鞆 本願寺(福山市鞆町後地)

福山の遺跡一〇〇選」より

神谷 和孝

鞆 本願寺
鞆 本願寺

福山駅から鞆鉄バスに乗車して三〇分、安国寺下バス停で下車。安国寺に向けて進み、安国寺の塀に突き当って左折し慈徳寺に到り、その寺院のすぐ後方に本願寺がある。山門も他の寺院に比較すると小さく、ややもすると、見過してしまう小寺である。然しこの寺の由緒をひもといていくと、鎌倉時代の開基以来繁栄し五つもの末寺を持ち、朝鮮通信使来訪の折にはその常宿となっていた大寺であることがわかる。

本願寺は時宗の寺院である。時宗の開祖、遊行上人一遍によって開かれたと寺伝にある。時宗は日本浄土教系の一派で古くは時衆、遊行宗とも言われた。開祖一遍は文永一一(一二七四)年、熊野権現の証誠殿の神殿において悟りを開いた後、一六年間全国を遊行し正応二(一二八九)年に神戸の観音堂で歿す。

時宗寺院の多くは海港に分布している。地域を福山周辺に限って見ても、尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺等が存し、福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったが、永海寺は宝暦四(一七五四)年に焼失して今はない。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではなかろうか(ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみである)。

本願寺が開山したのは弘安年中(一二七八~一二八七)、鎌倉時代の中期だと寺伝は記す。もともと時宗は民衆を対象とした教科活動に力を入れていたが次第に守護大名を頂点とする武士層の信仰を得て信徒の数を増大させていった。その時代、鞆の本願寺は瀬戸内の時宗の拠点となっていたと思われる。

然し時代が推移し毛利輝元が中国地方を統一し本願寺の寺領の大半を没収したのを機に次第に衰退し、福島正則が鞆支配の折、町区改正を行い本願寺はこの時現在の地に移り、明治以後は衰退の一途をたどり、無住の状態が続いた。

本願寺隆盛の状況を物語るものは鞆や本願寺には今のところ皆無であるが、兵庫県加古川の龍泉寺の当麻曼茶羅(現兵庫県重要文化財)から本願寺往時の隆盛を偲ぶことが出来る。当麻曼茶羅は奈良当麻寺に伝来する綴織の観無量寿経変相のことで鎌倉時代初期以降この転写本が多数描かれたが龍泉寺の当麻曼茶羅はその代表的なもので、その曼茶羅の前に立った時、その圧巻にうたれ、これが奉納された本願寺の勢力をしのぶ事が出来た。この曼荼羅は備後州鞆町の住、右衛門尉藤原為重、小野氏女夫妻によって沖御堂、すなわち本願寺に元応元(一三一九)年、奉納されたものである。

無住だった本願寺も昭和四七年、原井友治氏が父友吉氏の遺志を継いで自ら住職となり本願寺を再建、更に原井友三氏が四九代住職として本願寺を維持している。

【鞆 本願寺】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/ebdaa5e4cb756e4e673190505c636019.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/ebdaa5e4cb756e4e673190505c636019-150x100.jpg管理人中世史「福山の遺跡一〇〇選」より 神谷 和孝 福山駅から鞆鉄バスに乗車して三〇分、安国寺下バス停で下車。安国寺に向けて進み、安国寺の塀に突き当って左折し慈徳寺に到り、その寺院のすぐ後方に本願寺がある。山門も他の寺院に比較すると小さく、ややもすると、見過してしまう小寺である。然しこの寺の由緒をひもといていくと、鎌倉時代の開基以来繁栄し五つもの末寺を持ち、朝鮮通信使来訪の折にはその常宿となっていた大寺であることがわかる。 本願寺は時宗の寺院である。時宗の開祖、遊行上人一遍によって開かれたと寺伝にある。時宗は日本浄土教系の一派で古くは時衆、遊行宗とも言われた。開祖一遍は文永一一(一二七四)年、熊野権現の証誠殿の神殿において悟りを開いた後、一六年間全国を遊行し正応二(一二八九)年に神戸の観音堂で歿す。 時宗寺院の多くは海港に分布している。地域を福山周辺に限って見ても、尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺等が存し、福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったが、永海寺は宝暦四(一七五四)年に焼失して今はない。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではなかろうか(ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみである)。 本願寺が開山したのは弘安年中(一二七八~一二八七)、鎌倉時代の中期だと寺伝は記す。もともと時宗は民衆を対象とした教科活動に力を入れていたが次第に守護大名を頂点とする武士層の信仰を得て信徒の数を増大させていった。その時代、鞆の本願寺は瀬戸内の時宗の拠点となっていたと思われる。 然し時代が推移し毛利輝元が中国地方を統一し本願寺の寺領の大半を没収したのを機に次第に衰退し、福島正則が鞆支配の折、町区改正を行い本願寺はこの時現在の地に移り、明治以後は衰退の一途をたどり、無住の状態が続いた。 本願寺隆盛の状況を物語るものは鞆や本願寺には今のところ皆無であるが、兵庫県加古川の龍泉寺の当麻曼茶羅(現兵庫県重要文化財)から本願寺往時の隆盛を偲ぶことが出来る。当麻曼茶羅は奈良当麻寺に伝来する綴織の観無量寿経変相のことで鎌倉時代初期以降この転写本が多数描かれたが龍泉寺の当麻曼茶羅はその代表的なもので、その曼茶羅の前に立った時、その圧巻にうたれ、これが奉納された本願寺の勢力をしのぶ事が出来た。この曼荼羅は備後州鞆町の住、右衛門尉藤原為重、小野氏女夫妻によって沖御堂、すなわち本願寺に元応元(一三一九)年、奉納されたものである。 無住だった本願寺も昭和四七年、原井友治氏が父友吉氏の遺志を継いで自ら住職となり本願寺を再建、更に原井友三氏が四九代住職として本願寺を維持している。 【鞆 本願寺】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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