芦田川の支流有地川の流域に広がる上・下有地一帯は、古代の芦田郡狩道郷の故地ではないかと言われ、古くから開けた地域である。室町時代後期、この地を支配したのが、備後の国人衆として有名な有地氏であった。
有地氏は、その三代元盛が「宮之元盛」と名乗っているように、中世備後の代表的な国人として知られた宮氏の一門である。『福山志料』などによると、初代の石見守清元は宮氏から別れてこの地に居住し、在名を取って「有地氏」を称したという。新市町相方の本泉寺の位牌によると、清元は大永二年(一五二二)五月九日に没しており、ほぼその年代を推定することができる。同氏は、その後二代隆信・三代元盛と続き、元盛の代に居城を有名な相方城(新市町相方)に移すことになるが、ここで取り上げた殿奥城跡は、その初期の山城の一つである。
城は、上有地東方の標高一九四メートルの山頂から西北に伸びた尾根を利用して築かれたもので、標高一七五メートルのピークを削平して六段の曲輪を設け、東西を堀切によって画しただけの、比較的単純な構造である。
山頂に設けられた主郭は、東西四三メートル、南北二〇メートルを測るこの城最大の平坦地で、北側に長さ三〇メートルにわたって幅五メートル前後の帯曲輪(2郭)を設けている。1郭は、その西に約二メートル切り下げて築かれた長さ三五メートル、幅最大二〇メートルの平坦地で、その南東端は、主郭南側に帯曲輪となって十メートル程延びている。3・4・5郭は、1郭から南に伸びた尾根上に一〇~〇.五メートルの段差で築かれた半円形の削平地で、規模は最大で一五メートル四方の小規模な曲輪である。以上の城郭主要部の周囲は、南側の一部を除いて総数四五条に達する竪堀によって取り囲まれ、この城の大きな特徴になっている。竪堀の規模は、幅三メートル、長さ十五メートル前後のものがほとんどであるが、北西・北東・南東・南西の斜面は、五条から一五条の所謂「畝状阻塞」となっている。また、竪堀の一部には、尾根に直交した堀切から斜面に竪堀を放射状に築いた、注目すべき遺構も見られる。城域を画した堀切は、東西に各々三条築かれている。西側のものは、いわゆる城の「尾崎(先端)」の堀切で、幅は三~五メートルで両端は竪堀となって一五メートル位延びている。これに対して、東側のものは東方尾根続きを断ち切ったいわゆる「尾首」の堀切で、一番内側のものが幅七メートルと規模が大きく、外側の二条はやや離れて築かれ、堀切の中央を削り残した所謂「土橋」の遺構が残っている。いずれも両端は竪堀となって斜面を一五~二〇メートル程下っている。城の大手は、北方の山麓と推定されるが、当時の登城道と考えられるものは、主郭北側に一部それらしい跡が残っているのみで、他は不明である。
山頂主郭からの眺望は絶景で、有地氏が支配した芦田町一帯は一望のもとである。伝承によると、初代石見守清元は、この城の南方谷あいにあったという米迫城を最初の居城としたという。しかし、同城は殿奥よりいっそう山奥に築かれた山城で、立地から殿奥城や後で述べる大谷城に関連した居館と言ったほうがよく、遺構から見て眼下に見下ろすことができる国竹城こそ有地氏初期の城館としてよりふさわしい。国竹城跡は、町内のほぼ中央に残る中世武士の居館跡で、低い丘陵の頂きを削平しただけの極めて簡単な構造である。清元はまずその居館として国竹城を築き、その後有事に備えて南の高い山頂に殿奥城を築いた、こう考えた方がよい。そして、戦乱がますます激しさを増した天文年間(一五三二~五五)には、さらに高い山頂に城を築いて防備を固めた。それがこの城から西方に指呼の間に望める大谷城である。同城は、殿奥城から西に谷一つ隔てた標高二六二メートルの山頂に築かれた峻険な山城で、二つの主郭と、この城と同様多数の竪堀を斜面に築いた特色のある構造を持っている。残念ながら、山の北半分が砕石場となり、既に遺構の一部は永久に地上から姿を消してしまった。
これら有地氏の城跡は、中世山城の変遷を典型的に示すものとして標準的な遺跡である。路線バスだと福山駅前から中国バス「有磨行き」に乗車して、終点「天満」で下車する。ここはほぼ上有地の中心でどの山城を訪ねるにも便利である。国竹城跡は東北に約五百メートル、南に無残な岩肌をさらしているのが大谷城跡である。殿奥城跡に行くには、天満から福山方面に四百メートル程引き返し、右に道を取る。池の土手が見えて来たら、左手の山際に注意する。登り口を見付けたら三〇メートルほど登り、さらに右手の山道に入る。ここからはいわゆる“薮こぎ”である。遮二無二左手の山頂を目指せば、行く手に城の堀切が姿を見せるはずである。
【殿奥城跡】
《参考文献》
「相方村古城主有地殿先祖覚」(福山城鏡櫓文書館)
「萩藩閥閲録」巻八三有地右衛門
得能正通編「備後叢書」
旧版「広島県史」(大正十三年刊)
芦品郡役所編「芦品郡誌」
芦品郡教育会「教育に立脚せる芦品郡基礎調査」
新人物往来社「日本城郭全集」(広島・香川・徳島)
同社刊「日本城郭体系」(広島・岡山)
田口義之「備後有地氏について」芸備地方史研究一四六
田口義之「有地氏の城跡」(山城志二ー一)
内田重徳「松頼」一・二集
内田重徳「芦田町散策」
内田隆三「相方誌」
