備後に於ける宝篋印塔

(山城志第2巻2号、1983年(昭和58年)3月6日発行収録から活字化・校正)

井川博文

はじめに

宝篋印塔とは、宝篋印心呪経を納める塔としてこの名が生じた。五輪塔と並んで広く普及した塔形である。
宝篋印塔は、上から相輪、笠、塔身、基礎の部分からなる。基本的な関西式と、地方色の関東式があり、備後では前者の関西式であり、関西式とは基礎、基壇の各面が1区で、関東式とは前者で1区のところを2区としたものである。主に年代判定として、上から宝珠(相輪)・伏鉢・笠(隅飾)・塔身・蓮弁・格狭間などから判断する。本文に入る前に宝篋印塔について基礎的な事を述べたい。
第1図 関西式と関東式の宝篋印塔

  • 第1図において、左側が関東式、右側が関西式。
  • 相輪は、九輪部が鎌倉中期以前には、下から上に向かって目立たぬほどに細くなり、輪の刻出もおおまかな感じである。後期ではこれに似て輪の刻出もはっきりしてくる。室町時代ごろから九輪部が上方へ目立って細くなってゆく傾向がある。桃山・江戸時代では、あたかも番傘を立てたような円錐形のものが多い
  • 宝珠では、鎌倉中期以前のものは、少し押しつぶしたような形のものと、反対にやや背が高く蓮の蕾に似た形のものがある。後期になると両側の曲線に張りのある宝珠形が完成し、頂点をわずかに尖らせてある。南北朝ごろからは、頭が張り、裾ですぼまった宝珠があらわれる。室町時代以後では、両側の曲線が張らず直線に近くなって、かたい感じが段々進み江戸時代では、頂点をおそろしく長くとがらせるものができた。
    宝篋印塔の宝珠の時代様式
    宝珠
  • 第2図は、宝篋印塔の笠の隅飾の時代様式を表わすものである。鎌倉中期には、内側の弧線1つで軒と区別せずに刻み出し、外側の直線が直立する。鎌倉後期には、最も整美な形をなし、隅飾の外側線を心持ち外へ傾けて造る。南北朝時代には、2弧で大きく開く。江戸時代には、花弁のように反りかえったものが見られる。
    第2図 宝篋印塔の笠の隅飾の時代様式
  • 蓮弁は、立体的に刻み出したものと、側面観を薄肉や線刻であらわした場合とがある。弁の形式としては単弁と、中央の線で2つに分けて左右2つの隆起を作った複弁とがある。弁と弁との間に見せるものを間弁または小花という。
     宝篋印塔の蓮弁の時代様式"
    蓮弁
  • 第3図は、格狭間で基礎に使われる文様である。鎌倉時代は、花頭曲線も両側の曲線も張りがあって、力強さがある。特に内部の格狭間をふくらませて立体感を示すものが多い。室町時代では、花頭曲線が萎縮して、両側線も直線的に弾力性を失い、格狭間の形だけを線刻して内部を彫り沈めないものもある。
    第3図 宝篋印塔の格狭間の時代様式
  • 彫り方は浅い平底式と、鋭利感のある薬研彫がある。薬研彫とは断面V字状に彫り込むものをいう。平底式は鎌倉前期までつづく。

ここでは、「万福寺宝篋印塔」・「赤坂八幡宮宝篋印塔」・「日隈城付近宝篋印塔」・「伝有地氏宝篋印塔」・「厚山宝篋印塔」・「いこうか山宝篋印塔」「吉備津神社宝篋印塔」・「坪生宝篋印塔」・「正光院跡宝篋印塔」・「実蔵坊宝篋印塔」・「金持所在宝篋印塔」・「寒水寺宝篋印塔」の12ヶ所を取り上げる。これ以外にも立派なものが存在するが、ここではこれらを取り上げて吟味することにする。

