五十七間・中川十間・鷹取川五十三間・合計百二十間程度で、三本合せた平均的な芦田川の川幅は約二百三十mであった。

現在、昭和初期改修後の川幅は三百六十六mあり、改修前の川幅は現在より約百四十六mも狭い川であった。

他に「芦田川には吉津川があった」と疑問を持たれるであろうが、江戸時代の吉津川は福山城下町の水道水を確保するといった特殊目的から、本庄村の上流河先(後の地名高崎・幸崎)から堤防を設けて導水しており、河先に樋門を設け洪水の際には樋門を下し濁流水の流入を防除していた。そのため吉津川は飲料水を城下町に供給する導水路に変り、洪水の際には河川としての役割が失われていた。

草戸村の農民達の農作業に対する最大の願望は、畑作中心の困苦から早く脱却し、他村の農民と同様に稲作中心の農業に転換する事であった。中世以来草戸中洲では相変わらず畑作中心の農耕が続いていたが、現在のように水稲の作付けが出来るようになるのは明治中期以降なのである。

草戸村の東方、深津郡に野上新涯村・多治米村・川口村の堤防が完成して約百七十経過した天保八年(一八三七)頃になると、芦田川の川床に土砂の堆積量が増加して河床が高くなり、中洲との高低差がかなり縮小されていた。水位の上昇で河水を畑に導水する事が容易となり、稲作付けの環境が次第に整うと稲作の好機到来と「堰設置」の嘆願書を阿部藩に提出した。

堰の運動をした人物は、北村利兵・小林総七・戸原仙次郎・高橋弥助・佐藤周兵衛・高田富蔵・稲垣周蔵の七氏であった。しかし、大方の予想に反し堰の効果は挙がらず、約百五十町歩の耕地では依然として豆や麦が獲れるのみで稲作は進まず、耕地は湿地化が進んだだけで村民は悲嘆に暮れていた。

この悪条件を水閘(水の流れを調節する水門をつくり開閉させる設備)で、打開しょうと立ち上がったのが小林六兵氏であった。明治二十三年(一八九〇)に中川の上坊寺に水閘を設置して中洲の導水に成功した。しかし、大正八年七月の大水害を契機に芦田川は大改修され、中川の水閘設備は不要となり整地されたため、現在では水閘跡地は不明となった。

川幅が十間あった中川は、現在は川幅五m前後の狭い農業用の用水路に変貌し、草戸町の芦田川の東側堤防下を堤防沿いに南流している。

天保年間には、大量の土砂が芦田川に堆積した時期で、草戸の銭取橋から南方千六百m余の堤防上に、芦田川を浚渫した土砂を以って天保年間に築いた大砂丘を天保山と称していた。大正十四年に『国土地理院』が発行した福山地図には、草戸中洲に天保山の六・五mの記入があり、当時の記録では日本で一番低い山だったらしいが芦田川の改修で消滅してしまった。

現在大阪市港区安治川河口の天保山が、日本一低い山として盛んに喧伝している。しかし、大正十二年に発行された『国土地理院』の大阪湾地図には天保山七・二mと記入されており、草戸と大阪の天保山の高さを比較すると、大阪の天保山が七十cm高く草戸の天保山が日本一低かった。大阪の海遊館に近い天保山は天保二年に、安治川を浚渫した土砂を積上げて出来た山で、当初の高さは十八m余あったが地盤沈下などで次第に低くなり現在の標高は四・五m。大阪では登山証明書まで発行して「日本一低い天保山」の宣伝に懸命である。山でも消えたり次第に低くなる世の中である、誤りのない多くの正確な記録を次の世代に残したいものである。

和暦西暦開発石高合計石高田畑作付町別備考
慶長六年1601257.7不詳六尺五寸竿
延宝二年1674草戸大水害
延宝九年1681159.444.74水害後初検地
元禄三年169066.2225.770.91
元禄五年169213.5239.277.40
元禄十年16974.0243.279.31
元禄十三1700452.6107.93池田検地
元禄十五1702‐103.3349.4107.93検地評価替
宝永八年1711107.93定引-103.3
享保二年17175.4354.8110.66
享保十六17310.9355.8110.88
宝暦十年17600.4356.2111.02
安永三年17745.0361.2111.18
寛政六年17946.2367.4114.32
文化十二18150.5367.9114.56

