2011年09月02日

畝状竪堀群の残る矢栗城跡(福山市沼隈町)

矢栗城跡

矢栗城と渋川氏

福山から沼隈への道を、沼隈農協を過ぎて2キロほど進むと、右手に山頂がへこんだような独立峰が見えてくる。これが矢栗城跡のある「大納言山」だ。

標高は170メートル足らずしかないが、周りに低い丘陵を従えているため高く見え、「高城(たかんじょう)」とも呼ばれている。城跡に登る道はない。

今から10年以上前、備陽史探訪の会でこの山城を調査した時は、東の山麓から中腹まで墓地や畑への道を利用し、道が途切れてからは、しゃにむに山頂を目指した。山頂には崩れかけた小さな社があり(今はもうないかも知れない)、探せば社への参道があると思われるが、調査した時点ではわからなかった(帰路は北の山麓に降りたような記憶があるから、北麓からの登山道があるのかも知れない)。

城山は南北二つの峰に分かれ、南側の高い山頂を中心にして城跡が残っている。本丸は長さ60メートル、幅20メートルの長方形の平坦地で、東北と西南にそれぞれ二段の腰曲輪が付属する。

注目されるのは西南の腰曲輪の下に設けられた「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」だ。竪堀は、横堀や堀切が尾根や斜面を塹壕状にほぼ水平に構築するのに対し、斜面を上から下へ垂直に掘り込んだ施設で、一般に、敵兵の水平移動を阻止する施設だと言われている。この竪堀が密集して設けられたのが畝状竪堀群である。最近、尾道市の御調町で畝状竪堀群の現物が発掘され、詳細が明らかになった。

それによると、三日月状の横堀から放射状に竪堀が掘られ、竪堀と竪堀の間は土塁状に高く盛り上がっている。細長い帯曲輪から放射状に高い土塁を麓に向かって構築した、と形容しても良い状況であった。実際に発掘現場で見た畝状竪堀群は不気味な施設だ。登ってくる敵兵は竪堀群に入ったが最後、脱出は不可能に近い。左右は高い土塁で身動きできず、上からは竪堀の中に矢や礫が雨あられのように浴びせられる。

畝状竪堀群の存在は、この城の構築年代(或いは修築年代)を暗示している。天文年間(1532~55)の築城テキストと考えられている「築城記」に「たつ堀の事」として、その構築方法が記されており、戦国時代中期に近畿地方で開発され、以後十六世紀末まで全国的に流行した。そして、畝状竪堀群は村落の土豪クラスの城にはほとんど見られず、国人クラス以上の山城に見られる遺構である。沼隈半島南部には在地生え抜きの国人はいない。

矢栗城の城主として「備後古城記」は、工藤和泉守、田中伊賀守・同壱岐守の名を挙げているが、彼らに畝状竪堀群を構築できたとは思えない。工藤氏は、南北朝時代の「浄土寺文書」にその名が見えるが、以後国人として活躍した形跡はない。田中氏も史料上確認できない。

矢栗城の畝状竪堀群の構築者として考えられるのは南北朝時代から天正元年(1573)まで、この地の領主として君臨した渋川氏である。本拠は三原市の八幡に置いていたが、尾道の鳴滝山から向島を経て、同浦崎のルートを確保して山南を支配した。矢栗城はその拠点として構築された山城と見てまず間違いない。

工藤氏や田中氏の在城が確かなものであれば、それは渋川氏の城代として在番したものだろう。

【矢栗城跡】