1.厚山宝篋印塔

厚山宝篋印塔

新市町大字金丸厚山にあり、その内の1基は昭和33年1月18日に県重要文化財に指定された。

花崗岩製で、1.2mほど。宝篋印塔(全て花崗岩製)は3基、五輪塔は多数あり、粒状石灰岩(こごめ石)製のものもある。こごめ石は、比婆、高梁川付近で産出する。宝珠は半球形に近く、南北朝の特色を指すと思われ、笠は下2段上6段の隅飾は2弧輪郭付で内部素面の定形式。塔身は四方に金剛界四仏を梵字で刻す。基礎は上に中央複弁の左右に間弁を入れて隅も複弁の反花を刻出している。

この内の1基に下の銘文が刻してあり、康暦2年(1380)は今から607年前のものである。背後には、不確かではあるが天神山城と称された城があり、それと関係ある武士の7回忌の供養のために造られたものかもしれない。この宝篋印塔の細部を考察しても、南北朝後期と思える。これは銘文の年代とも一致するので、この銘文は後に刻まれたのではあるまい。

厚山宝篋印塔銘文
厚山宝篋印塔銘文

2.吉備津神社宝篋印塔

吉備津神社宝篋印塔
新市町大字宮内にある。花崗岩製。

相輪は宝珠が欠失している。相輪は輪の刻出がはっきしていて、鎌倉後期以降ものであろう。九輪部が上部へ目立って細くなっている。笠は下2段上6段で、隅飾は2弧で輪郭を巻いていて、内部は素面。軒は厚く、隅飾は背が高く外傾がやや目立つ。塔身は、本体としっくりいかず他のものと思え、付近には同形の笠と基礎が散在している。造立年代は、南北朝時代も終わりの1370年頃であろう。

付近には、3段の層塔がある。しかし一番上の笠は宝篋印塔のものらしい。相輪は九輪部の4輪目まで残し以上は欠失している。この笠は先に述べた宝篋印塔より新しい。これは層塔の2段と宝篋印塔の笠と合わせて3段にしている。もともと層塔とは層数を奇数に造るものであるためか。

3.伝有地氏宝篋印塔

伝有地氏宝篋印塔<

福山市芦田町下有地久田谷本安寺にある。

すべてで8基あり、前列に6基、後ろに1基、少し離れた所に1基ある。相輪の半分以上は欠失した状態で風化が激しい。前列で右側から3番目などは、基礎を2台重ね、その上に笠・相輪を重ねており、他も後ろに散乱していたものを組み立てたと思われる。宝珠はすべて存在しない。笠は下2段上6段が4基、下2段上5段が3基ある。もし笠を下2段上5段に造れば、手間が省け、負担も軽くすむ、いわゆる簡略形式とみられる。隅飾は、少し外傾している、風化が激しいが輪郭付2弧と素面があるらしい。基礎は上に中央複弁の左右に間弁を入れている。

この宝篋印塔は桃山時代頃の造立と思える。しかし前列の右端の基礎と右から5番目の相輪は他のものと異なる。

4.日隈城付近宝篋印塔

日隈城付近宝篋印塔

新市町にある日隈城の近くにある。日隈殿と呼ばれている。

相輪は存在せず、笠は下2段上5段で、隅飾は少し外に傾き素面である。前にも述べたが、笠の段を減らすことによって手間や負担も軽くすむ。(簡略形式)塔身には梵字だけを刻している。基礎は、上に2段を造っていて銘文を刻印している。銘文は次の通りである。

日隈城付近宝篋印塔銘文
日隈城付近宝篋印塔銘文

延文元年とは、1356年のことである。基礎には、格狭間は存在しない。笠・塔身・基礎などに簡略形式が見られる。銘文が後に刻されたものでないとすれば、1356年は南北朝中期にあたる。銘文だけを後に刻したものかもしれない。

5.寒水寺宝篋印塔

深安郡神辺町西中条寒水寺にあり、宝篋印塔は5基あり、すべて相輪は存在しない。

第4図は宝篋印塔だけの主な配列を表している。第4図のCは、相輪・基礎はない。笠は下2段上5段で、隅飾は2弧で輪郭を巻いていて、内部はすべて素面で大きく外傾している。そして軒は特に厚い。塔身は、月輪の内部を凹ませて梵字を陰刻している。

