「備陽史探訪:116号」より
田口 義之
水野勝成と阿部正弘
福山と政治家について考えてみる。
といっても現代の政治家諸氏ではない。歴史上の人物だ。初めに思い浮かぶのは水野勝成だろう。彼は備後十万石の大名として、福山城を築き、福山の城下町を建設した。現在の福山市の基盤が彼によって築かれたことを思うと、まず、第一に挙げなければならない歴史上の政治家だろう。だが、日本史の上で果たした役割を考えると、勝成よりも阿部正弘である。勝成はいわゆる歴史上の大政治家ではない。彼が我々にとつて大事なのは、この福山の基礎を築いたことである。それに対して正弘は違う。日本を明治維新へと導いた歴史上の大立者なのである。正弘の行なった政治を『安政の改革』という。今日の教科書で江戸幕府の四大改革の最後を飾ったことで有名なあれである。
「幕府を滅ぼしたものは阿部正弘なり」という明治の評論家の名言がある。人材の登用といい、外様大名の幕政参与といい、全て彼の行なった政治は明治維新への道を開くものであった。幕府の立場から見ればそれは徳川家の覇権を崩す基となった。だが、もし彼のこの英断がなかったらその後の日本はどうなっただろうか。勝海舟や西郷・大久保は世に出ず、日本は違った近現代史を持ったはずだ。
もう少し、阿部正弘の話を続けよう。正弘は早熟な政治家であった。十七歳で幕府に出仕し、二十二歳で幕府三奉行の一つ、寺社奉行に任ぜられ、二十七歳で老中筆頭【現在の総理大臣】に就任した。歴代老中に任ぜられるのが例であった阿部家に生まれたとは言え、これは異例である。抜群の切れ者であったことは紛れもない。
有名な話がある。寺社奉行の時の話だ。歴代の奉行が判決を避けてきた事件があった。表面は僧侶の不義密通事件であったが、その僧侶は大奥に隠然たる影響力を持っていた。幕府の影の内閣「大奥」を敵に廻すことは出世の階段を踏み外すことと同じであった。これに対して正弘は大奥に遠慮することなく法に照らして僧侶を処罰した。正弘の理路整然とした判決に大奥の非難は全くなかったという。正弘には柔弱不断のイメージがあるが、それは間違いである。福山藩主としても同様である。正弘は藩政の改革に当たって封建制度と全く矛盾する政策を断交した。「仕進法」がそれだ。それまで藩の役職には禄高に応じて役が充てられていた。家老の子は家老になった。ところが、正弘はこれを改め藩校誠之館で試験を実施し、合格したものを官吏に登用しようとした。これは「封建制度」の否定である。正弘は三十九歳で惜しくも病死したが、「もし」正弘があと十年生きていたら、と思うのは私だけではあるまい。
吉備太宰石川王
弥生時代、私たちの住む瀬戸内沿岸部に「吉備の国」と呼ばれる大きなクニがあった。この国は奈良盆地を本拠とした大和の国と手を結んで大きな国を作った。邪馬台国、すなわち日本最初の統一国家である。しかし、「両雄並び立たず」の言葉通り、この両者の仲は次第に険悪になり、やがて大和の勢力が吉備の勢力を押さえ天下をとった。大和朝廷の誕生だ。吉備の国は大和の支配下に入った。だが、古墳時代の終わり頃になってもまだまだ侮れない勢力を持っていた。七世紀後半、内乱に勝ちぬいて強大な国家を作った天武天皇は、この吉備の国を分割することを思いついた。天皇は腹心の石川王を吉備に派遣して、この政策を実行させた。石川王は吉備の太宰として善政を敷き、平穏に吉備の分割を実施した。吉備はこの時「備前」「備中」「備後」の三国に分かれた。我々が住む備後の国の誕生である。六七九年、石川王は任地で没した。人々は石川王の善政を称えて、彼を神として祭った。これが芦田町に今も残る「国司神社」の由来である。石川王の素性は知れない。ただ、正史は、王が壬申の乱で天武天皇に味方したこと、そして、吉備の太宰として任地に没したことを語るだけである。
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田口 義之 水野勝成と阿部正弘
