2002年10月12日

杉原保の常興寺(塗り替えられた野上村の歴史)

備陽史探訪:109号」より

小林 定市

今年一月三十日の讀賣新聞に、福山市教育委員会は「福山市北吉津町の胎蔵寺にある、県重文の木造釈迦如来坐像の胎内から経典など四十一点が見つかった」との発表があった。

県立歴史博物館で六月から、釈迦如来坐像の「仏像内納入品」が公開された。杉原保の存在を示す特設展示の折畳式御経の奥書は次の通り。

 継宗上座所持畧法華経一部
 奉納 日本国備後州深津郡椙原保
 常興禅寺大佛殿本尊釈迦牟尼如来
 像中 願以此功徳 普及於一切
    継宗与衆生 皆共成佛道
 貞和三丁亥三月十六日
   住持比丘曇叟心華書

貞和三年(一三四七)という年は、常興禅寺の南西二km弱の地に、真言律宗常福寺の国宝五重塔が、大旦那住持頼秀(地頭長井)の努力によって完成する前年であった。

備後に常興禅寺が存在したとする記録は、『扶桑五山記』と『和漢禅刹次第』に記されており、室町時代の常興禅寺は幕府から諸山の寺格が与えられた臨済宗備後七大寺の中の有力な寺で、開山の無伴智洞(鎌倉時代末の僧。生没年不詳)は虚無僧寺の総本山として知られている、紀州由良興國寺の開山法灯国師(心地覺心)の弟子で、法系図には十番目に無伴智洞の僧名が記されている。

鎌倉三代将軍源実朝の筆頭家臣葛山五郎景倫は、実朝が暗殺されたのを悼んで高野山に登り出家して願性と改めた。それを聞いた鎌倉従二位禅尼北條政子は、願性の忠義心を賞でて承久三年(一三二一)頃願性に紀州由良庄の地頭職を与えた。

願性は安貞元年(一二二七)、実朝と政子の菩提を弔うため由良庄に真言宗西方寺(本尊阿弥陀如来桃山時代に焼失以後釈迦如来)を建立し周辺の田畑を西方寺の寺領とした。

建長六年(一二五四)宋より帰国した心地覺心は、高野山に登り禅定院(源将軍家の菩提所・後の金剛三味院)の住持を務めていたとき、願性から懇情されて西方寺(後の興國寺)の住職となり、真言寺院を臨済宗寺院に改め開山となった。

覺心の教線は瀬戸内を西方に伸び、文永三年(一二六六)に神戸市長田区の宝満寺を再興し、文永十年には鞆町の金宝寺(現在の安国寺)が創建された。相前後して山手町の三宝寺(現在は曹洞宗)と常興寺が建立されたものと推定する。また、五番弟子の辮翁智納は失野庄(上下町)に善祥善寺(現在の曹洞宗禅昌寺)を開山したと伝えられている。

興國寺七世の孤峯覺明(三光國済国師)は、備後を通って出雲に布教したらしく松江市榮町の圓成寺(本尊善光寺式銅造阿弥陀如来)・安来市清井町の雲樹寺・平田市國富町の康國寺等を開創している。

現在まで常興寺の法系図を伝えた資料は明らかにされていない。何世か不明であるが十二番弟子の嫩桂正榮(一二六六~一三五三・大医禅師)は常興寺住職を務めた後の、建武二年(一三三五)頃に本山興國寺の住職となっていた。

今回発表された貞和三年の、釈迦如来胎内経奥書に依ると住持は曇叟心華であったことが判明。『備陽六郡志』に依ると、釈迦堂の施餓鬼位牌台裏に「貞治戊申(七年・一三六八)正月吉日 椙原常興寺三牌 禅慧處之」と住僧禅慧の名が彫付けられていた。以上の史料から常興寺の法系は「無伴智洞…嫩桂正榮…曇叟心華…禅慧」の四住僧が判明した。

『扶桑五山記』は、常興寺(成興禅寺)が存在した地名を松隈庄と記しているが、南北朝時代の常興寺史料は何れも椙原と記していることから、何らかの事情で松隈庄と椙原保域に変動があったものと考えられる。

椙原保は慶長六年(一六〇一)の福島検地によって、野上村と新村名が付けられ村高は八百石余であった。元和五年(一六一九)に水野勝成が備後南部の領主として入部し、常興寺山のある野上村を接収して新城を築き、福山と新地名を付けたことから野上村名は消滅し新たに福山の地名が誕生とした。その後、水野勝成は福山城下町の拡大を図り城下町周辺部で盛んに新涯造成を行い、正保の頃(一六四七)に完成させた南西の新涯地に野上村名を付けた。