第4図

第4図のA、B、D、Eは特に風化が激しく笠の隅飾は欠失している。すべて軒がとても厚い。A、B、C、D、Eのうち、A、B、D、Eの笠は下2段上4段であったと思われる。塔身も風化が激しくよくわからないが、Bは月輪に梵字、Dは梵字だけを刻している。基礎も風化が激しい。Eの格狭間は扇形のものを配している。A、B、D、Eは基礎の上に2段を造っている。A、B、C、D、Eは粒状石灰岩(こごめ石)であることや、軒がとても厚いことなどの共通点が見られる。A、B、D、Eでは、基礎の上に2段を造っていることと、笠が下2段上4段であることなどの共通点が見られる。A、B、C、D、Eは部分点に誇張した傾向が見られる。

これら宝篋印塔は江戸時代の墓と寄せ集めている。これら宝篋印塔を細部まで調べてみると、造立は江戸時代ではないかと思われる。

6.実蔵坊宝篋印塔

実蔵坊宝篋印塔

場所は福山市金江町金見字近居実蔵坊で2基宝篋印塔が本堂の前に建っている。双方とも花崗岩製である。

まず、右の塔から説明すると、相輪は無く、笠は下2段上6段、2弧輪郭付で内部は素面で隅飾は外に傾き、そして隅に立っている側の輪郭を下ほど厚く造っている。塔身の4面には、月輪や蓮華座を刻まずに直接金剛界四仏の種子を陰刻してある。

その両端には、計16字を陰刻している。それは下に示している。永和4年は1378年。干支を斜めに入れるものは、室町時代以降である。(ここでは横に入れている)

実蔵坊宝篋印塔銘文
実蔵坊宝篋印塔銘文

基礎は、上に中央複弁の左右に間弁を入れ隅にも複弁の反花を刻出している。格狭間は4面に配している。基礎から笠まで(基壇は除いて)の高さは81cm。この宝篋印塔の年代は銘文の通り南北朝後期の特色を示している。

左側の宝篋印塔は火事に遭っている。そのため細部がはっきりしない。相輪は無い。笠は下2段上6段で、隅飾は2弧輪郭付で内部は素面の定形式(右塔も同じ)隅飾は右塔と同じだけ外に傾く。軒は薄い。基礎は上に中央複弁の左右に間弁を入れ隅にも複弁の反花を刻出している。背が低く、全体的に小規模である。年代判定を行うと桃山時代造立と思われる。

7.万福寺宝篋印塔

万福寺宝篋印塔

この宝篋印塔は尾道市西藤町万福寺の本堂の左側にある。宝篋印塔は花崗岩製。

相輪は宝珠と伏鉢を欠損している。笠は下2段上6段で2弧の輪郭を巻き、その内に蓮華座上に月輪を薄肉彫りしていて、月輪内は素面である。隅飾は少し外に傾き、軒は厚い。塔身は4面に蓮華座上に月輪を線刻して、内に金剛界四仏の種子を配している。蓮華座は5弁よりなっている。梵字は薬研彫りである。基礎は上に中央複弁の左右に間弁を入れて隅も複弁の反花を刻出している。正面3面は格狭間を配していて、背面に6行(計30文字)を陰刻している。貞治3年甲辰は1364年である。格狭間は全体的に膨れた感じになっている。高さは182.4cm。

万福寺宝篋印塔銘文
万福寺宝篋印塔銘文

8.赤坂八幡宮宝篋印塔

赤坂八幡宮宝篋印塔

場所は、福山市赤坂町中組鹿田にあり、花崗岩でできている。

相輪は折れた5輪目を今はつなげていて、他はよく現存している。笠は下2段上6段、2弧で輪郭を巻いていて、軒に垂直に立っている。基礎は、上に中央複弁で左右に間弁を入れ、隅にも反花を刻出している。そして各面に格狭間を配していて、格狭間は左右各2個の茨を極端に寄せて造っていて細部を見ると、宝珠の場合南北朝時代の特色はまだ見られない。全体的に大きく、重厚で、安定感がある。年代判定をしてみると鎌倉時代も終わりの1320年頃に造立したものであろう。そうなると、沼田東町納所米山寺の元応元年(1319)宝篋印塔に近い頃に造られたと思われる。

