12月7日【ぶら探訪】近田に近世の痕跡をめぐる 開催
今回は古文書部会で続けている近田村井上家文書の解読によって見えてきた当時の村の景観やそこに住む人々の様子を手掛かりに、近田村に残る近世の痕跡を辿りました。
https://bingo-history.net/archives/29415https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2024/12/DSCN1204-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2024/12/DSCN1204-150x100.jpg活動報告今回は古文書部会で続けている近田村井上家文書の解読によって見えてきた当時の村の景観やそこに住む人々の様子を手掛かりに、近田村に残る近世の痕跡を辿りました。Sera taisera@pluto.dti.ne.jpEditor備陽史探訪の会福塩線近田駅に集合し出発。今日の案内は古文書部会 部会長の小林さんです。
近田八幡神社で。毛利が長州に移った後その家臣が浪人して庄屋となり、上山守の當島八幡から勧請した神社であると伝わる。ちょうど紅葉が見事で遅い秋を感じさせるぶら探訪でもありました。
近田八幡神社には、『備陽六郡志』に書かれている「近田村にあった石の鳥居の扁額」がそれに描かれたままの姿で置かれていた。著者の宮原直倁もこれを見たのか‥‥
『備陽六郡志』に書かれた大蛇のいた森の跡と言われる場所。当時の情景を想像するヒントにもなります。
神辺平野を潤す用水幹線の井溝川の芦田川からの取入れ口。ここから延々と服部川などの川の下をくぐりながら当時は片山のところで高屋川に排出していました。このほとりの道は旧府中街道でもあります。
中世は芦田川氾濫原の中洲であった場所に成立したと思われる沖組集落にある溝下八幡と札場灯籠。札場灯籠は当時と同じく街道(当時は府中街道、現在は国道)脇に鎮座しています。時代の変化を感じさせます。
近田駅で解散。講師の配慮で電車にも間に合いました。今日は天気も良く気温も最初は少し寒かったものの歩くには最適で快適なぶら探訪となりました。