失われた河川を辿って(福山城下西側の水路の痕跡)

備陽史探訪:177号」より

種本 実

連載「川筋を訪ねて」【その七】

水野家時代福山城下明細図

能満寺西の川筋

福山の城下町の絵図を見ると四方に何本も川が描かれている。現在地に対比して追ってみると興味深い。

西町の、能満寺の西に流れる川筋には池がある。昨年の福山城西の”ぶら探訪”では講師の田中伸治氏の説明で、西公民館の西の小道が川の跡で、池は公民館の北側の駐車場と畑の一角であるとのことだった。改めて現地を検証してみると、公民館の南に架かる橋の下には、新川こと下井出川に繋がる”川の口”が見えた。「水野家時代福山城下明細図」では池の傍で下井出川で合流しているが、“川の口”はその跡と断定できる。

水野家時代福山城下明細図
水野家時代福山城下明細図

小川は北に、JRの路線に向かっている。付近の方に尋ねてみると昭和三十年代までは確かに川が流れていたそうである。

西公民館の西側の川の跡 右奥は池の跡
西公民館の西側の川の跡 右奥は池の跡

川に沿っている池について、水道局発行の「福山水道史第二巻」の「旧水道分布図」では「外能満池」と記されているので、この名の根拠を水道局に問い合わせているが、昭和四十六年に発行された本なので即答はいただけなかった。

旧水道分布図から
旧水道分布図から

福山駅の北側に本庄駐車場がある。中に入って福塩線の線路の下を凝視すると、線路の下をくぐって続く、かつての川の跡が見えた。東西南北の位置から推測して、西公民館の西から続く川筋と断定できるこの川は、駐車場の北側の市道を北上して、長者町と西町との境を流れて、西に折れて長者町の民家の中を西に続いている。これは水野家時代の絵図とほぼ重なっている。庭先の菜園を耕している年配の方に伺うと、かつて一帯は一面農地だったから、今は全く水がないこの水路は貴重な農業用水だったそうだ。水源は、蓮池川から足踏みの水車で引き入れていたという。能満寺の西の川筋については、ほぼ跡をたどることができた。

本庄駐車場の川の跡
本庄駐車場の川の跡
現在は水が流れていない川筋
現在は水が流れていない川筋

能満寺はもとは福山城の丘にあって、築城の際に現在に移転した。往古は広大な寺領があったようで、本庄町の北部には「能満」名の町内会があることからもうかがえる。

かつての能満寺の寺領が窺える町名
かつての能満寺の寺領が窺える町名

「七ノ瀬川」

蓮池川に架かる丸川橋の傍から取水している川がある。この川は南下して、福塩線の能満踏切手前まで途中で暗渠となって続き、東に折れて本庄町の「組の内公園」の西を流れ、JRの線路をくぐって、国道二号線の北の、橋の下で下井出川に注いでいる。住宅の間を抜けているので生活排水路とも思えるが、途中にわずか一枚の田圃があり、そのための農業用水である。かつてはこの付近も田畑が広かったが、現在では農業用水は少なくて済むので丸川橋傍の取水口の位置を変えて、多量の水を取水しないようにしている。

取水口
取水口
組の内公園西側を流れる川
組の内公園西側を流れる川

「福山城下には、かつては六本の大きな河川が芦田川から分流していて、この川はそのさらに支流なので『七ノ瀬川』だそうです。今は我が家のためにだけ水を流しているが、まだ農業は続けたい」と、田圃の主は突然の来訪者にも笑顔で答えて下さった。

芦田川の東の本庄町一帯には「池之淵町内会」がある。能満池に由来する名前かと思ったが、年配の方の話では、戦災復興の区画整理をするまでは一帯に沢山の池があった名残だろうという。

池之淵町内会の看板
池之淵町内会の看板

泉龍寺の傍を流れた川

昭和十一年に福山地図発行所が印刷した市街地の地図(平成十七年福山エビス印刷株式会社による復刻版)には、泉龍寺に沿って北に流れる川が記されているが、現在では見ることはできない。しかし、寺の前の道路が道三川に交差している地点で視線を橋の下に落としてみると、かつての”川の口”が見える。近所の方の話では「私が嫁に来た昭和四十年頃には、道路に沿って小さな川が流れていた」という。川の源はよくわからないが、音のことで生活排水などが流れる川であったらしい。「川をつぶして下水道を施設したようだ」とも聞いた。