9.いこうか山宝篋印塔

いこうか山宝篋印塔

場所は、福山市赤坂町1番組いこうか山にあるいこうか山古墳の隣。

花崗岩でできていて、相輪は無く、笠は下2段上6段。隅飾は2弧で輪郭を巻いていて、内部は素面である。そして、少し傾いている。塔身は、梵字も銘文もない。しかし以前にあったかもしれない。基礎は、上に中央複弁で左右に間弁を入れ隅にも反花を刻出している。各面に格狭間を配している。

略寸

  • 基礎(底辺・49cm×高さ・25cm)
  • 塔身(底辺・25cm×高さ・24cm)
  • 軒 (底辺・45cm×高さ・3.5cm)

ここで宝篋印塔の略寸を上げてみたが、塔身に目をやると気づくと思うが、わずかに底辺より高さの方が低い。これは他の宝篋印塔にも見られるもので、背を低くすると錯覚のため正方形に見えるようにしてある。これは鎌倉後期のものに見られることが多い。

この塔は将軍塚とも言われる。将軍とは足利義昭のことをいう。しかしこの宝篋印塔の造立は1378年頃ではないかと思われ、義昭と年代が異なる。

10.金持所在宝篋印塔

金持所在宝篋印塔
福山市熊野町金持に4基の宝篋印塔と五輪塔が散在している。

第5図は簡単に配列を書いてみた。ABCD(正方形で表わしている)丸は五輪塔で表わしている。
第5図 金持所在宝篋印塔の配列

まずAは粒状石灰岩(こごめ石)であり、風化が激しい。相輪はない。次にBであるがこれはこの中で一番大きい。宝珠と相輪の1部を欠失している。伏鉢は少し大きくなっている。笠は下2段上6段で隅飾は2弧輪郭付で内部は素面で外傾している。塔身は、月輪・蓮華座は存在せず、梵字を陰刻している。基礎は上に2段を造り、各面に格狭間を配している。Cは相輪がなく、笠は下2段上5段。塔身は梵字のみを刻す。基礎は、上に中央複弁の左右に間弁を入れ隅も複弁の反花を刻出している。各面に格狭間を配している。Dも同様である。しかし笠だけは下2段上6段である。BCDは相似点が多く同時代のものであろう。これらを検討すると、南北朝も終り頃であろう。

11.坪生宝篋印塔

坪生宝篋印塔

ここには、2基の宝篋印塔と多数の五輪塔が散在している。

ここでは2基の宝篋印塔の内、西側にある1基を書く。相輪は宝珠と九輪の上から3輪までを残しあとは存在しない。笠は下1段上4段で、軒の1つ上の段は特に太く造っている。塔身は何も刻していない。基礎は上に中央複弁の左右に間弁を入れ隅も複弁の反花を刻出している。格狭間は各面には配してはいない。

全体に規模は小さく桃山時代のものと思われる。もう1基はこれと同形式である。しかし笠は下2段上4段である。

12.正光院跡宝篋印塔

正光院跡宝筐印塔

福山市山野町山野琴原。ここには宝篋印塔25基、五輪塔25基がある。

正面に並ぶ宝篋印塔の内、左から4基と他の粒状石灰岩ものを中心に書きたい。これらを表にしてみたい。左からA・B・C・Dとしておく。

<表1>

相輪塔身基礎
昔相輪の6輸目が折れていた。相輪は目立って細くなっている。輪の刻出が太い。下2段上6段。隅飾は2弧輪郭付・内部素面の定型式蓮華座上に月輪をともに薄肉彫りし、月輪内に梵字を陰刻している基礎の上に2段を造っている
宝珠は無い。Aと同じ。
伏鉢の形1←伏鉢の形。
Aと同じく定型式。Aに同じ。Aに同じ。
C相輪は完存.。輸の刻出は薄い。
伏鉢の形2←伏鉢の形。
Aと同じ定型式。しかし隅飾がA・Bより外傾している。Aに同じ。基礎の上に中央複弁の左右に間弁を入れ隅も複弁の反花を刻出している。
相輪は全部揃っている。相輪の輪が他ものものと比べて薄く間が狭い。Cと同じ。Aに同じ。Cと同じ。
A・B・Dの伏鉢は同じ形。Cの宝珠の先は他と比べ尖っている。A・B・C・Dの蓮華座は薬研彫。

