吉備豪族の反乱 絶世の美女稚媛
「備陽史探訪:76号」より
柿本 光明
代吉備の豪族上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)の妻稚媛(わかひめ)はどれほどの美人だったのだろうか。「天下の麗人でも、我が妻におよばない」と田狭がほめちぎったと『日本書紀』は伝えている。
宮廷に仕えていた田狭の自慢話は続く。
美しくしなやかで、あらゆる美点が備わっている。華やかで潤いがあり、表情が豊かである。白粉や髪油も必要としない。広い世にも類を見ない。昨今ではひとり際立った美人である
美人の条件は、際立つ上品さと明朗な性格、そして何よりも素顔の美しさということだろうか。しかし、田狭が語った言葉そのままとするわけにはいかぬ。稚媛はいかにも古代入らしい、おおらかで健康的な、理想の女性だったのではなかろうか。
恋多き武の大王としても知られる雄略は田狭の自慢話を聞くと、田狭を任那国司に任じ、朝鮮半島に追いやり、稚媛を奪ってしまう。
五世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国が対立していた。妻稚媛を奪われたことを朝鮮で知った田狭は、雄略と敵対関係にあった新羅に通じて、大和王権に反逆した。雄略は追討軍を派遣し、稚媛をめぐって吉備、大和、朝鮮半島を舞台に壮大なドラマが展開する。
これが「田狭の乱」として知られる事件である。
この際『日本書配』は、別本の異伝として、稚媛が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子玉田宿禰(たまたのすくね)の娘であることを載せている。これは吉備の大首長であった田狭が専制権力の確立を目指した大王雄略の圧迫を受け、王権と対抗しようとして大和の豪族葛城氏と結合したことを表わしているのではないだろうか。そもそも吉備の大首長田狭は吉備と大和で別々に妻を迎えていたのではないか?その可能性は充分あると思われる。
田狭と葛城氏は婚姻を通じて政治的連合を結んだが、結局、大王雄略により破られたということだ。これまで大和政権を支えてきた強大な力を持っていた吉備上道氏と葛城氏とが、大王雄略の即位と同時に失脚させられ、中央政界での力を失ったというのが、田狭の乱の背後に隠された真実であろう。つまり、雄略朝になってのち大和王権から大豪族の影響が排除され、古代国家への体制が整備されていったのである。
吉備は大和王権との密接な関係の中で、大和に匹敵する古墳を早くから造営してきた。すなわち、備前南部を拠点として早くから稲作が始まり、その豊かな生産力を背景に、金蔵山古墳、湊茶臼山古墳など全長百メートルを越す巨大な古墳を造営している。
大王雄略の時代には、岡山県赤磐郡山陽町一帯の平野が中心となり、いくつかの古墳が造られた。その中でも特に、周濠と呼ばれる幅四〇メートル余りの掘を巡らし、満々と水をたたえた両宮山(りょうぐうさん)古墳(山陽町、全長一九二メートル)は全国に誇れる美しい姿である。この古墳は造山古墳(岡山市、全長三六〇メートル)、作山古墳倉(敷市、全長二八六メートル)に次いで、吉備地方で第三位にランクされている。墳丘の大きさは造山・作山に比べるとずっと小さいように見えるが、外側の周濠まで含めると、少なく見積もっても、全長三二〇メートル、全幅二〇〇メートルを軽く超えることになる。
この両宮山古墳は、五世紀後半の築造と推定されており、ちょうど吉備反乱の時代で、同古墳に埴輪が立てられていないことからも、吉備反乱伝承の被葬者の墓ではないかと関連づけて考えられている。
王権に抵抗しただけでなく、王権纂奪(さんだつ)の伝承まで持つ吉備の諸氏族の中でも、反乱伝承で大きな役割を果たしているのが上道氏である。
『日本書紀』には反乱伝承以外にも吉備と朝鮮南部との関係を示す語句は多い。朝鮮史家からは存在を疑問視されている任那日本府の官僚に吉備臣、将軍に吉備臣小梨、征新羅将軍に吉備臣屋代などが出てくる。また、吉備韓子那多利・斯布利は父を日本人、母を任那の女性として生まれたとある。
