2014年02月01日

福山藩水野氏の石高の変遷―備陽六郡志より―

備陽史探訪:176号」より

髙木 康彦

備陽六郡志には福山藩水野氏の村高が四期(❶~❹)に亘って記述されている。各期の村高から水野時代、大規模な干拓・治水事業で石高の増大を如何に果たしたかを解析し、その中で元和六年の検地(❷)は事実ではないことをご紹介します。

第一部「勝成、備後入封時の石高」

❶「水野勝種公御代、寛文四年、公儀へ差上げ候、知行高帳面の写」

四代勝種が寛文三年に藩主に襲封したことにより翌寛文四年(一六六四)四月廿五日に幕府(四代将軍家綱)に差出した村高帳の写しである。

その内容は元和五年(一六一九)、勝成が備後入封時、幕府(二代将軍秀忠)から受取った知行高引渡帳(惣高十万九石九斗九升)と寛永三年(一六二六)、勝成が三代将軍家光から加増された相模国厚木村一千石を併記して惣高十万一千十二石余としている。

但し、元和五年の惣高約十万十石と相模国の一千石を合わせると約十万一千十石となる筈だが、併記した惣高は二石多い十万千十二石余となっている。これは寛永十一年(一六三四)に勝成が家光から諸侯と共に拝領した知行宛行状(図ⅰ)の中に相模国千石を加えた都合十万一千十二石六斗余をそのまま、写したためで、惣石高に相違があることは「村高帳❶」の奥書にも記載されている。

(図ⅰ)「家光御判物」 茨城県立歴史館蔵

(図ⅰ)「家光御判物」 茨城県立歴史館蔵

寛永十一年八月四日 水野日向守宛
備後・備中・相模国 都合拾万千拾弐石六斗余

勝成が元和五年に幕府から受領した引渡帳は福島時代に検地したものだが、前述の通り、惣石高は十万九石九斗九升である。しかし、実際の石高は九万六千八百二石一斗七升一合だった。(ア・表1)

そのため、不足分の三千二百七石八斗一升九合は小物成(貢租の内、検地された田畑・屋敷地など以外で得られる収穫物に課せられる雑税の総称。山林・原野・川海池に賦課された。)で補填された。その内訳は畳表千四百八十八石と真綿・漆・塩・鉄・魚貝類など千七百十九石余から成っている。(イ・表1)

真綿



魚貝類
畳表
不足分(小物成充当分)

(水野五代記)

 同年
同左
(実高)
元和五年
福山藩へ
引渡高
(表高)
(表1)元和五年引渡帳(表高と実高)
(水野様御一代記・水野五代記)
1,719石
1,488石
 
3,207石
819合
96,802石
171合
100,009石
990合

 

第二部「元和六年検地は事実に非ず」

❷「元和六年 宗休公、御自身の御棹にて御極め成され候、検地高」

勝成が入封した翌年の元和六年に勝成は自ら棹を取って検地し、十一万九千六百三十二石四斗五升九合に石盛りしたというのである。しかし、これはあり得ないことで、その理由は土肥日露之進著「元和六年水野勝成検地説は事実無根なり」を参考に御紹介する。
元和六年は福山城の築城開始の年であり、その年の閏十二月に将軍秀忠に基礎工事(石垣普請)の完成を報告している(図ⅱ)

(図ⅱ)「徳川秀忠黒印状」 茨城県立歴史館蔵

(図ⅱ)「徳川秀忠黒印状」 茨城県立歴史館蔵

就其地城普請出来令満足
使者並銀子百枚小袖十到来喜覚候
猶土井大炊助可申候也
閏十二月八日(黒印)
水野日向守とのへ

開始年内に石垣普請を完成させるには総力を挙げなければならず、立藩したばかりの福山藩が、検地と併せて二つの大事業を同時進行することは不可能である。

このことは数字面でも窺うことが出来る。「元和五年(❶)の表高十万九石余・実高九万六千八百二石余」から「元和六年(❷)の内高(非公式の地詰による実高)十一万九千六百三十二石余」が実高同士では二万二千八百三十石余に増加している。(表2)

増加高
元和六年
宗休公検地高
(実高)
元和五年
福山藩引渡高
(実高)
(表2)元和五年~同六年
(一年間)
差引・増加高(実高)
(水野五代記)
22,830石
288合
119,632石
459合
96,802石
171合

