福山の遺跡一〇〇選」より

坂本 敏夫

御領堀館近景
御領堀館近景

国道三一三号線から県道上御領八尋線を八尋方面に高屋川を越えると、道路西側に周辺の水田区画とは明らかに異なる一辺約五〇m四方に区画された一画がある。御領「堀館跡」である。この区画された一帯には、三枚の長方形の水田を、細長い水田が囲うように区画されており、区画された水田の南西部に墓地、北西隅に古木と薬師堂、北東辺に民家が存在する。

水田区画に中世の居館跡をよく留めており貴重な中世城館遺跡の一つである。関係は不明だが近くに御領滝山城跡がある。

現況は民家の敷地と薬師堂の敷地・墓地以外は耕地となっているが、明治三一(一八九八)年作製の「堀全図」と記載されている切図を見ると三枚の水田を囲むように東、南、西側に細長い水田、北東部は宅地、西北部は宮地が記載されており、さらに北東部の宅地外側を囲むように水田が記されている。

土地の古老の話では、北東部の屋敷地内の一部に昭和三〇年代初め頃まで竹薮状の土塁跡と水堀が存在し、民家敷地隅に昔は井戸があり、其の井戸を埋め戻す時に井戸周辺から五輪塔の残欠と土器片が出土したという。数十年前までは堀と土塁を構えた中世の居館跡の面影を留めていたといえる。

この堀館跡は、外側の大きい水田部分が堀跡、内側の細長い耕地部分が土塁跡であり、西北の隅が屋鋪神であり、屋鋪神跡は現在薬師堂となっている。居館跡周辺の地利を見てみると館跡北方には、東西に古代山陽道、その南に高屋川が西流し、古代山陽道から南に向かって館の東側を八尋へ、さらに八尋からは笠岡方面と井原市稲木方面への道が通じており、古山陽道から西方方面へは、上御領から中条三谷経由で福山市北部加茂谷方面へと、さらに隣町岡山県井原市高屋町を経て、高屋川川筋を北上すると芳井町方面へと続く。昔は岡山県井原市から小田川流路が西に分流して高屋川となり、水量の多い高屋川が館跡近くを西流していたと考えられ、地域間交通の要衝に立地した館である。

中世城館に付随している水堀の役割は、館の防御目的に加え、周辺水田の水利目的の役割があったとぃわれている。御領堀館も外側に堀、内側を土塁とし、直営田に水を供給するに容易な造りとなっており、近年の中世城館研究の説とも合致する。館の主は不明であるが、地域に密着した中世名主クラスの小豪族と考える。

【御領堀館跡】