広島大学所蔵 草戸検地帳

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その四年後に出版された、山川出版社の『広島県の歴史』と、近年出版された平成十一年版の『広島県の歴史』にも、前記の『福山市史』の草戸新涯開発絵図「寛文十年説」はそのまま採用されている。 寛文の草戸中洲新涯造成は、一度に草戸中洲全体の耕地が造成されたと解釈されたらしいが、草戸村の慶長検地と地形や耕作地面積に付いて子細に検討を加えると、戦国時代以前に中洲で農耕が行われていたことは確実で、実際の新涯造成は小規模造成であったが、史料の検討を行わず大規模新涯造成と拡大解釈されてきた。 私は数年前に、広島大学の付属図書館に草戸村の検地帳(地詰帳)が保管されていることを知り、大学に貴重資料利用許可願を提出し許可を得て検地帳を書写した。この検地関係資料を基にして、草戸千軒水害が発生した以前の村高と、その後に開発された新開の実態に追ってみたい。 水野氏は、領内一斉地詰を寛文十一年に実施しているが、草戸村では三年後の延宝二年に襲った大水害で、農地が大被害を受け地詰の記録が役立たなくなったのであろう。被災した農地が復旧し農耕の見通しがついた、延宝九年に再度の地詰を実施したのであった。草戸村に近い川口村と多治米村でも延宝二年の水害で堤防が決壊し延宝九年に地詰を行っている。 次に実情が不明であった江戸時代の草戸村は、東側の芦田川下流域の土砂堆積でできた中洲地区と、西側の草戸山側の山裾傾斜地に早くから開発されてきた田畑に二分できる。 芦田川は中洲の左右(東方・西方)と中央の三派に分流。西方を流れる前川と、中央の中川に、野上村の境を流れる東川(鷹取川・淀川)と、三本の川を区別する呼称が付けられていた。この草戸千軒中州遺跡上の農耕地は、水位の関係から水田には向かず畑地となっていた。江戸時代前期から中期頃にかけて宏大な中洲に痩せた砂畑が広がっており、中洲の耕地は水害のため絶えず増減を繰返し変動していた。 明王院がある西方の山裾側は、低い山が連なり洪水の影響を受けにくい地区で、耕作に適した主な耕地の地区は半坂地区であった。草戸村は平地と低い山から流れ出る水量が少ない村で、延宝九年の地詰に依ると草戸村の田地は、僅か二町七反歩と他村に比べ信じられない程の小面積であった。 隣接する他村の田畑案分面積を参考にして、半坂地区の畑地面積を推定すると約四町歩程度が適当な面積となる。半坂地区の田畑を合計した、総面積七町歩弱が西側山裾傾斜地の耕地であった。東側中洲の耕地面積は草戸村の総面積から、半坂分の七町歩を差し引いた残り面積が草戸中洲の耕地面積ということになる。 前記の計算式を適用して村高の推移を見ると、延宝九年頃の草戸中洲の耕地面積は約三十七町歩余と減少していたが、十八年経過した元禄十年には三十五町歩も増加し、中洲の総面積は約七十二町歩となり桃山時代の作高にほぼ回復していた。 草戸千軒水害を記した史料は『備陽六郡志』の他に、『備陽六郡志』より約三十年も以前の寛保元年(一七四一)頃に、水野家の台所役人五兵衛の曾孫娘が書いた、『一本福山語伝記』に草戸新開を築造した経緯と場所を特定できる記載が見られる。 同書の中に、「草戸川を水呑の沖まで土手を築き中渡りと申す所を、明王院前の川計りに一と流れにして、東の方を新涯に致し候へば勝手の由、江戸者願いにて仰せ付けられ程なく大方に出来候」と記しており、中洲の東方に江戸者が新涯を造成した事が判明する。複雑な説明であるが江戸時代の前期には、草戸中洲に慶長六年以前(中世の中洲新涯)から存在していた西側常福寺前の中洲耕地と、寛文年間の終頃に草戸中洲東に、江戸者が新たに築造し不首尾に終わった面積不詳の江戸者新涯跡が存在していた。 江戸時代中期の福山城下を記した地図に、「草戸中洲の中央北東部に切土手跡数ヶ所」を記す地図があり、切土手跡は草戸水害伝承を伝えた江戸新涯の場所とほぼ一致する。場所は草戸町の一丁目と二丁目当りで、昔の地名坊寺(榜示)から小松原当りの西方で、同地が江戸者新涯の土手跡らしい。現在まで江戸者新涯の面積を明らかにする資料は明らかにされていないが、水野家の役人が開発に関与していなかった事を考慮すると、十~二十町歩程度の小規模の新涯開発だったと考えられる。 草戸千軒の発掘が始まって約四十年、専門家による草戸村の検地史料調査と解明は全く進められていない。 