ところで、大王雄略によって夫と別れさせられた稚媛と田狭がその後どうなったのか『日本書紀』雄略朝本文には全く出てこない。註として異伝が紹介されており、雄略は田狭を殺してその妻稚媛を奪ったと書かれている。
一方、稚媛は雄略との間にできた星川皇子を王位につけようと、「天子の位に登ろうと思うなら、まず、大蔵の役所を取りなさい」と密かに幼い星川皇子に語っていたと『日本書紀』の清寧即位前記に見える。
星川皇子は諸国から貢ぎ物を納めた大蔵を取り、外門を開ざし固めて、攻撃に備えてきたが、画策も空しく、雄略の重臣だった大伴室屋大連らの包囲により、母稚媛、兄磐城皇子らと共に焼き殺された。
この時、吉備上道臣らは朝廷に乱ありと聞いて、稚媛、星川皇子を救おうと思い、水軍四十隻を率いて海上から救援に向かったが、すでに焼き殺されたと聞き、間に合わず空しく海路を引き返した。
この吉備氏の最後の反乱は、かつてどの豪族も試みなかった王権纂奪であった。軍船四十隻が大和へ間に合っていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう。
この事件で新しく即位した大王清寧は使いを遣わし、吉備上道臣らを責め、吉備氏の管理していた山部を奪ったという。これは吉備の鉄の生産体制を大和王権が掌握したということになる。実際大和王権を構成する有力豪族の大伴氏らが星川皇子の即位に反対して失脚させたということであろう。
とりわけ吉備の反乱が王位継承にまでからんでいたとする説話の趣には軽視できないものがある。もっとも吉備の政治集団が、完全に制圧されたのではなかった。下道臣の勢力圏では箭田大塚古墳(真備町)や、こうもり塚古墳(総社市)、上道臣の勢力圏では牟佐大塚古墳(岡山市)などというように、巨大な石室を有する古墳の築造を可能にした勢力が存続していた。
『日本書紀』に語られる三つの吉備氏反乱伝承の中で、吉備下道臣前津屋と吉備上道臣田狭の事件は特に有名で、下道臣前津屋ほど雄略大王に強い対抗意識を燃やした首長はいなかった。上道臣田狭の乱として知られている事件はこの前津屋の乱に続く形で『日本書紀』に記されている。
岡山市(津山線備前原駅)の東方、竜ノロ山の頂上から眺めると、眼下に旭東平野が広がり、平野を隔てて、操山山塊、瀬戸内海、児島湾などが一望のもと。一帯は弥生時代から奈良時代にかけての遺跡の宝庫で、百間川遺跡、備前国府跡、さらに賞田寺廃寺跡など…、かつての栄華をとどめている。
ここはかつて上道と呼ばれ、上道臣の本拠地とされる所。上道臣田狭などの反乱伝承ドラマはこの地を背景にした物語なのだろうか。
竜ノロ山から北へ大塚古墳、両宮山古墳があり、両宮山古墳のすぐ北側に円墳の茶臼山古墳(全長約三〇メートル)県、道をはさんで南側に浅い周濠を持つ帆立貝式の森山古墳(全長約八五メートル)、その東側には前方後円墳と見られる廻山古墳(全長約一〇〇メートル)があり、いずれも両宮山古墳と同時期か、それよりやや遅く築造されたとみられる。造山・作山・両宮山の三つの古墳はひときわ巨大で、一部族の力だけでは造成する力はないというのが今までの推定であり、吉備の大首長は吉備部族の代表とし、吉備政権が五世紀代に造山古墳から作山古墳ヘ作山古墳から両宮山古墳へと次々に「輪番制」で委譲されたものと推定される。つまり、有力首長層による輪番的な継承法は四世紀から六世紀まで引き継がれたものと思う。
この美しい周濠古墳を造らせ、その中に眠っているのはどんな人物なのか。妻稚媛を奪われた田狭か、悲運に泣いた稚媛か、それとも軍船を派遣した上道臣か。
過ぎ越した千五百年の歳月は、そうした伝承を季節の風と共に流れ去ってしまったのだろうか。移り変わった青田の向こうに緑の古墳が雨にかすんでいる。
