9月2日【特別歴史講演会】謎の山城 茨城を探る 開催
今年3月に行った古代山城研究会と備陽史探訪の会の合同踏査で、福山市加茂町北山の芋原地区が『続日本紀』養老三年(719)に停記録はあるものの場所がわからなかった古代山城茨城であることがほぼ確実となった。その後これを裏付ける調査・研究が行われ、その成果が5件報告された。注目度も高く熱気あふれる講演会となった。
以下に講演会で寄せられた質問とその回答を掲載しています。
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「謎の山城 茨城を探る」Q&A
最初に講演された備陽史探訪の会会長の田口先生は、茨城研究の経緯や、40年ほど前にこの芋原の「大スキ」発見に至った経緯、その重要性などを述べられ、その時発見の中心となった故七森氏の功績を讃えられた。
次に講演された古代山城研究会の松尾先生はこの芋原を詳細に調査された研究成果を報告された。現在残っている遺構の状況や、地名などから城門や水門阿多などの推定値も示されており今後の追加調査が待たれます。この確実になった茨城推定値は同じく備後府中に推定されている常城とは10Kmしか離れておらず、また山陽道と南海道に古代山城の立地の違いも興味深い。
古代山城研究会代表の向井先生は茨城の所在郷と推定されてきた「抜原郷」の読みは古代「ウバラ郷」であり同じく「茨城」の読みも「ウバラノキ」であった事を考えると、その所在は整合的に考えられること、また現在の「芋原」の名もそれと結びつく可能性もあることなどを説明された。
広島県教育事業団の村田先生はこの茨城周辺の終末期古墳を調査され、飛鳥時代の吉備の中心は備後南部の様にも思われ、そこに古代山城が存在する蓋然性は非常に高いと結論付けられた。
広島市文化振興課の山岡先生は今まで茨城の推定値とされてきた蔵王山の発掘調査結果を報告され、茨城の遺構の様なものは発見されなかったと述べられた。
今回の講演会の注目度は非常に高く、120席の会場は満席となり、飛び入りで来られた方は断らざるを得ないような状況でした。
芋原の茨城推定模型も展示され、それを囲んでの話にも花が咲いていました。