消滅した「高岩第一号古墳」について(破壊前の状況と現状)

備陽史探訪:164号」より

岡田 宏一郎

松永バイパス建設工事によって、「標高57m」の丘陵地が削られ、バイパス道路となった。当然丘陵にあった古墳も石室ごと消滅してしまった。松永地域をめぐる「親と子の古墳めぐり」の時、高岩公園で見た「戸田古墳」(カンバンには高岩古墳と書いてあったが戸田古墳が正しい)や今津墓苑にあった「鳥越第2号古墳」を観察したが、その下にあった「高岩第一号古墳」については触れられなかったので、ここで紹介しておきます。

高岩第一号古墳周辺図

場所は今津小学校前にある高岩公園橋北東の下、ちょうど松永バイパスと山陽自動車道から松永バイパスに下って行き、交差する地点の三角緑地帯の場所にあった。今は平坦地だが当時は丘陵部で畑もあった場所である。

高岩第一号古墳現況

この一帯には鳥越古墳群や永松古墳・長波古墳など横穴式石室の後期古墳群だけではなく、葉粉池上遺跡や高岩遺跡などもあった場所であるが、現在は消滅していて当時の面影がまったく無いのが残念である。いずれも松永湾を見下ろせる高台で南側に面していた。

この高岩第1号古墳が何処にあったかその位置が知りたかったが、地元の人も正確な場所を知っていなかった。そこで福山市教育委員会文化課を訪問して教えてもらいようやく判明したのである。

古墳が破壊される前の写真を地元の今津老人会長から提供してもらい、その写真を提示して文化課の人から説明を受け、資料などをもらったので高岩古墳の概要が分かってきた。

高岩古墳周辺地形図

石室の石は今津小学校北門あたりに埋めたと聞いていたので、場所を小学校の先生や地元の人に聞いて回ったがやはり誰も知っていなかったし市教委も分からないと云われた。

ここでもらった調査資料をもとに「高岩1号古墳」についての概略を書いてみます。

高岩一号古墳の石室は周辺の古墳群よりも大きく「西側壁の長さ6・6m 同東側壁5・4m、幅は奥壁部直下で1・5m」あり、高さは奥壁部「2・4m」を測ると書かれていた。

入口に門柱石がなく無袖であったと云われている。石室床面から「須恵器・土師器・耳環」などが出土し、中世・近世の土師質土器や須恵器も出土している。

耳環が2対出土していることや棺台の幅などから2回埋葬され、その時間もあまり降らない時期に追葬が行われたと推定される。

高岩第一号古墳石室

当時から墳丘は削られ石室も確認されているが墳丘の規模は大きなものだと思われる。築造期は須恵器などから「ほぼ6世紀後半頃」のものとされる。

この地域の古墳としては大規模であるため、被葬者はかなり高い政治的地位を持っていたと思われる。これは高岩公園の「戸田古墳」も同様であろうと推定される。

消滅した「高岩第一号古墳」があった位置と遺存図・露出した石室の写真を見て欲しい。

(引用及び参考調査資料)
『松永バイパス建設地内埋蔵文化財発掘調査報告』建設省福山工事事務所 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター
【高岩第一号古墳跡の位置】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/164-3.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/164-3-150x150.jpg管理人古代史備陽史探訪,古墳,論考「備陽史探訪:164号」より 岡田 宏一郎 松永バイパス建設工事によって、「標高57m」の丘陵地が削られ、バイパス道路となった。当然丘陵にあった古墳も石室ごと消滅してしまった。松永地域をめぐる「親と子の古墳めぐり」の時、高岩公園で見た「戸田古墳」(カンバンには高岩古墳と書いてあったが戸田古墳が正しい)や今津墓苑にあった「鳥越第2号古墳」を観察したが、その下にあった「高岩第一号古墳」については触れられなかったので、ここで紹介しておきます。 場所は今津小学校前にある高岩公園橋北東の下、ちょうど松永バイパスと山陽自動車道から松永バイパスに下って行き、交差する地点の三角緑地帯の場所にあった。今は平坦地だが当時は丘陵部で畑もあった場所である。 この一帯には鳥越古墳群や永松古墳・長波古墳など横穴式石室の後期古墳群だけではなく、葉粉池上遺跡や高岩遺跡などもあった場所であるが、現在は消滅していて当時の面影がまったく無いのが残念である。いずれも松永湾を見下ろせる高台で南側に面していた。 この高岩第1号古墳が何処にあったかその位置が知りたかったが、地元の人も正確な場所を知っていなかった。そこで福山市教育委員会文化課を訪問して教えてもらいようやく判明したのである。 古墳が破壊される前の写真を地元の今津老人会長から提供してもらい、その写真を提示して文化課の人から説明を受け、資料などをもらったので高岩古墳の概要が分かってきた。 石室の石は今津小学校北門あたりに埋めたと聞いていたので、場所を小学校の先生や地元の人に聞いて回ったがやはり誰も知っていなかったし市教委も分からないと云われた。 ここでもらった調査資料をもとに「高岩1号古墳」についての概略を書いてみます。 高岩一号古墳の石室は周辺の古墳群よりも大きく「西側壁の長さ6・6m 同東側壁5・4m、幅は奥壁部直下で1・5m」あり、高さは奥壁部「2・4m」を測ると書かれていた。 入口に門柱石がなく無袖であったと云われている。石室床面から「須恵器・土師器・耳環」などが出土し、中世・近世の土師質土器や須恵器も出土している。 耳環が2対出土していることや棺台の幅などから2回埋葬され、その時間もあまり降らない時期に追葬が行われたと推定される。 当時から墳丘は削られ石室も確認されているが墳丘の規模は大きなものだと思われる。築造期は須恵器などから「ほぼ6世紀後半頃」のものとされる。 この地域の古墳としては大規模であるため、被葬者はかなり高い政治的地位を持っていたと思われる。これは高岩公園の「戸田古墳」も同様であろうと推定される。 消滅した「高岩第一号古墳」があった位置と遺存図・露出した石室の写真を見て欲しい。 (引用及び参考調査資料) 『松永バイパス建設地内埋蔵文化財発掘調査報告』建設省福山工事事務所 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター 【高岩第一号古墳跡の位置】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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