1984年05月30日

わが町 日本鋼管とともに(4)

備陽史探訪:19号」より

種本 実

大門付近(JFE)福山港

その1鋼管町・引野町④

鋼管の進出により大きく変った引野町のありし日の姿を追って私はマイクならぬノートを片手に地元の人々に突撃インタビューを試みた。初めての経験であり、かなり勇気を要したが期待以上の音話を得ることができ、地元の人々の厚意に深く感謝しています。以下昔話を記述してみます。

鋼管が来る前は、寄せては返す波の音だけの静かで淋しい所でした。水はすきとうったきれいな海でした。あんなきれいな海はもうないでしょう。

夏になると、近郊から先生に引率された小学生や家族連れの海水浴客で大変にぎやかでした。当時の海の家もまだ残っています。お医者さんの別荘もありました。

昔はバス通りも狭く大八車がやっと通れる程で私は人力車でこの家へ来ました。道はだんだん広がり私の家の敷地もだいぶへりました。昔はバスが天当山(引野入口)迄しかなかったのですが航空隊が来てからここ迄通るようになりました。

戦前は韓国の人々が建設に従事させられた航空隊があり、赤トンボと呼ばれた訓練機で若い人達が訓練していました。塩が足りないのか、兵隊さんが塩田を作っていると、米機の銃撃を受けたこともありました。隣の広大水畜産学部には、ヤギ・羊・牛などを飼っていて、私の家の牛が病気になった時など獣医さんがみて下さいました。

あんなぬかるみの海に本当に工場ができるのかな、と思いましたがあれよ、あれよという間に工場が建ちました。トラックの砂ぼこりやコークスの粉じんで一時は公害もひどかったです。

鋼管が来て急に交通量が増えたので飼っていたネコが6匹ひかれました。広い鋼管道路はできてから当分散水したり、塩をまいて砂ぼこりを防いでいたのですが、昭和43年に皇太子殿下が来福された時通られるので舗装されました。

鋼管が来る前は箕島や鞆が目の前でした。今は工場が目の前ですがその代わり、台風などの風波の害が無くなりました。この石垣はかつての台風の高波でくずれたのですが、もうそのような心配はありません。にぎやかになり、交通も便利になりよかった面もあります。

貨物駅を旅客駅にする運動を続けてこられたYさんの話。

当時全国で16ヶ所の新設駅建設の請願があったのですが、東福山駅の場合貨物駅建設の区画整理の際、南北に広場を確保していたのが有効だったのです。昭和41年に貨物駅ができてから地元では旅客駅化の運動をねばり強く続け、52年からは当時の立石市長を先頭に市をあげての運動となり国鉄本社にも陳情に行きました。結局建設費4億6600万円と職員3人の管理費5年間を地元負担とする条件で昭和54年4月1日に旅客駅となったのです。
今年の4月1日に5周年の記念祝賀式が駅前広場で開かれ、のど自慢大会やゲートボール大会など行われました。かつては一面田園風景でしたが、これも時の流れでしょう。

以上、連休を利用して地元の人々にインタビューして得られた昔話を掲載しました。

次回は団地の街「旭丘地区」のうつり変わり等を追ってみます。

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