この新野上村からは野上村の象徴であった常興寺山が消失しており、近代の歴史家は水野時代に、常興寺山が聳えていた野上村と常興寺山が無い、新旧二つの野上村が存在した単純な矛盾が見抜けなかった。

福山市は『福山市史』を発刊するに際し、慶長検地の野上村の位置と村高の内容を充分に吟味検討しなかったため、慶長期の野上村と元禄期の野上村を混同し、後世編纂された伝承「常興寺山麓一帯は芦田川が流れ三方は遠浅の海であった」を安易に盲信し、福山の誕生について「現在の福山市の中心部に当る地域は未だ茫々たる葭原であった」(『福山市史』)中巻三九頁)と、鎌倉時代に開発されていた椙原保が江戸時代初頭まで未開発の葭原だったと大変な誤説を発表してきた。

歴史資料の価値は、記録学・古文書学の観点から見ると新しい史料ほど価値が劣るとされている。この原則を野上村と常興寺の歴史史料に当てはめて活用する事が肝要である。この度、常興寺と胎蔵寺の歴史について福山市は、「常興寺は戦国時代に廃寺になり、釈迦堂だけが残った。初代福山城主・水野勝成が築城の時、鬼門守護のため吉津に胎蔵寺を神辺から移す」といった内容の、江戸時代中後期の『備陽六郡志』等胎蔵寺に好都合な寺伝を発表。しかし、『備陽六郡志』より約百三十年も早い江戸時代前期の有力な史料が見落されていた。

寛永十六年(一六三九)三月、水野家は領内の全ての寺社に対し旧記を提出させている。常興寺は野上村から吉津村に移り吉津村から提出。胎蔵寺は伝承と異なり、安那郡から福山藩役所の老中宛に寺の旧記(『水野記』十三)を提出している。

 深津郡吉津村
 一向宗(浄土真宗)松熊山常興寺
 本尊釈迦 脇立文殊普賢
 永禄年中寺領被没収
  天正之頃領主杉原某以常興寺
  為菩提寺(以下略)

常興寺は健在で、築城に伴い吉津村に移転させられた模様で、臨済宗から浄土真宗に宗派は変っていても、本尊の釈迦如来を祀り寺の命脈は保たれていた。

胎蔵寺の記録は、『水野記』に記されているが『水野記』より詳しい控え文書『備後國安那郡社領寺領』が、神辺町新徳田の徳永宮司家に伝えられていたため、胎蔵寺の史料は徳永家文書を記載する。

寛永十六年の胎蔵寺伝、神辺町の徳永家文書

寛永十六年の胎蔵寺伝、神辺町の徳永家文書

 安那郡神辺不老山阿釈迦院胎蔵寺
    言上     本尊薬師
一、怒賀郡西条と申所之古跡六坊之所ニ而御座候段、天正十九年迄者寺領百弐拾貫付申候、同廿年ニ毛利殿御取上ケ被成候。
一、慶長六自時分福島大夫殿御領知ニ罷成同四年ニ西条より神辺城下へ御引越候て福島丹波殿祈願寺ニ被据置、為心付十人扶持現米貳拾石致拝領候。
一、元和五年ゟ無縁所ニ罷成、福山御城下江罷越是胎蔵寺被有申候。
寛永十六年卯ノ三月吉日 胎蔵寺
   御老中様

『水野記』と『備後國安那郡社領寺領』の内容文を比較してみると、要点は一致しており『水野記』の方が簡略化されていた。『水野記』は『広島県史』に『備後國安那郡社領寺領』は福山市立福山城博物館の名友の会だより』No.二七号)に掲載。

通説と異なり、胎蔵寺は本尊の薬師如来と共に神辺から福山城下に移っており、胎蔵寺が通説通り吉津に移り本尊を釈迦如来に変更して祀るのは寛永十六年以降である。

また、何らかの事情で胎蔵寺は安那郡から安那郡の寺社と共に旧記を提出しており、『水野記』も同様に胎蔵寺は城下の寺院と記さず安那郡の寺社欄に記載している。このように胎蔵寺が江戸時代中後期に喧伝していた寺伝は事実無根であった。

多くの寺院に共通して見られる事であるが、年代の経過と共に事実に相違して次第に寺歴は飾られ権威も付け加えられて行く。福山市は福山成立の根幹である、常興寺と野上村の歴史を不正確に解明していたことを反省し、採用する史料内容を厳格に検討し誤りの無い結論に到達することを期待したい。