福山の遺跡一〇〇選」より

小林 定市

鞆城跡 中央の高所 南面より
鞆城跡 中央の高所 南面より

鞆は備後の顔であり玄関である。戦同時代の鞆の支配権は、守護山名氏が掌握していたが、山名氏は度々の分裂で次第に弱体化していった。山名氏の衰退によって大内義隆が西から、北からは尼子氏が勢力拡大を図り備後に侵入してきた。

天文七(一五三八)年前後の頃尼子詮久(晴久)は、山田郷(福山市熊野町)の渡辺越中守兼に昔年の通り鞆支配を進めることを了承している。天文一〇年の郡山合戦以後は尼子晴久の勢力が後退し替わって大内義隆が勢力を伸ばし、天文一三年、因島の村上吉充に鞆浦十八貫を与えた。

大内義隆は天文二〇年九月、武断派の家臣陶晴房に滅ぼされてしまった。天文二二(一五五三)年、毛利元就は大内氏の内紛による弱体化を好機到来と、備中進出の足場造りに山田郷の渡辺出雲守房に新要害の普請を命じていた。

当時元就は備北に進出し尼子晴久と対陣しており、その陣中に出雲守房から鞆要害完了の書状が届いたのであろう。同年五月一〇日元就と隆元は出雲守房に宛てて感謝の連署状を送っている。前記の渡辺文書により鞆城の築城は、通説の天正四(一五七六)年より二三年も遡ることが判明した。

足利幕府最後の将軍足利義昭が、織田信長を倒そうとして全国の大名に書状を送ったことで知られる鞆城は、標高二四mの独立丘陵で、城郭の規模は東西約二百m余り南北約百m程度ある。本丸は東側の最高所(五五m×四〇m)にあり、二の丸は本丸の西に隣接して長さが約五Omで比高は約八m下にあり、本丸南側下を巡る帯郭と繋がっている。更に二の丸の西には一段と低い所に三の丸があり、少し下の南方に真言宗地蔵院がある辺りまでが城域だったようである。

この地蔵院に竹田法印が寄進した、伊予國新居郡佛國山瑞応寺の大般若経六〇〇巻二六五品が伝えられている。現在まで秀吉と義昭が和睦に至る経緯が不明であったが、この大般若経に秘密を解く鍵が隠されていた。天正一五年正月頃秀吉は義昭の病気を気遣い、御伽衆の医師竹田法印を津之郷に派遣して治療に当らせた結果病気は平癒しており、秀吉の外交交渉に長けた巧妙な人身収攪術が、義昭とこじれた関係を修復し後に田邊寺で講和を実現させる伏線となった。

天正四年二月、足利義昭は鞆に下向して鞆幕府を開くのであるが、早速毛利輝元は城山に新造の櫓又は御殿を造営して義昭に提供したらしく、鞆城跡から足利家の家紋である桐紋入りの棟瓦が発見されている。

天正一〇年春になると毛利方の戦況は次第に悪化し、来島の村上氏が秀吉方に寝返えるとか、信長配下の海賊衆が塩飽諸島を制圧する等したため鞆は危険地となった。そこで義昭は暫く山田郷に避難し、次いで津之郷の地を与えられ御殿山に移って行った。

その後毛利氏は関ヶ原合戦後に防長へ移封され、新しく福嶋正則が芸備に入ってくると、鞆城に二重の天守閣を築き重臣の大崎玄蕃が入ったが、元和元(一六一五)年に一國一城令が出され、天守閣などの主要な建造物は破却された。

【鞆城跡】