5番目の宝篋印塔は粒状石灰岩(こごめ石)でできている。塔身には”白壁”と刻している。

表1を見ると、A・BとC・Dにおのおの相似点がある。Aの方から大きく、A→B→C→Dと小さくなる。A・BはC・Dより古いと思え、A・Bは1365年から1370年頃に造立されたものであろう。そして、C・Dはそれより数年後に造られたものであろう。ここにある粒状石灰岩(こごめ石)の宝篋印塔は新しくても桃山時代ものであろう。A・B・C・Dの宝篋印塔は2であげた吉備津神社宝篋印塔とよく似ている。しかし、細部を見ると違いがある。

造立年代も近く、”白壁”という銘文と宮氏との関係があり、吉備津神社宝篋印塔と関係がありそうだ。

まとめ

今まであげた12ヶ所の宝篋印塔をまとめてみたい。

前期(赤坂宝篋印塔・万福寺・吉備津など)は大型で重量感がある。

中期(いこうか山・実蔵坊)は少し小さくなる。

後期(伝有地・坪生・寒水寺)は小型化し、不安定な形で硬直感があるようだ。

次に笠の型を分類してみると、

  • 下2段上6段  19基
  • 下2段上5段  5基
  • 下2段上4段  5基
  • 下1段上4段  1基

新しくなるほど定型式(下2段上6段)から下1段上4段と段数が減っている。

備後に於ける宝篋印塔(特徴と実例)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/d2ba0f28b5f93bf7de09eb9a25b38bc4.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/07/d2ba0f28b5f93bf7de09eb9a25b38bc4-150x100.jpg管理人中世史論考(山城志第2巻2号、1983年(昭和58年)3月6日発行収録から活字化・校正) 井川博文 はじめに 宝篋印塔とは、宝篋印心呪経を納める塔としてこの名が生じた。五輪塔と並んで広く普及した塔形である。 宝篋印塔は、上から相輪、笠、塔身、基礎の部分からなる。基本的な関西式と、地方色の関東式があり、備後では前者の関西式であり、関西式とは基礎、基壇の各面が1区で、関東式とは前者で1区のところを2区としたものである。主に年代判定として、上から宝珠(相輪)・伏鉢・笠(隅飾)・塔身・蓮弁・格狭間などから判断する。本文に入る前に宝篋印塔について基礎的な事を述べたい。 第1図において、左側が関東式、右側が関西式。 相輪は、九輪部が鎌倉中期以前には、下から上に向かって目立たぬほどに細くなり、輪の刻出もおおまかな感じである。後期ではこれに似て輪の刻出もはっきりしてくる。室町時代ごろから九輪部が上方へ目立って細くなってゆく傾向がある。桃山・江戸時代では、あたかも番傘を立てたような円錐形のものが多い 宝珠では、鎌倉中期以前のものは、少し押しつぶしたような形のものと、反対にやや背が高く蓮の蕾に似た形のものがある。後期になると両側の曲線に張りのある宝珠形が完成し、頂点をわずかに尖らせてある。南北朝ごろからは、頭が張り、裾ですぼまった宝珠があらわれる。室町時代以後では、両側の曲線が張らず直線に近くなって、かたい感じが段々進み江戸時代では、頂点をおそろしく長くとがらせるものができた。 第2図は、宝篋印塔の笠の隅飾の時代様式を表わすものである。鎌倉中期には、内側の弧線1つで軒と区別せずに刻み出し、外側の直線が直立する。鎌倉後期には、最も整美な形をなし、隅飾の外側線を心持ち外へ傾けて造る。南北朝時代には、2弧で大きく開く。江戸時代には、花弁のように反りかえったものが見られる。 蓮弁は、立体的に刻み出したものと、側面観を薄肉や線刻であらわした場合とがある。弁の形式としては単弁と、中央の線で2つに分けて左右2つの隆起を作った複弁とがある。弁と弁との間に見せるものを間弁または小花という。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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