「備陽史探訪:176号」より
種本 実
福山市の東南部の灌漑用水である久松用水と葦陽用水は、駅家町下山守七社頭首工(①)から取水している。その流れの概略は左記の地図で示した通りである。
七社頭首工は昭和三十七年に竣工した。「頭首工」とは取水口のことで市内には他に御幸町一帯を潤す「井溝頭首工」がある。七社では、灌漑用水を多量に必要とする春先からの時期、また高水圧が必要なクワイの収穫時期、最も需要が少ない冬季と、取水の量は大きくは三段階に分けられ、国土交通省に申請して許可された量だけが取水される。
七社からは昭和三十五年に竣工した石原隧道で山中を抜けて郷分町に流れ、久松サイフォンの少し上流の徐塵施設の下流で新涯町、箕島地区に流れる葦陽用水が分流している。
郷分町の久松サイフォンをくぐった久松用水は、対岸の本庄町高崎に出る。
高崎からは二股の踏切の北側の樋門をくぐって、丸川分水場に流れる。丸川の分水場で下井出川が分流し、更に少し下流で蓮池川と上井出川に分かれる。下井出川は山手橋の下を流れて南下して野上、多治米、川口町を潤す。蓮池川は吉津町や胡町などでは吉津川と呼ばれている。
年配の方は、子供の頃には丸川の分水場をプール代わりにして泳いでいたそうである。ここには七機の水門があり、下井出川、蓮池川、上井出川に流している。
蓮池川は「どんどん池」に流れて、池の水門によって、下流の吉津川に放流されている。池の「うてび(次ページのどんどん池の画面の左端)」から越した水が流れて、御手洗川(みたらしがわ)となって福山八幡宮の前を流れている。また、木之庄町で上井出川から分流した水路が城北中学校の前を流れて、「どんどん池」の東で「うてび」から流れる水路と立体交差して、吉津川に合流している。
「福山志料」には御手洗川は「大佛川」と記述されている。(後述)北吉津町の胎蔵寺の前に架かっている橋の親柱には「大佛橋」とあるが、昨今では「大佛川」の名は使われていない。
「御手洗川」の名称は、戦後に八幡社の前宮司さんが町内会長の頃に付けられたという。(注①)しかし、川沿いの寺社で尋ねてみたが裏付ける言は聞かれなかった。
どんどん池の下流の吉津川は、現在では川幅も狭く水量も少ないが、築城の時期には石材などを運んだ舟が上ったというから、当時は広く水量も豊富であったと思われる。
葦陽用水は郷分町から山手町へ流れて、さらに暗渠によって神島、佐波町を抜けて、草戸稲荷神社の近くのサイフォンによって芦田川の底をくぐって南本庄町の対岸に抜ける。
葦陽用水はここから芦田川の堤防に沿って南下して新涯町へ流れる。
「福山志料」の深津村の項には、
下井出 吉津村大佛川ノ下流ナリ本庄ノ堰ヨリワカル溝ユヘコノ名アリ
と記述されてある。御手洗川はかつては深津町の灌漑用水であり、田植え時期の前には、農家の人たちが川掃除に来ていたそうである。昭和四十五年に上井出と蓮池両幹線水路は一部統合された。(注②)その時に現在のように流れが変わったと推察される。
■川筋の史跡「大渡し」の跡
福山志料には
郷分村界九州街道大渡リトイ云舟渡シアリ亦三光寺ノ渡卜云
更に
假橋 大渡ニアリ秋九月ヨリ翌四月マテ架ス
とある。それ以外の季節には「歩行(かち)渡り」をしていて、大水の際には渡し舟が出ていた。明治時代には土橋ができ、昭和十一年に鉄筋の大渡橋が、更に平成九年に現在の橋が架橋された(注③)
川崎城址
案内してもらった方に、別称は「高崎城」では、と尋ねると「高崎城」は③のあたりで、ここは「川崎城」であるとのことだった。
◎限られた字数では詳細な記述ができないので、後日改めて稿を起こしたいと思いながら擱筆する。
【引用資料】
注①『いとしき故郷』(鎌田一・著 平成四年七月十五日発行)
注②『川口築成三百年史』(発行福山市川口町土地改良区・昭和四十六年十二月三十一日)
注③「山手・郷分歴史マップ解説」(発行 泉学区・山手学区ふれあい事業推進委員会 平成十年六月)
https://bingo-history.net/archives/15063https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/2f7fe89982ba5e03e84962e6f3e57f71.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/2f7fe89982ba5e03e84962e6f3e57f71-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:176号」より
