2004年06月21日

備後を造った人々(三)(平家の滅亡から戦国時代まで)

備陽史探訪:118号」より

田口 義之

平家谷の謎

平家の滅亡と鎌倉幕府の成立は、『平家物語』という国民的叙事詩を生むと共に、西日本の各地に「平家谷」の伝承を残した。備後にも古くから平家谷と称される場所は二ヶ所ほど知られている。沼隈町の横倉と、甲山町伊尾の今は三川ダムの底に沈んだ地がそれだ。中でも甲山の平家谷は信憑性が高い。甲山町一帯は平清盛が経営した「大田庄」の故地である。また、『平家物語』によると平家滅亡後、都で頼朝の命を狙ったという平家の遺児平知忠は、「備後の国大田」という所に隠れ住んでいたという。「大田」は即ち大田庄の伊尾のことである。一方の沼隈の平家谷の伝承も捨て難い。こちらも清盛が厳島参詣の中継地に使ったという「敷名泊(同町敷名)」が近くにあり、源平合戦で能登守教経が陣を敷いたという「能登原」の地名も残っている。だが、史実と伝承の間には深い断絶が存在する。平家の滅亡から、これらの伝承が記録された江戸時代の後期まで、七百年という歳月が流れているのである。

備後守護土肥実平

一一九二年、征夷大将軍に任ぜられて鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、御家人を守護と地頭として全国に派遣し、政権の基盤を固めた。守護は国々に一人置かれ、国内の治安維持と御家人の統制にあたった。初代の備後守護として派遣されたのは頼朝の重臣土肥実平であった。実平は相模国(神奈川県)土肥郷を本拠とした関東武士で、頼朝の挙兵には当初より参加し、石橋山の合戦で切腹しようとした頼朝に「大将の切腹にはそれなりの作法があるもの」と諌めたことで有名である。源平合戦では、山陽道を進んだ源範頼軍の侍大将として備後に進駐し、平家滅亡後もそのまま備後に留まって初代の備後守護となった。しかし、実平の備後支配は長くは続かなかった。荒荒しい関東の作法をそのまま備後に持ち込んだ実平は、国内の旧勢力の猛反発を受け、朝廷の圧力により罷免されてしまった。この後、実平は備後守護の代りに安芸国沼田荘(豊田郡本郷町)の地頭職を与えられ、子孫は安芸の豪族として発展した。これが戦国時代、毛利の「両川」として名を馳せた小早川氏の起こりである。

国人領主

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉がある。なるほど鎌倉幕府が各地に派遣した地頭は強力な武力を持っていた。彼らは本来東国の有力武士であった。彼らは『鎌倉殿』源頼朝のもとに結集して日本最初の武家政権『鎌倉幕府』を樹立し、鎌倉殿頼朝の分身として各地の荘園に地頭として派遣された。だが、当初はイメージのような強力な存在ではなかった。地頭の役目は武力によって庄内の治安を維持することと年貢を徴収して荘園領主に送ることであった。そして、その報酬として土地と年貢の一部を与えられた。つまり、最初は領主でも何でもなかったのだ。ところが、彼らは武力を持っていた。しかも荘園の内部には他にライバルはいなかった。そうなると、彼らは『欲』をだす。いろいろと言いがかりをつけて庄内の土地を自分のものにしていく。こうして南北朝時代を迎える頃には荘園をほとんど自分のものにし、荘園領主には名目的な年貢を送るだけになった。『国人領主』の誕生である。

渡辺氏と一乗山城

戦国時代の旅人は、海路を取る人は、まず鞆に上陸し、ここから山越えに山田郷(現在の熊野町)に入る。当時、ここには古記録に「山田と言える町あり」とあるように鞆への交通の要衝として栄えていた。この道は熊野水源地から寺坂峠へ至る道といえばご存知の方も多かろう。春の桜の名所として知られている熊野水源地の土手に立って水源地を眺めると正面にきれいな三角形の小山が目に付く。これが戦国時代、山田を本拠に鞆にも晩みをきかせていた備後国人渡辺氏の居城「一乗山城跡」である。上り回は土手を渡って渡辺氏の創建した日蓮宗常国寺の門前を通り、三百メートルほど進むと、左に看板が立っている。つづら折りを登ると神社の参道に出る。城の鎮守七面大天女の参道だ。神社の背後の堀切を越えると城郭に入る。本丸を中心に三段に削平された小規模な城跡だが、竪堀・石垣・土塁などが良く残っている。城主の渡辺氏は、越前からの流れ者である。室町の初め、渡辺高と云う者が草戸千軒にやってきて、所の代官となった。4代目の越中守兼は目端の利いた男で、宮・山名・山内と有力者の間を上手く泳ぎ、最後には毛利氏の備後計略に協力して山田の領主となり、この城を築いた。今も常国寺には、彼の木像が残っているが、意外にも表情は理知的だ。

九州探題渋川氏

渡辺氏が本拠を置いた山田(現熊野町)から南に峠を越えると、その名の通り「山に南」の沼隈町山南に入る。下るにしたがって開けた地域で、備後名産の畳表の本場として有名なところである。この地は南北朝時代以来、室町幕府の「御一家衆」という高い格式を持った渋川氏が支配したところだ。渋川氏は室町時代初期以来、室町幕府の九州支店というべき九州探題として権勢を振るったが、室町末期になると九州土着の大友氏や竜造寺氏によって九州から追い出され備後にやって来た。備後には、山南のほか御調郡八幡荘などを京都と九州を往来するときの中継地として南北朝時代から領有していたからだ。

備後に本拠を構えたのは探題教直の孫といわれる義陸(よしみち)である。義陸は八幡荘(三原市八幡町)の小童山城に本拠を置き、精力的に活動した。自身の正妻には備後きっての豪族宮氏の娘を迎え、息子の義正の妻には隣国安芸で頭角を現していた毛利元就の妹を迎えた。山南では土豪の桑田氏や岡本氏を家来として従え、中山南の要山に「矢栗城」を築いて沼隈半島に呪みをきかせた。一時は、山南はおろか西に山を越えた藁江荘(現金江町・藤江町一帯)をも支配下に置き、尼子・大内両勢力の間にあって備後の大名として重んぜられた。だが、三代目の陸景に子どもが無く、あっけなく滅んでしまった。天正元(一五七二)年のことである。

瀬戸の三谷一族

現在の瀬戸町は、比較的新しい町名である。江戸時代までは、地頭分、長和、山北の三か村に分かれていた。水の少ない地域で、江戸時代の初め、山北に「瀬戸池」が築かれ、豊かな田園地帯になった。瀬戸の町名はこの瀬戸池による。

中世、この付近は「長和荘」と呼ばれた大きな荘園であった。大字長和はその名残で、荘域は現在の瀬戸町から、佐波、神島、草戸、水呑、田尻にまで及んでいた。有名な「草戸千軒」遺跡は、この荘園の年貢積み出し港として発展した港町である。

瀬戸町には、片山城や別所城など多くの山城跡が残っている。それらの城主として名前を残しているのが三谷一族だ。同氏の素性ははっきりしない。だが、少なくとも室町時代の初期には地頭分に土着していた。現在の真言宗福成寺は同氏の氏寺的存在だったと推定され、室町以来の古い墓石が多数残っている。

以来、地域の支配者が山名、杉原、水野と替わっても土豪としてしぶとく生き抜き、各方面で活躍した。近いところでは、山手に分家した三谷家出身で、三菱財閥の重役から転じて昭和一九年九月から二一年三月まで福山市長を務めた三谷一二氏がいる。

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