福山と政治家について考えてみる。 といっても現代の政治家諸氏ではない。歴史上の人物だ。初めに思い浮かぶのは水野勝成だろう。彼は備後十万石の大名として、福山城を築き、福山の城下町を建設した。現在の福山市の基盤が彼によって築かれたことを思うと、まず、第一に挙げなければならない歴史上の政治家だろう。だが、日本史の上で果たした役割を考えると、勝成よりも阿部正弘である。勝成はいわゆる歴史上の大政治家ではない。彼が我々にとつて大事なのは、この福山の基礎を築いたことである。それに対して正弘は違う。日本を明治維新へと導いた歴史上の大立者なのである。正弘の行なった政治を『安政の改革』という。今日の教科書で江戸幕府の四大改革の最後を飾ったことで有名なあれである。 「幕府を滅ぼしたものは阿部正弘なり」という明治の評論家の名言がある。人材の登用といい、外様大名の幕政参与といい、全て彼の行なった政治は明治維新への道を開くものであった。幕府の立場から見ればそれは徳川家の覇権を崩す基となった。だが、もし彼のこの英断がなかったらその後の日本はどうなっただろうか。勝海舟や西郷・大久保は世に出ず、日本は違った近現代史を持ったはずだ。 もう少し、阿部正弘の話を続けよう。正弘は早熟な政治家であった。十七歳で幕府に出仕し、二十二歳で幕府三奉行の一つ、寺社奉行に任ぜられ、二十七歳で老中筆頭【現在の総理大臣】に就任した。歴代老中に任ぜられるのが例であった阿部家に生まれたとは言え、これは異例である。抜群の切れ者であったことは紛れもない。 有名な話がある。寺社奉行の時の話だ。歴代の奉行が判決を避けてきた事件があった。表面は僧侶の不義密通事件であったが、その僧侶は大奥に隠然たる影響力を持っていた。幕府の影の内閣「大奥」を敵に廻すことは出世の階段を踏み外すことと同じであった。これに対して正弘は大奥に遠慮することなく法に照らして僧侶を処罰した。正弘の理路整然とした判決に大奥の非難は全くなかったという。正弘には柔弱不断のイメージがあるが、それは間違いである。福山藩主としても同様である。正弘は藩政の改革に当たって封建制度と全く矛盾する政策を断交した。「仕進法」がそれだ。それまで藩の役職には禄高に応じて役が充てられていた。家老の子は家老になった。ところが、正弘はこれを改め藩校誠之館で試験を実施し、合格したものを官吏に登用しようとした。これは「封建制度」の否定である。正弘は三十九歳で惜しくも病死したが、「もし」正弘があと十年生きていたら、と思うのは私だけではあるまい。 吉備太宰石川王
弥生時代、私たちの住む瀬戸内沿岸部に「吉備の国」と呼ばれる大きなクニがあった。この国は奈良盆地を本拠とした大和の国と手を結んで大きな国を作った。邪馬台国、すなわち日本最初の統一国家である。しかし、「両雄並び立たず」の言葉通り、この両者の仲は次第に険悪になり、やがて大和の勢力が吉備の勢力を押さえ天下をとった。大和朝廷の誕生だ。吉備の国は大和の支配下に入った。だが、古墳時代の終わり頃になってもまだまだ侮れない勢力を持っていた。七世紀後半、内乱に勝ちぬいて強大な国家を作った天武天皇は、この吉備の国を分割することを思いついた。天皇は腹心の石川王を吉備に派遣して、この政策を実行させた。石川王は吉備の太宰として善政を敷き、平穏に吉備の分割を実施した。吉備はこの時「備前」「備中」「備後」の三国に分かれた。我々が住む備後の国の誕生である。六七九年、石川王は任地で没した。人々は石川王の善政を称えて、彼を神として祭った。これが芦田町に今も残る「国司神社」の由来である。石川王の素性は知れない。ただ、正史は、王が壬申の乱で天武天皇に味方したこと、そして、吉備の太宰として任地に没したことを語るだけである。 <関連記事>
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備後を造った人々(三)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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