9月2日に行われた歴史講演会「謎の山城 茨城を探る~古代山城・茨城と芋原の大スキ跡~」で寄せられた質問とその回答の一部を掲載します。
なお、質問、回答とも原文からQ&A形式に要約、体裁を整えていますこと、あらかじめご了承ください。
- Q.木之上城から出土した瓦について教えてください
- A.木之上城の出土物について記した代表的なものとしては、『神辺の古代寺院跡 神辺の歴史と文化 第7号』(神辺郷土史研究会 1980年)があります。
こちらによると、平安時代の特徴を有する蓮華文丸瓦、唐草文平瓦などが採取されています。 - Q.大スキの土塁は版築ですか?
- A.芋原の遺跡は、まだ発掘調査が行われておらず、土塁が道路等で断ち切られた箇所はありますが、断面の土層などを良好に観察できる状態でなく、版築で築かれているかどうか、また基底部に列石や柱穴列などが敷設されているかどうかは、将来の発掘調査を待たねばならない状況です。
他の多くの古代山城の土塁が版築で築かれているので、茨城の土塁もその可能性は高いと思われますが、上記のような状況であり、現段階では断言できません。 - Q.眺望だけでこうした大規模な山城がつくられるものでしょうか?
- A.瀬戸内の古代山城の立地の背景には、海路だけとか、陸路だけとかといった、狭い対応ではなく、もう少し広い地域の中で最もよい立地場所を選んでいる状況が認められます。
安那郡域の中では、当時の中心地である神辺平野の東部=御領地域や後の深津郡地域からは過疎地になり、品治郡や神石郡に対応する場所が選ばれているとみられます。山陽道や穴海までは約5.7km、芦田川旧河口で約10kmと当時の軍の半日の作戦行動半径と想定できる約11kmの範囲内にありますし、もちろん亀ヶ岳と共に要害地形だったことも現在地が城地として選ばれた理由と思われます。 - Q.備後国安那郡の屯倉との関係がわかればお教えください
- A.安閑紀の屯倉設置記事の中に、備後国と婀娜国の屯倉が出てきます。
備後国の後城屯倉(しづきのみやけ)、多禰屯倉(たねのみやけ)、来履屯倉(くくつのみやけ)、葉稚屯倉(はわかのみやけ)、河音屯倉(かわとのみやけ)、婀娜国(あなのくに)の膽殖屯倉(いにえのみやけ)、膽年部屯倉(いとしべのみやけ)。
備後国の屯倉については、後城屯倉は備中国後月(しつき)郡と関係すると考え、多禰屯倉を後月郡芳井町種(たね)に、来履屯倉を井原市下出部九沓川(くぐつがわ)など岡山県井原市周辺に比定する説と多禰屯倉を福山市加茂町北山字種(たね)に比定して福山市周辺=婀娜国(穴国)=安那郡に比定しようとする説が、昔から対立しています。
どちらかというと、後月郡域に遺称地名が多いので、安閑紀の備後国屯倉は後の備中国後月郡周辺に想定できそうですが、なぜ、後の備中国の地域が備後国と記されているのかなど、解決しなければならない問題も残っています。
膽殖屯倉・膽年部屯倉の両屯倉に関しては遺称地名がなく、諸説ありますが類推の域を出ない状況で、安那郡域(分離前の深津郡も含めた)にあったとしかいえない状況です。
福山市加茂町下賀茂の倉神社は膽殖屯倉の伝承を持ち、安那郡大家郷の地とする説もあります。また『日本地理志料』『大日本地名辞書』は、深津郡大宅郷について、大宅=屯倉で、膽年部屯倉の地としています(『大日本地名辞書』は深津市のあった沿岸部に膽殖・膽年部の二屯倉を比定します)。
ということで、屯倉の比定地は不確定な状況で、具体的に茨城との関係を議論できません。
安那郡域は群集墳が非常に多く、備後南部の中でも特筆される規模と分布状態です。古墳時代後期の当該地域とヤマト王権との関係がどのような状態であったかは、今後はこういった古墳群の分析を進めていく必要があるでしょう。
茨城の発見によって、国造制、屯倉制、群集墳、二子塚古墳、終末期古墳、国府跡、古代寺院跡に加えて、この地域の6~7世紀史を解くパズルのピースがようやく揃ったといえるかもしれません。 - Q.水城は水堀が重要な防御手段であることからの命名と思わわれますが、類推でイバラノキはイバラが防御の主要な方法であったとは考えられますでしょうか?