https://bingo-history.net/archives/14097https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/8b397b736141982e56e46d2d4a44322e.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/8b397b736141982e56e46d2d4a44322e-150x100.jpg古代史「備陽史探訪:76号」より 柿本 光明 代吉備の豪族上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)の妻稚媛(わかひめ)はどれほどの美人だったのだろうか。「天下の麗人でも、我が妻におよばない」と田狭がほめちぎったと『日本書紀』は伝えている。 宮廷に仕えていた田狭の自慢話は続く。 美しくしなやかで、あらゆる美点が備わっている。華やかで潤いがあり、表情が豊かである。白粉や髪油も必要としない。広い世にも類を見ない。昨今ではひとり際立った美人である 美人の条件は、際立つ上品さと明朗な性格、そして何よりも素顔の美しさということだろうか。しかし、田狭が語った言葉そのままとするわけにはいかぬ。稚媛はいかにも古代入らしい、おおらかで健康的な、理想の女性だったのではなかろうか。 恋多き武の大王としても知られる雄略は田狭の自慢話を聞くと、田狭を任那国司に任じ、朝鮮半島に追いやり、稚媛を奪ってしまう。 五世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国が対立していた。妻稚媛を奪われたことを朝鮮で知った田狭は、雄略と敵対関係にあった新羅に通じて、大和王権に反逆した。雄略は追討軍を派遣し、稚媛をめぐって吉備、大和、朝鮮半島を舞台に壮大なドラマが展開する。 これが「田狭の乱」として知られる事件である。 この際『日本書配』は、別本の異伝として、稚媛が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子玉田宿禰(たまたのすくね)の娘であることを載せている。これは吉備の大首長であった田狭が専制権力の確立を目指した大王雄略の圧迫を受け、王権と対抗しようとして大和の豪族葛城氏と結合したことを表わしているのではないだろうか。そもそも吉備の大首長田狭は吉備と大和で別々に妻を迎えていたのではないか?その可能性は充分あると思われる。 田狭と葛城氏は婚姻を通じて政治的連合を結んだが、結局、大王雄略により破られたということだ。これまで大和政権を支えてきた強大な力を持っていた吉備上道氏と葛城氏とが、大王雄略の即位と同時に失脚させられ、中央政界での力を失ったというのが、田狭の乱の背後に隠された真実であろう。つまり、雄略朝になってのち大和王権から大豪族の影響が排除され、古代国家への体制が整備されていったのである。 吉備は大和王権との密接な関係の中で、大和に匹敵する古墳を早くから造営してきた。すなわち、備前南部を拠点として早くから稲作が始まり、その豊かな生産力を背景に、金蔵山古墳、湊茶臼山古墳など全長百メートルを越す巨大な古墳を造営している。 大王雄略の時代には、岡山県赤磐郡山陽町一帯の平野が中心となり、いくつかの古墳が造られた。その中でも特に、周濠と呼ばれる幅四〇メートル余りの掘を巡らし、満々と水をたたえた両宮山(りょうぐうさん)古墳(山陽町、全長一九二メートル)は全国に誇れる美しい姿である。この古墳は造山古墳(岡山市、全長三六〇メートル)、作山古墳倉(敷市、全長二八六メートル)に次いで、吉備地方で第三位にランクされている。墳丘の大きさは造山・作山に比べるとずっと小さいように見えるが、外側の周濠まで含めると、少なく見積もっても、全長三二〇メートル、全幅二〇〇メートルを軽く超えることになる。 この両宮山古墳は、五世紀後半の築造と推定されており、ちょうど吉備反乱の時代で、同古墳に埴輪が立てられていないことからも、吉備反乱伝承の被葬者の墓ではないかと関連づけて考えられている。 王権に抵抗しただけでなく、王権纂奪(さんだつ)の伝承まで持つ吉備の諸氏族の中でも、反乱伝承で大きな役割を果たしているのが上道氏である。 『日本書紀』には反乱伝承以外にも吉備と朝鮮南部との関係を示す語句は多い。朝鮮史家からは存在を疑問視されている任那日本府の官僚に吉備臣、将軍に吉備臣小梨、征新羅将軍に吉備臣屋代などが出てくる。