伝承の江戸者新涯(草戸中洲東北部新涯)造成説が、誤った先入観によって過大に評価された結果、草戸中洲新涯は全て寛文十年頃に開発されたとする、出典史料が何も無い根拠不詳の学説が近年になって生まれた。 検地の前置きが長くなったが、草戸村の村高の推移は別表の通りで、慶長六年の検地高は二五七石余であったが、九六年後の元禄十年の村高は二四三石余と約十四石も減少しており、慶長六年の面積が知られていないので単純比較は出来ないが、草戸中洲での生産高は減少又は横這いであった。 延宝二年の大水害で、草戸千軒が蒙った被害の規模であるが、水害の修復を終えた延宝九年の地詰高は百六十石弱で慶長検地より百石も減少していた。この時水害の影響を受けなかった草戸半坂分の出来高を差し引いた出来高が当時の草戸中洲の出来高となる。半坂の田高二五石余に、畑高(四町歩×約五斗代)二十石を合計した約四五石が半坂地区一帯の田畑推定作高である。 不正確な推定計算であるが、百六十石弱から半坂分の約四五石を差し引いた、残りの約百十五石程度が草戸千軒中洲の出来高であった。専門家の先生方の草戸中洲新涯開発説は寛文十年と発表されていても、信じられないことであるが事実は全く逆で、洪水の影響を受けた草戸中洲の耕地は荒廃し生産高は慶長六年を基準にすると約五四%に半減していた。 草戸村の村高は、延宝二年の草戸千軒水害以降農民の多大な水害復旧作業の努力によって、二五年経過した元禄十年(一六九七)になって、やっと福島正則が入部した百年前と同じ水準の村高、三百五十石を回復させることに成功した。 中世草戸村一帯の支配権について、主な通説は長和庄の領家悲田院が支配したと主張されてきた。しかし、草戸の支配権(代官職)を行使していた渡邊氏の史料によると、備後守護山名時熈(應永の初期)の頃から、山名氏は草戸の支配権を掌握していた。幕府と渡辺氏の領地を巡る主従関係は何もなく、渡辺氏は山名氏から草戸の代官職を与えられており、草戸の支配権は守護山名氏が保持していた。草戸村と草戸千軒は山名氏の守護領又は守護請地だった可能性が高い。 草戸中洲における、農耕の始まりが中世の何時頃からどのように進められたか明らかにする史料は現在まで明らかにされていない。しかし、福島正則が入部してから検地を実施するまでの一年間に、草戸中洲新涯が開発されたとは考え難く、慶長検地の約二五七石は福島正則が入部するより以前の村高を示すもので、桃山時代に備後南部を支配した毛利元康時代の村高が慶長検地の村高と考えられる。 水野時代の草戸村は、城下近村という実情から入作者は他村の農民の他に、水野家の家臣・商人・武家の奉公人・足軽外の雑多な職業従事者が多かったため、年貢の取立てが難しく集めるのに苦労するとか、水害が多い痩せた少面積の砂畑等の特殊事情を配慮して、水野家の検地役人は特別に緩い検地(御救検地)を実施してきた。 ところが水野家が断絶し、備前池田藩が実施した元禄検地は水害常襲村といった特殊事情に何の配慮を廻らさない過酷な検地で、草戸村の村高は厳しく査定され、二四三石から一挙に三倍近い四五二石余と決定した。草戸村民にとって三百九石の増加は年貢の大幅な年貢増を想定させ、村の存続に影響を与える大問題となっていた。 増加の最大の要因は、草戸村を毎年のように襲う水害に何の配慮を廻らさず、水害のない時期に反当りの収穫高(石盛)を無水害年の想定で決定したことが最大の要因であった。 草戸村民は非常に厳しい元禄検地対応策として、水野氏から幕府代官に代って入部した松平氏の役人に、草戸村の百姓達は村の水害による窮状を訴え、四百五十石余の検地高に付いては「百姓共相続仕り難い」と嘆願した。すると松平氏の役人も温情して、村作高の中より御用捨引きとして毎年百三石二斗五升の定引きを決定。その結果草戸村の新村高は三百四十九石四斗弱と定められた。以後阿部氏の時代にも引続き村高の定引きが継続して認められている。 福山城下側の新涯は度々沖だしされて新涯は西方に拡大造成され、城下町を水害から護るため堅固な大堤防が野上村側に築かれた。しかし、草戸村には脆弱な堤防しか認められず、草戸村堤防の土量は野上村側堤防の四分の一程度の貧弱な堤防であった。草戸村に強固な堤防を築造させ、万一野上村側の堤防が先にでも決壊する事態に到ると、城下町の水没は免れず草戸村の水害と引換えに福山城下町の安全は確保されていた。 城下町繁栄のため、芦田川の川幅は洪水の水量を考慮せず必要以上に狭められていた。