昭和11年の地図
昭和11年の地図

右に泉龍寺の前の道路下暗渠から道三川に繋がる口が見える
右に泉龍寺の前の道路下暗渠から道三川に繋がる口が見える

道三川は下井出川に繋がっているが、地図にはそのように示されていない。昭和八年生まれの方の記憶でも、昔から下井出川からの水路があったそうだ。しかし、下井出川からの取水地点には樋門があるが錆びついていて、水量が増えたときに僅かに道三川に分流するようだ。それで、地吹橋の下流ではモータで地下水をくみ上げて川の水量を増やしている。地下四十mからくみ上げているので夏は冷たく、冬は暖かい水なので子供たちに人気があるそうだ。

円の中に地下水をくみ上げている
円の中に地下水をくみ上げている

泉龍寺

泉龍寺は藩祖・水野勝成の片腕として総奉行を務めた中山将監の墓所がある。塀越しに五輪塔群が日に留まるが、境内の一角に一族の墓が建っている。もとは刈谷にあって、今川義元以下の供養を務めた高僧が開祖の古刹である。

右が中山将監の墓
右が中山将監の墓

絵図に寺の隣に「古八幡跡」と記されているのは、野上八幡社と推察する。当社は、福山八幡宮の前身の一社であり、かつては野上村の鎮守社であった。地吹町の荒神社が野上八幡社の跡との説もあるが、絵図には該当する場所に記載されていない。また絵図には「古八幡跡」の南東に「地ふき普請道具小屋」が記されている。現在の町名「地吹町」の由来となった、「地葺板」(瓦を載せる板)を製作する職人が住んでいたことを示している。

古八幡跡、地ふき普請道具小屋
古八幡跡、地ふき普請道具小屋

泉龍寺の前の道路はかつては鞆町へ通じる道路であって、バスが走っていたそうだ。鞆へ続く道は、霞町の一角に尾道方面に向かう西国街道と交わる地点があり、道標の石碑が立っている。この石碑は以前に中央公園の近くに移されていたが、平成二十二年に元の場所である現在の地に戻されている。

街道が交わつていた証の石碑
街道が交わつていた証の石碑

道三川の推移

道三川にはたくさんの橋が架かっている。「地吹橋」や「道三橋」「霞橋」は町名や川の名前を冠しているが「愛橋」の由来は地元で尋ねても分らなかった。光南町の「弥生橋」は町内の人たちに募って命名されたそうだ。

川筋は戦災の復興の都市計画で以前とはかなり変わった。現在は、前述の弥生橋の前で九十度南に曲がっているが、以前はもっと緩やかに南東に流れていた。川に沿って、現在のローズコムの前身は市民会館と中央公園があったが、さらに遡ると誠之館のプールがあった頃には、傍の堤からは芦田川の花火がよく見えたとか。

今農業用水の役目を終えた道三川には清流が流れて、橋の欄干には意匠を凝らし、川沿いには市のシンボルのバラや、ハナショウブなどが咲き市民の憩いの場となっている。平成六年に都市景観大賞を受賞したのは、日常の清掃活動など、地域の人たちの地道な取り組みも大きく評価されているようだ。

下井出川

「福山志料」の野上村には、下井出川について「本庄村ヨリ出テ川口村汐廻へ流レ海ニ入ル」とある。下井出川が本庄村から引かれていたのは江戸時代からと記述されている。

また、福山市川口町土地改良区が発行の「川口築成三百年史」では、「川口新涯が開発されると野上、多治米、川口の三村は共同で山手橋の下に下井出樋門をつくって取水することになった」「昭和八年川口村他九ケ村が福山市の合併を契機として、下井出樋門からの取水を廃して、上井出樋門に統合され・・」と記述している。

「福山志料」の「本庄村ヨリ」も当時架橋はなかったと思われるが、山手橋の下あたりの樋門をさしているのだろうか。

そこで山手橋の近辺でかつての下井出川の樋門を尋ねて歩いたのだが、なかなか知っている人に出会えなかった。それでも尋ね尋ねて、やっとかつての樋門を覚えている方に巡り合うことができた。

最近、山手橋は新しく架け替えられたが、近くの荒神社も以前は堤防の下にあって、そのそばに樋門があったそうだ。また、運送会社を創立した渋谷氏が、当時この付近で馬を放牧していたなどと、昔話を伺った。本庄町の人たちは下井出川を「新川」と呼んでいるのは、下井出川を昭和八年以降に現在の丸川分水工まで伸ばしたことから、”新しい川”という意味で呼称したのではないだろうか。