- A.備後国の茨城については、ウバラの里という地名から「茨」城と名付けられたと考えられます。
ウバラ里は元々は茨里と表記されたのですが、奈良時代初めに地名を良い漢字二字で表記せよという「好字二字令」によって、抜原里(後に里→郷に改められ抜原郷)と書かれるようになりました。
古代山城・茨城の城壁は土塁です。古代山城は現在日本で22城確認されていますが、城壁は土塁あるいは石塁(石垣)です。水城には土塁の前面に水堀(水濠)が設けられていますが、古代の山城には基本的に堀はありません。また、古代山城では現在までの発掘調査で逆茂木は確認されていません。 - Q.瀬戸内海の潮目と備後地域の危険地帯の関係及び海が地域に与えた影響を教えてください
- A.備後地域にとって人々の力が自然に対するには小さな時期、縄文・弥生時代から近世にかけては絶対的な条件であったと思います。
松永湾・津之郷の低湿地、深津市・草戸千軒遺跡・鞆町すべてはその延長線上で理解されますし、中世以降の尾道・笠岡の港町としての発展へとつながる点もよく似ています。
古代について、国府・国分寺跡・古代山陽道と瀬戸内海の潮目を合わせて、古代山城の所在地を検討する必要があると思っています。報告でも少し触れましたが、他地域での状況を検討し、当てはめるだけでは少し精査不測の気がします。
人類の自然に対する力がまだまだ弱かった時期、瀬戸内海の潮目とそれに付随して発生する事態は抗しがたい現実であったと思います。
https://bingo-history.net/archives/28282https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/mark-150x100.png管理人事務局だより9月2日に行われた歴史講演会「謎の山城 茨城を探る~古代山城・茨城と芋原の大スキ跡~」で寄せられた質問とその回答の一部を掲載します。
なお、質問、回答とも原文からQ&A形式に要約、体裁を整えていますこと、あらかじめご了承ください。 Q.木之上城から出土した瓦について教えてください
A.木之上城の出土物について記した代表的なものとしては、『神辺の古代寺院跡 神辺の歴史と文化 第7号』(神辺郷土史研究会 1980年)があります。
こちらによると、平安時代の特徴を有する蓮華文丸瓦、唐草文平瓦などが採取されています。 Q.大スキの土塁は版築ですか?
A.芋原の遺跡は、まだ発掘調査が行われておらず、土塁が道路等で断ち切られた箇所はありますが、断面の土層などを良好に観察できる状態でなく、版築で築かれているかどうか、また基底部に列石や柱穴列などが敷設されているかどうかは、将来の発掘調査を待たねばならない状況です。
他の多くの古代山城の土塁が版築で築かれているので、茨城の土塁もその可能性は高いと思われますが、上記のような状況であり、現段階では断言できません。 Q.眺望だけでこうした大規模な山城がつくられるものでしょうか?
