2009年06月04日

遍照寺山城頼り(神辺町中条城郭測量調査)

備陽史探訪:148号」より

城郭研究部会 藤波 平次郎

 五月十七日私は始めて調査に参加できず紀伊半島の東、和歌山県新宮市の少し先の名所「七里御浜」に居た。朝から雨が降ったり止んだり、少し風もあって目前の熊野灘も白波がたって、普段丸く見える水平線も煙っていた。一方、備後遍照寺山城ではみんな集合したものの途端に雨が降りだして直ちに中止を決定せざるを得なかったと後で藤井事務局長に聞いた。

調査を始めて以来三度目の雨降りである。山の規模では違いはあるが背後の紀伊の山々も霞んで頂上は見えずらかったが、中条の遍照寺山城周辺も同じだっただろうと思う。調査も中盤にかかり一日の中断は辛いが当初から続ける参加者にとって良い休養日となっただろう。参加する人達からは我々の奮闘を是非伝えてよとの要望もあり、調査はまだまだ途次であることを紙面を借りて伝えておく義務が私にはある。

思えば二月から本格的調査に入り、除伐・伐採が続き、その郭の広さ、数の多さに驚きつつ今日まで続き日数も十七日、延べ人数も百五十七名と協力頂いて城の形もはっきり出てきた。

昼食の時、出る話題では当時(戦国期)宮氏は何故、神辺中条にこれだけの城を築かなければならなかったか、と言うこと、規模からするとここが宮氏の本城に間違いがなかろうとの結論に達する。奥からは山名氏、尼子氏、安芸の大内氏らに取り囲まれ、室町幕府の奉公衆といえども安穏とはしておれなかった筈である。備後でも各国人衆の台頭があった。いくら強固な城を造ってもおかしくはなかったのであろう。

調査日の或る日、安光部落挙げての墓地掃除の日にぶつかったが、そのように農民がかなり動員されたのだろうと思った。この頃の山城は石垣を築かず、土から成るの字の通り、土を掘り、堀を造り、土を積みあげては土塁を造り、出入り口に木柵を設け簡単な枡形を造ったのだろう。神辺の要害山の土の枡形、御調の牛の皮城の竪堀は凄いものがあったのを思いだす。宮氏の家中にも今回の指揮者の坂本氏のように縄張りの出来る人がいて曲輪の配置や堀の掘り出しの指示をした人がいた筈である。その指示のもと私達は働いている。

その指揮者の気苦労も大変なもので奥様の好意によるトン汁は寒さの中御馳走だった。そして変わらず牧平さんを先頭に女性軍が温かいコーヒーを用意してくれる。築城当時もきっと農家の女性軍の炊き出しがあっただろうと思う。

時は寒い冬から暑さを感じる初夏に移り、今更築城の大変さをかいま見る事ができる感激に浸ることもある。時には殺気立つ現場を田中宏氏のジョークで笑いに変えたり、その相棒の内樋三三氏の地道な仕事、病をおして激励に来て下さった出内先生や測量を二度三度にわたって教示下さった篠原氏や坂本氏の娘婿の寺岡氏、興味をもって来て下さりながら手伝いをされる藤本さん、鼓氏、大本氏など、いずれ参加された人たちの名を公表する機会もあろうかと思うが、会員有志以外の参加もあって現場はいつも盛り上がっているのである。いずれ秋には成果の発表ができて、また、備後の山城のひとつの様子が明らかになれば、その時代の人たちの思いが分かるのではないかと思い、このあとも調査を続けていく。

今、私は当会が平成七年五月に出版した「山城探訪福山周辺山城三十選」を取り出している。その本のおわりに「山城を探索する」として末森清司氏の文章を参考にしている。以前、安土城探訪の時、歩行困難の会員を背負って下りられた氏に古武士の面影を見た。この会きってのヤンチャの佐藤のキンちゃんが尊敬していたのもよくわかる。どうか無事にこの調査の終わることを祈念しながら乞うご期待である。また、来る人拒まずなので見学手伝い参加の人はどうか事務局までお知らせください。