また、吉備韓子那多利・斯布利は父を日本人、母を任那の女性として生まれたとある。 ところで、大王雄略によって夫と別れさせられた稚媛と田狭がその後どうなったのか『日本書紀』雄略朝本文には全く出てこない。註として異伝が紹介されており、雄略は田狭を殺してその妻稚媛を奪ったと書かれている。 一方、稚媛は雄略との間にできた星川皇子を王位につけようと、「天子の位に登ろうと思うなら、まず、大蔵の役所を取りなさい」と密かに幼い星川皇子に語っていたと『日本書紀』の清寧即位前記に見える。 星川皇子は諸国から貢ぎ物を納めた大蔵を取り、外門を開ざし固めて、攻撃に備えてきたが、画策も空しく、雄略の重臣だった大伴室屋大連らの包囲により、母稚媛、兄磐城皇子らと共に焼き殺された。 この時、吉備上道臣らは朝廷に乱ありと聞いて、稚媛、星川皇子を救おうと思い、水軍四十隻を率いて海上から救援に向かったが、すでに焼き殺されたと聞き、間に合わず空しく海路を引き返した。 この吉備氏の最後の反乱は、かつてどの豪族も試みなかった王権纂奪であった。軍船四十隻が大和へ間に合っていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう。 この事件で新しく即位した大王清寧は使いを遣わし、吉備上道臣らを責め、吉備氏の管理していた山部を奪ったという。これは吉備の鉄の生産体制を大和王権が掌握したということになる。実際大和王権を構成する有力豪族の大伴氏らが星川皇子の即位に反対して失脚させたということであろう。 とりわけ吉備の反乱が王位継承にまでからんでいたとする説話の趣には軽視できないものがある。もっとも吉備の政治集団が、完全に制圧されたのではなかった。下道臣の勢力圏では箭田大塚古墳(真備町)や、こうもり塚古墳(総社市)、上道臣の勢力圏では牟佐大塚古墳(岡山市)などというように、巨大な石室を有する古墳の築造を可能にした勢力が存続していた。 『日本書紀』に語られる三つの吉備氏反乱伝承の中で、吉備下道臣前津屋と吉備上道臣田狭の事件は特に有名で、下道臣前津屋ほど雄略大王に強い対抗意識を燃やした首長はいなかった。上道臣田狭の乱として知られている事件はこの前津屋の乱に続く形で『日本書紀』に記されている。 岡山市(津山線備前原駅)の東方、竜ノロ山の頂上から眺めると、眼下に旭東平野が広がり、平野を隔てて、操山山塊、瀬戸内海、児島湾などが一望のもと。一帯は弥生時代から奈良時代にかけての遺跡の宝庫で、百間川遺跡、備前国府跡、さらに賞田寺廃寺跡など…、かつての栄華をとどめている。 ここはかつて上道と呼ばれ、上道臣の本拠地とされる所。上道臣田狭などの反乱伝承ドラマはこの地を背景にした物語なのだろうか。 竜ノロ山から北へ大塚古墳、両宮山古墳があり、両宮山古墳のすぐ北側に円墳の茶臼山古墳(全長約三〇メートル)県、道をはさんで南側に浅い周濠を持つ帆立貝式の森山古墳(全長約八五メートル)、その東側には前方後円墳と見られる廻山古墳(全長約一〇〇メートル)があり、いずれも両宮山古墳と同時期か、それよりやや遅く築造されたとみられる。造山・作山・両宮山の三つの古墳はひときわ巨大で、一部族の力だけでは造成する力はないというのが今までの推定であり、吉備の大首長は吉備部族の代表とし、吉備政権が五世紀代に造山古墳から作山古墳ヘ作山古墳から両宮山古墳へと次々に「輪番制」で委譲されたものと推定される。つまり、有力首長層による輪番的な継承法は四世紀から六世紀まで引き継がれたものと思う。 この美しい周濠古墳を造らせ、その中に眠っているのはどんな人物なのか。妻稚媛を奪われた田狭か、悲運に泣いた稚媛か、それとも軍船を派遣した上道臣か。 過ぎ越した千五百年の歳月は、そうした伝承を季節の風と共に流れ去ってしまったのだろうか。移り変わった青田の向こうに緑の古墳が雨にかすんでいる。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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