江戸時代末頃の川幅は、明王院前の前川が五十七間・中川十間・鷹取川五十三間・合計百二十間程度で、三本合せた平均的な芦田川の川幅は約二百三十mであった。 現在、昭和初期改修後の川幅は三百六十六mあり、改修前の川幅は現在より約百四十六mも狭い川であった。 他に「芦田川には吉津川があった」と疑問を持たれるであろうが、江戸時代の吉津川は福山城下町の水道水を確保するといった特殊目的から、本庄村の上流河先(後の地名高崎・幸崎)から堤防を設けて導水しており、河先に樋門を設け洪水の際には樋門を下し濁流水の流入を防除していた。そのため吉津川は飲料水を城下町に供給する導水路に変り、洪水の際には河川としての役割が失われていた。 草戸村の農民達の農作業に対する最大の願望は、畑作中心の困苦から早く脱却し、他村の農民と同様に稲作中心の農業に転換する事であった。中世以来草戸中洲では相変わらず畑作中心の農耕が続いていたが、現在のように水稲の作付けが出来るようになるのは明治中期以降なのである。 草戸村の東方、深津郡に野上新涯村・多治米村・川口村の堤防が完成して約百七十経過した天保八年(一八三七)頃になると、芦田川の川床に土砂の堆積量が増加して河床が高くなり、中洲との高低差がかなり縮小されていた。水位の上昇で河水を畑に導水する事が容易となり、稲作付けの環境が次第に整うと稲作の好機到来と「堰設置」の嘆願書を阿部藩に提出した。 堰の運動をした人物は、北村利兵・小林総七・戸原仙次郎・高橋弥助・佐藤周兵衛・高田富蔵・稲垣周蔵の七氏であった。しかし、大方の予想に反し堰の効果は挙がらず、約百五十町歩の耕地では依然として豆や麦が獲れるのみで稲作は進まず、耕地は湿地化が進んだだけで村民は悲嘆に暮れていた。 この悪条件を水閘(水の流れを調節する水門をつくり開閉させる設備)で、打開しょうと立ち上がったのが小林六兵氏であった。明治二十三年(一八九〇)に中川の上坊寺に水閘を設置して中洲の導水に成功した。しかし、大正八年七月の大水害を契機に芦田川は大改修され、中川の水閘設備は不要となり整地されたため、現在では水閘跡地は不明となった。 川幅が十間あった中川は、現在は川幅五m前後の狭い農業用の用水路に変貌し、草戸町の芦田川の東側堤防下を堤防沿いに南流している。 天保年間には、大量の土砂が芦田川に堆積した時期で、草戸の銭取橋から南方千六百m余の堤防上に、芦田川を浚渫した土砂を以って天保年間に築いた大砂丘を天保山と称していた。大正十四年に『国土地理院』が発行した福山地図には、草戸中洲に天保山の六・五mの記入があり、当時の記録では日本で一番低い山だったらしいが芦田川の改修で消滅してしまった。 現在大阪市港区安治川河口の天保山が、日本一低い山として盛んに喧伝している。しかし、大正十二年に発行された『国土地理院』の大阪湾地図には天保山七・二mと記入されており、草戸と大阪の天保山の高さを比較すると、大阪の天保山が七十cm高く草戸の天保山が日本一低かった。大阪の海遊館に近い天保山は天保二年に、安治川を浚渫した土砂を積上げて出来た山で、当初の高さは十八m余あったが地盤沈下などで次第に低くなり現在の標高は四・五m。大阪では登山証明書まで発行して「日本一低い天保山」の宣伝に懸命である。山でも消えたり次第に低くなる世の中である、誤りのない多くの正確な記録を次の世代に残したいものである。 和暦 西暦 開発石高 合計石高 田畑作付町別 備考 慶長六年 1601 257.7 不詳 六尺五寸竿 延宝二年 1674 草戸大水害 延宝九年 1681 159.4 44.74 水害後初検地 元禄三年 1690 66.2 225.7 70.91 元禄五年 1692 13.5 239.2 77.40 元禄十年 1697 4.0 243.2 79.31 元禄十三 1700 452.6 107.93 池田検地 元禄十五 1702 ‐103.3 349.4 107.93 検地評価替 宝永八年 1711 107.93 定引-103.3 享保二年 1717 5.4 354.8 110.66 享保十六 1731 0.9 355.8 110.88 宝暦十年 1760 0.4 356.2 111.02 安永三年 1774 5.0 361.2 111.18 寛政六年 1794 6.2 367.4 114.32 文化十二 1815 0.5 367.9 114.56 広島大学所蔵 草戸検地帳備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