A.瀬戸内の古代山城の立地の背景には、海路だけとか、陸路だけとかといった、狭い対応ではなく、もう少し広い地域の中で最もよい立地場所を選んでいる状況が認められます。
安那郡域の中では、当時の中心地である神辺平野の東部=御領地域や後の深津郡地域からは過疎地になり、品治郡や神石郡に対応する場所が選ばれているとみられます。山陽道や穴海までは約5.7km、芦田川旧河口で約10kmと当時の軍の半日の作戦行動半径と想定できる約11kmの範囲内にありますし、もちろん亀ヶ岳と共に要害地形だったことも現在地が城地として選ばれた理由と思われます。 Q.備後国安那郡の屯倉との関係がわかればお教えください
A.安閑紀の屯倉設置記事の中に、備後国と婀娜国の屯倉が出てきます。
備後国の後城屯倉(しづきのみやけ)、多禰屯倉(たねのみやけ)、来履屯倉(くくつのみやけ)、葉稚屯倉(はわかのみやけ)、河音屯倉(かわとのみやけ)、婀娜国(あなのくに)の膽殖屯倉(いにえのみやけ)、膽年部屯倉(いとしべのみやけ)。
備後国の屯倉については、後城屯倉は備中国後月(しつき)郡と関係すると考え、多禰屯倉を後月郡芳井町種(たね)に、来履屯倉を井原市下出部九沓川(くぐつがわ)など岡山県井原市周辺に比定する説と多禰屯倉を福山市加茂町北山字種(たね)に比定して福山市周辺=婀娜国(穴国)=安那郡に比定しようとする説が、昔から対立しています。
どちらかというと、後月郡域に遺称地名が多いので、安閑紀の備後国屯倉は後の備中国後月郡周辺に想定できそうですが、なぜ、後の備中国の地域が備後国と記されているのかなど、解決しなければならない問題も残っています。
膽殖屯倉・膽年部屯倉の両屯倉に関しては遺称地名がなく、諸説ありますが類推の域を出ない状況で、安那郡域(分離前の深津郡も含めた)にあったとしかいえない状況です。
福山市加茂町下賀茂の倉神社は膽殖屯倉の伝承を持ち、安那郡大家郷の地とする説もあります。また『日本地理志料』『大日本地名辞書』は、深津郡大宅郷について、大宅=屯倉で、膽年部屯倉の地としています(『大日本地名辞書』は深津市のあった沿岸部に膽殖・膽年部の二屯倉を比定します)。
ということで、屯倉の比定地は不確定な状況で、具体的に茨城との関係を議論できません。
安那郡域は群集墳が非常に多く、備後南部の中でも特筆される規模と分布状態です。古墳時代後期の当該地域とヤマト王権との関係がどのような状態であったかは、今後はこういった古墳群の分析を進めていく必要があるでしょう。
茨城の発見によって、国造制、屯倉制、群集墳、二子塚古墳、終末期古墳、国府跡、古代寺院跡に加えて、この地域の6~7世紀史を解くパズルのピースがようやく揃ったといえるかもしれません。 Q.水城は水堀が重要な防御手段であることからの命名と思わわれますが、類推でイバラノキはイバラが防御の主要な方法であったとは考えられますでしょうか?
A.備後国の茨城については、ウバラの里という地名から「茨」城と名付けられたと考えられます。
ウバラ里は元々は茨里と表記されたのですが、奈良時代初めに地名を良い漢字二字で表記せよという「好字二字令」によって、抜原里(後に里→郷に改められ抜原郷)と書かれるようになりました。
古代山城・茨城の城壁は土塁です。古代山城は現在日本で22城確認されていますが、城壁は土塁あるいは石塁(石垣)です。水城には土塁の前面に水堀(水濠)が設けられていますが、古代の山城には基本的に堀はありません。また、古代山城では現在までの発掘調査で逆茂木は確認されていません。 Q.瀬戸内海の潮目と備後地域の危険地帯の関係及び海が地域に与えた影響を教えてください
A.備後地域にとって人々の力が自然に対するには小さな時期、縄文・弥生時代から近世にかけては絶対的な条件であったと思います。
松永湾・津之郷の低湿地、深津市・草戸千軒遺跡・鞆町すべてはその延長線上で理解されますし、中世以降の尾道・笠岡の港町としての発展へとつながる点もよく似ています。
古代について、国府・国分寺跡・古代山陽道と瀬戸内海の潮目を合わせて、古代山城の所在地を検討する必要があると思っています。報告でも少し触れましたが、他地域での状況を検討し、当てはめるだけでは少し精査不測の気がします。
人類の自然に対する力がまだまだ弱かった時期、瀬戸内海の潮目とそれに付随して発生する事態は抗しがたい現実であったと思います。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会