https://bingo-history.net/archives/1600https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/07.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/07-150x132.jpg管理人中世史山城,解説芦田川の支流有地川の流域に広がる上・下有地一帯は、古代の芦田郡狩道郷の故地ではないかと言われ、古くから開けた地域である。室町時代後期、この地を支配したのが、備後の国人衆として有名な有地氏であった。 有地氏は、その三代元盛が「宮之元盛」と名乗っているように、中世備後の代表的な国人として知られた宮氏の一門である。『福山志料』などによると、初代の石見守清元は宮氏から別れてこの地に居住し、在名を取って「有地氏」を称したという。新市町相方の本泉寺の位牌によると、清元は大永二年(一五二二)五月九日に没しており、ほぼその年代を推定することができる。同氏は、その後二代隆信・三代元盛と続き、元盛の代に居城を有名な相方城(新市町相方)に移すことになるが、ここで取り上げた殿奥城跡は、その初期の山城の一つである。 城は、上有地東方の標高一九四メートルの山頂から西北に伸びた尾根を利用して築かれたもので、標高一七五メートルのピークを削平して六段の曲輪を設け、東西を堀切によって画しただけの、比較的単純な構造である。 山頂に設けられた主郭は、東西四三メートル、南北二〇メートルを測るこの城最大の平坦地で、北側に長さ三〇メートルにわたって幅五メートル前後の帯曲輪(2郭)を設けている。1郭は、その西に約二メートル切り下げて築かれた長さ三五メートル、幅最大二〇メートルの平坦地で、その南東端は、主郭南側に帯曲輪となって十メートル程延びている。3・4・5郭は、1郭から南に伸びた尾根上に一〇~〇.五メートルの段差で築かれた半円形の削平地で、規模は最大で一五メートル四方の小規模な曲輪である。以上の城郭主要部の周囲は、南側の一部を除いて総数四五条に達する竪堀によって取り囲まれ、この城の大きな特徴になっている。竪堀の規模は、幅三メートル、長さ十五メートル前後のものがほとんどであるが、北西・北東・南東・南西の斜面は、五条から一五条の所謂「畝状阻塞」となっている。また、竪堀の一部には、尾根に直交した堀切から斜面に竪堀を放射状に築いた、注目すべき遺構も見られる。城域を画した堀切は、東西に各々三条築かれている。西側のものは、いわゆる城の「尾崎(先端)」の堀切で、幅は三~五メートルで両端は竪堀となって一五メートル位延びている。これに対して、東側のものは東方尾根続きを断ち切ったいわゆる「尾首」の堀切で、一番内側のものが幅七メートルと規模が大きく、外側の二条はやや離れて築かれ、堀切の中央を削り残した所謂「土橋」の遺構が残っている。いずれも両端は竪堀となって斜面を一五~二〇メートル程下っている。城の大手は、北方の山麓と推定されるが、当時の登城道と考えられるものは、主郭北側に一部それらしい跡が残っているのみで、他は不明である。 山頂主郭からの眺望は絶景で、有地氏が支配した芦田町一帯は一望のもとである。伝承によると、初代石見守清元は、この城の南方谷あいにあったという米迫城を最初の居城としたという。しかし、同城は殿奥よりいっそう山奥に築かれた山城で、立地から殿奥城や後で述べる大谷城に関連した居館と言ったほうがよく、遺構から見て眼下に見下ろすことができる国竹城こそ有地氏初期の城館としてよりふさわしい。国竹城跡は、町内のほぼ中央に残る中世武士の居館跡で、低い丘陵の頂きを削平しただけの極めて簡単な構造である。清元はまずその居館として国竹城を築き、その後有事に備えて南の高い山頂に殿奥城を築いた、こう考えた方がよい。そして、戦乱がますます激しさを増した天文年間(一五三二~五五)には、さらに高い山頂に城を築いて防備を固めた。それがこの城から西方に指呼の間に望める大谷城である。同城は、殿奥城から西に谷一つ隔てた標高二六二メートルの山頂に築かれた峻険な山城で、二つの主郭と、この城と同様多数の竪堀を斜面に築いた特色のある構造を持っている。残念ながら、山の北半分が砕石場となり、既に遺構の一部は永久に地上から姿を消してしまった。 これら有地氏の城跡は、中世山城の変遷を典型的に示すものとして標準的な遺跡である。路線バスだと福山駅前から中国バス「有磨行き」に乗車して、終点「天満」で下車する。ここはほぼ上有地の中心でどの山城を訪ねるにも便利である。国竹城跡は東北に約五百メートル、南に無残な岩肌をさらしているのが大谷城跡である。殿奥城跡に行くには、天満から福山方面に四百メートル程引き返し、右に道を取る。池の土手が見えて来たら、左手の山際に注意する。登り口を見付けたら三〇メートルほど登り、さらに右手の山道に入る。ここからはいわゆる“薮こぎ”である。遮二無二左手の山頂を目指せば、行く手に城の堀切が姿を見せるはずである。 【殿奥城跡】
《参考文献》
「相方村古城主有地殿先祖覚」(福山城鏡櫓文書館)
「萩藩閥閲録」巻八三有地右衛門
得能正通編「備後叢書」
旧版「広島県史」(大正十三年刊)
芦品郡役所編「芦品郡誌」
芦品郡教育会「教育に立脚せる芦品郡基礎調査」
新人物往来社「日本城郭全集」(広島・香川・徳島)
同社刊「日本城郭体系」(広島・岡山)
田口義之「備後有地氏について」芸備地方史研究一四六
田口義之「有地氏の城跡」(山城志二ー一)
内田重徳「松頼」一・二集
内田重徳「芦田町散策」
内田隆三「相方誌」管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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