新川とは下井出川の別称
新川とは下井出川の別称

蓮池川は芦田川の旧川筋か

城下の絵図の北部には、西から東に向かって太い川が描かれている。現在の蓮池川であるが、元の芦田川の流れなのか、それとも人工の川なのだろうか。誌面が尽きたが「福山志料」では、「芦田川ココニテ岐レ一支ハ北ノ郭外ヲ経テ引野へ流出ツ福山開城ノ後今ノカタチニナレリ・・」とあるので旧川筋ではないだろうか。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/3a30cf6519e1b247261b221091389d8b.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/3a30cf6519e1b247261b221091389d8b-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:177号」より 種本 実 連載「川筋を訪ねて」【その七】 能満寺西の川筋 福山の城下町の絵図を見ると四方に何本も川が描かれている。現在地に対比して追ってみると興味深い。 西町の、能満寺の西に流れる川筋には池がある。昨年の福山城西の”ぶら探訪”では講師の田中伸治氏の説明で、西公民館の西の小道が川の跡で、池は公民館の北側の駐車場と畑の一角であるとのことだった。改めて現地を検証してみると、公民館の南に架かる橋の下には、新川こと下井出川に繋がる”川の口”が見えた。「水野家時代福山城下明細図」では池の傍で下井出川で合流しているが、“川の口”はその跡と断定できる。 小川は北に、JRの路線に向かっている。付近の方に尋ねてみると昭和三十年代までは確かに川が流れていたそうである。 川に沿っている池について、水道局発行の「福山水道史第二巻」の「旧水道分布図」では「外能満池」と記されているので、この名の根拠を水道局に問い合わせているが、昭和四十六年に発行された本なので即答はいただけなかった。 福山駅の北側に本庄駐車場がある。中に入って福塩線の線路の下を凝視すると、線路の下をくぐって続く、かつての川の跡が見えた。東西南北の位置から推測して、西公民館の西から続く川筋と断定できるこの川は、駐車場の北側の市道を北上して、長者町と西町との境を流れて、西に折れて長者町の民家の中を西に続いている。これは水野家時代の絵図とほぼ重なっている。庭先の菜園を耕している年配の方に伺うと、かつて一帯は一面農地だったから、今は全く水がないこの水路は貴重な農業用水だったそうだ。水源は、蓮池川から足踏みの水車で引き入れていたという。能満寺の西の川筋については、ほぼ跡をたどることができた。 能満寺はもとは福山城の丘にあって、築城の際に現在に移転した。往古は広大な寺領があったようで、本庄町の北部には「能満」名の町内会があることからもうかがえる。 「七ノ瀬川」 蓮池川に架かる丸川橋の傍から取水している川がある。この川は南下して、福塩線の能満踏切手前まで途中で暗渠となって続き、東に折れて本庄町の「組の内公園」の西を流れ、JRの線路をくぐって、国道二号線の北の、橋の下で下井出川に注いでいる。住宅の間を抜けているので生活排水路とも思えるが、途中にわずか一枚の田圃があり、そのための農業用水である。かつてはこの付近も田畑が広かったが、現在では農業用水は少なくて済むので丸川橋傍の取水口の位置を変えて、多量の水を取水しないようにしている。 「福山城下には、かつては六本の大きな河川が芦田川から分流していて、この川はそのさらに支流なので『七ノ瀬川』だそうです。今は我が家のためにだけ水を流しているが、まだ農業は続けたい」と、田圃の主は突然の来訪者にも笑顔で答えて下さった。 芦田川の東の本庄町一帯には「池之淵町内会」がある。能満池に由来する名前かと思ったが、年配の方の話では、戦災復興の区画整理をするまでは一帯に沢山の池があった名残だろうという。 泉龍寺の傍を流れた川 昭和十一年に福山地図発行所が印刷した市街地の地図(平成十七年福山エビス印刷株式会社による復刻版)には、泉龍寺に沿って北に流れる川が記されているが、現在では見ることはできない。しかし、寺の前の道路が道三川に交差している地点で視線を橋の下に落としてみると、かつての”川の口”が見える。近所の方の話では「私が嫁に来た昭和四十年頃には、道路に沿って小さな川が流れていた」という。