2011年08月16日

宿久茂塚と有地玄蕃(福山市芦田町福田)

各地の城跡を見てまわっていると、驚くような小規模な山城跡に出くわすことがある。今まで見た中で、一番規模が小さかったのは、世羅町堀越の「月山城」だろう。

高さ20メートルほどの円錐形の小山の山頂に神社があり、平らになっている。よく見ると社の背後に土塁がある。確かに山城の跡だ。『芸藩通志』をひも解くと、小寺十郎左衛門の居とある。

福山市内にも、小さな山城跡が残っている。新市の柏周辺と、宮内の「一宮さん」の周りには、小さな山城が密集する。何れも50坪ほどの曲輪に10坪前後の小曲輪が付属するだけの簡単なもので、単独では意味をなさない。だが、柏の城郭群などは、全体で見ると規模雄大な山城の群れを構成し、一つの山城として機能していたことがうかがえる。

記録を見ると、備後最大の豪族、「壱萬六千貫の宮殿」と呼ばれた宮氏の惣領、宮下野守が、応仁文明の乱の最中と、永正18年(1521)にこの城に立て籠もったことが知られ、全体が宮氏の本拠として機能していたことがわかる。一宮さん周辺の山城も宮氏が築いた城塞群のひとつであろう。

柏や宮内の小さな山城を除くと、福山市内で最も小規模な山城は芦田町福田の「宿久茂塚(すくもづか)城」だろう。山城といっても、高さは5メートルほどしかなく、北30メートルのところにある芦田川の土手の高さと変わらない。だが、現地を訪ねてみると、紛れもなく戦国城塞の跡である。

芦田川の土手から見ると、単なる小さな「森」にしか見えないが、確かに小山となっていて、頂きに神社がある。南から参道を登ると、左右に「土塁」が見られる。さらに、神社の背後にも土塁が残り、確かに城郭として使用された痕跡がある。目を凝らすと、小山の中腹には「切岸」と考えられる加工の跡が残っている。「切岸」は、中世山城を観察する場合、最初に確認しなければならない遺構で、人工的に崖を造ったものだ。

このように、小規模とはいえ、この城は「切岸」「土塁」「曲輪」を備えた立派な山城だ。 現地に立って見ると、北に芦田川が流れ、周囲は広々とした美田が広がり、「見張り用」の砦としては格好の位置を占めている。

戦国時代、芦田町一帯を支配した有地氏の伝承を記した『相方城主有地殿先祖覚』によると、野心に燃える有地隆信は、隣接する福田の領主福田氏を討って同地を併呑し、「福田才町すくも塚と申すところ」に弟の有地玄蕃を「押さえ」として置き、自らは居城を大谷城に移したという。

大谷城は芦田町の中心に聳える大規模な戦国山城だ。隆信は大谷に居城を構えると共に、北方の押さえとして、この城を築き、実弟を城番として置いたのであろう。だが、立地規模から見て、長く使用されたとは考えがたい。

有地氏は、その後、新市町の戸手から駅家町の近田辺りまで勢力を広げているから、有地氏の勢力拡大と共に自然に廃城になったと考えられる。