 
これは以後、水野氏八十年の間に干拓事業などで増大する石高を比較してもあまりにも比重が大きく、不自然である。詳細は次の項に述べる。

第三部「水野時代の石高の増加高」

❸「元禄十一年、各村よりの差出帳による村高」

六郡志には標題は記載されておらず、前文によって意図を知ることが出来る。

前文には勝成以後、新涯地が出来たが、(収穫は直ぐには出来ないので)石高が極められず、勝岑公が逝去した元禄十一年には判明していたのでこれを加えて村高帳を作成したと記されている。

この村高帳は元禄十一年に検地をしたものではなく、それまでに地詰された各村の差出帳に基づくものだが、水野時代の六尺五寸の間竿で検地していると思われる。その惣高(内高・実高)は十三万二千八百二石六斗一升である。これは勝成が備後入封時、幕府から受領した引渡帳(❶)の実高九万六千八百二石一斗七升一合と比較すると三万六千石四斗三升九合の増加である。(表3)

水野氏
八十年の
石高増
(実高)
元禄十一年
差出帳より
(実高)
元和五年
福山藩へ
引渡高
(実高)
(表3)元和五年~元禄十一年
水野時代八十年 実高の増加高
(水野五代記)
36,000石
439合
132,802石
610合
96,802石
171合

 
増加高の計算は元和五年の幕府の引渡高が福島氏地詰による差出帳に基づいていると思われるため、間竿が太閤検地による六尺三寸か、若しくは水野氏の六尺五寸が福島氏から引継いだ可能性もあるため、同じ六尺五寸棹で地詰した元禄十一年の帳面で比較した方が、翌元禄十二年に幕府による六尺五寸の元禄検地との比較よりも実態に近いと思われる。

このとき、元和五年の石高は実高の九万六千八百二石一斗七升一合を基準にすることは勿論である。

第四部「元和六年検地の実際の実行時期」

水野氏八十年の間に三万六千石余の石高増の内、福山藩が立藩して一年で二万二千八百三十石余と云う途方もない増加高となることで元和六年には検地はなかったことは明らかである。(表2・表3)

それでは元和六年の検地はいつ実施されのだろうか。

水野時代、新開地の開発で小規模な検地は各村でしばしば実施されたが、大規模な一斉検地は三回実施された。初回は正保二年から四年に掛けて、二回目は寛文十年から十三年、三回目は改易翌年元禄十二年の幕府による検地である。

この中で、土肥日露之進著「元和六年水野勝成検地説は事実無根なり」で同氏は元和六年の検地は各郡村の断片的な検地の記録(差出帳)と照合すると第二回目の寛文十年から十三年に掛けての一斉検地とほぼ、一致した。したがって、備陽六郡志記載の元和六年の検地(❷)は寛文十三年の検地であると結論付けている。

第五部「水野氏改易に伴う元禄検地」

❹「元禄十二年水野氏改易後、備前藩によって検地された村高 福山領・幕府領」
水野家の改易後、幕府の命により備前岡山藩が福山藩領全域に亘って一斉検地した村高帳である。

福山藩は元禄十一年の内高(実高)は六尺五寸の間竿によって十三万二千石余だったが、翌元禄十二年の幕府による検地は六尺五寸の間竿のため、表高は十万石から十五万石となった。

そのため、旧水野氏領は表高十万石が松平氏、五万石が公領(天領)となり、備陽六郡志には元禄十三年付の知行高の帳面写には福山領十万石と公領五万石余に分けて記載されている。(表4)

元禄十二年
備前岡山藩検地
(表高)
元和五年
福山藩へ
引渡高
(表高)
(表4)福山藩水野氏時代(八十年)

石高増加高

(備陽六郡志)
公領
(幕府領)
50,061石
730合
福山領
(松平氏)
100,000石
 
惣高
 
150,061石
730合
 
 

100,009石
990合

 
このことで松平氏・阿部氏は水野氏時代に増して公儀への過重な奉公、領民は過酷な重税に苦しむことになる。

『引用史料』
(ア)水野様御一代記(平井家本)・水野五代記(福山藩編年史料)
(イ)水野五代記(福山藩編年史料)