川の源はよくわからないが、音のことで生活排水などが流れる川であったらしい。「川をつぶして下水道を施設したようだ」とも聞いた。 道三川は下井出川に繋がっているが、地図にはそのように示されていない。昭和八年生まれの方の記憶でも、昔から下井出川からの水路があったそうだ。しかし、下井出川からの取水地点には樋門があるが錆びついていて、水量が増えたときに僅かに道三川に分流するようだ。それで、地吹橋の下流ではモータで地下水をくみ上げて川の水量を増やしている。地下四十mからくみ上げているので夏は冷たく、冬は暖かい水なので子供たちに人気があるそうだ。 泉龍寺 泉龍寺は藩祖・水野勝成の片腕として総奉行を務めた中山将監の墓所がある。塀越しに五輪塔群が日に留まるが、境内の一角に一族の墓が建っている。もとは刈谷にあって、今川義元以下の供養を務めた高僧が開祖の古刹である。 絵図に寺の隣に「古八幡跡」と記されているのは、野上八幡社と推察する。当社は、福山八幡宮の前身の一社であり、かつては野上村の鎮守社であった。地吹町の荒神社が野上八幡社の跡との説もあるが、絵図には該当する場所に記載されていない。また絵図には「古八幡跡」の南東に「地ふき普請道具小屋」が記されている。現在の町名「地吹町」の由来となった、「地葺板」(瓦を載せる板)を製作する職人が住んでいたことを示している。 泉龍寺の前の道路はかつては鞆町へ通じる道路であって、バスが走っていたそうだ。鞆へ続く道は、霞町の一角に尾道方面に向かう西国街道と交わる地点があり、道標の石碑が立っている。この石碑は以前に中央公園の近くに移されていたが、平成二十二年に元の場所である現在の地に戻されている。 道三川の推移 道三川にはたくさんの橋が架かっている。「地吹橋」や「道三橋」「霞橋」は町名や川の名前を冠しているが「愛橋」の由来は地元で尋ねても分らなかった。光南町の「弥生橋」は町内の人たちに募って命名されたそうだ。 川筋は戦災の復興の都市計画で以前とはかなり変わった。現在は、前述の弥生橋の前で九十度南に曲がっているが、以前はもっと緩やかに南東に流れていた。川に沿って、現在のローズコムの前身は市民会館と中央公園があったが、さらに遡ると誠之館のプールがあった頃には、傍の堤からは芦田川の花火がよく見えたとか。 今農業用水の役目を終えた道三川には清流が流れて、橋の欄干には意匠を凝らし、川沿いには市のシンボルのバラや、ハナショウブなどが咲き市民の憩いの場となっている。平成六年に都市景観大賞を受賞したのは、日常の清掃活動など、地域の人たちの地道な取り組みも大きく評価されているようだ。 下井出川 「福山志料」の野上村には、下井出川について「本庄村ヨリ出テ川口村汐廻へ流レ海ニ入ル」とある。下井出川が本庄村から引かれていたのは江戸時代からと記述されている。 また、福山市川口町土地改良区が発行の「川口築成三百年史」では、「川口新涯が開発されると野上、多治米、川口の三村は共同で山手橋の下に下井出樋門をつくって取水することになった」「昭和八年川口村他九ケ村が福山市の合併を契機として、下井出樋門からの取水を廃して、上井出樋門に統合され・・」と記述している。 「福山志料」の「本庄村ヨリ」も当時架橋はなかったと思われるが、山手橋の下あたりの樋門をさしているのだろうか。 そこで山手橋の近辺でかつての下井出川の樋門を尋ねて歩いたのだが、なかなか知っている人に出会えなかった。それでも尋ね尋ねて、やっとかつての樋門を覚えている方に巡り合うことができた。 最近、山手橋は新しく架け替えられたが、近くの荒神社も以前は堤防の下にあって、そのそばに樋門があったそうだ。また、運送会社を創立した渋谷氏が、当時この付近で馬を放牧していたなどと、昔話を伺った。本庄町の人たちは下井出川を「新川」と呼んでいるのは、下井出川を昭和八年以降に現在の丸川分水工まで伸ばしたことから、”新しい川”という意味で呼称したのではないだろうか。 蓮池川は芦田川の旧川筋か 城下の絵図の北部には、西から東に向かって太い川が描かれている。現在の蓮池川であるが、元の芦田川の流れなのか、それとも人工の川なのだろうか。誌面が尽きたが「福山志料」では、「芦田川ココニテ岐レ一支ハ北ノ郭外ヲ経テ引野へ流出ツ福山開城ノ後今ノカタチニナレリ・・」とあるので旧川筋ではないだろうか。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