種本 実
連載「川筋を訪ねて」【その六】 福山市の東南部の灌漑用水である久松用水と葦陽用水は、駅家町下山守七社頭首工(①)から取水している。その流れの概略は左記の地図で示した通りである。 七社頭首工は昭和三十七年に竣工した。「頭首工」とは取水口のことで市内には他に御幸町一帯を潤す「井溝頭首工」がある。七社では、灌漑用水を多量に必要とする春先からの時期、また高水圧が必要なクワイの収穫時期、最も需要が少ない冬季と、取水の量は大きくは三段階に分けられ、国土交通省に申請して許可された量だけが取水される。 七社からは昭和三十五年に竣工した石原隧道で山中を抜けて郷分町に流れ、久松サイフォンの少し上流の徐塵施設の下流で新涯町、箕島地区に流れる葦陽用水が分流している。 郷分町の久松サイフォンをくぐった久松用水は、対岸の本庄町高崎に出る。 高崎からは二股の踏切の北側の樋門をくぐって、丸川分水場に流れる。丸川の分水場で下井出川が分流し、更に少し下流で蓮池川と上井出川に分かれる。下井出川は山手橋の下を流れて南下して野上、多治米、川口町を潤す。蓮池川は吉津町や胡町などでは吉津川と呼ばれている。 年配の方は、子供の頃には丸川の分水場をプール代わりにして泳いでいたそうである。ここには七機の水門があり、下井出川、蓮池川、上井出川に流している。 蓮池川は「どんどん池」に流れて、池の水門によって、下流の吉津川に放流されている。池の「うてび(次ページのどんどん池の画面の左端)」から越した水が流れて、御手洗川(みたらしがわ)となって福山八幡宮の前を流れている。また、木之庄町で上井出川から分流した水路が城北中学校の前を流れて、「どんどん池」の東で「うてび」から流れる水路と立体交差して、吉津川に合流している。 「福山志料」には御手洗川は「大佛川」と記述されている。(後述)北吉津町の胎蔵寺の前に架かっている橋の親柱には「大佛橋」とあるが、昨今では「大佛川」の名は使われていない。 「御手洗川」の名称は、戦後に八幡社の前宮司さんが町内会長の頃に付けられたという。(注①)しかし、川沿いの寺社で尋ねてみたが裏付ける言は聞かれなかった。 どんどん池の下流の吉津川は、現在では川幅も狭く水量も少ないが、築城の時期には石材などを運んだ舟が上ったというから、当時は広く水量も豊富であったと思われる。 葦陽用水は郷分町から山手町へ流れて、さらに暗渠によって神島、佐波町を抜けて、草戸稲荷神社の近くのサイフォンによって芦田川の底をくぐって南本庄町の対岸に抜ける。 葦陽用水はここから芦田川の堤防に沿って南下して新涯町へ流れる。 「福山志料」の深津村の項には、 下井出 吉津村大佛川ノ下流ナリ本庄ノ堰ヨリワカル溝ユヘコノ名アリ と記述されてある。御手洗川はかつては深津町の灌漑用水であり、田植え時期の前には、農家の人たちが川掃除に来ていたそうである。昭和四十五年に上井出と蓮池両幹線水路は一部統合された。(注②)その時に現在のように流れが変わったと推察される。 ■川筋の史跡
「大渡し」の跡 福山志料には 郷分村界九州街道大渡リトイ云舟渡シアリ亦三光寺ノ渡卜云 更に 假橋 大渡ニアリ秋九月ヨリ翌四月マテ架ス とある。それ以外の季節には「歩行(かち)渡り」をしていて、大水の際には渡し舟が出ていた。明治時代には土橋ができ、昭和十一年に鉄筋の大渡橋が、更に平成九年に現在の橋が架橋された(注③) 川崎城址 案内してもらった方に、別称は「高崎城」では、と尋ねると「高崎城」は③のあたりで、ここは「川崎城」であるとのことだった。 ◎限られた字数では詳細な記述ができないので、後日改めて稿を起こしたいと思いながら擱筆する。 【引用資料】
注①『いとしき故郷』(鎌田一・著 平成四年七月十五日発行)
注②『川口築成三百年史』(発行福山市川口町土地改良区・昭和四十六年十二月三十一日)
注③「山手・郷分歴史マップ解説」(発行 泉学区・山手学区ふれあい事業推進委員会 平成十年六月)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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