2014年04月01日

伝承と史実の間―郷分町の青ヶ城を例に―

備陽史探訪:176号」より

田口 義之

北方より見た青ヶ城山

北方より見た青ヶ城山

伝承をもとに現地を訪ねた時、残された遺跡と言い伝えとの間に、ある種の違和感を覚えることがある。

例を郷分町の青ヶ城跡にとつてみよう。この城跡は、福山市街地の西北、芦田川の右岸に答える標高二三五メートルの山頂に残る中世の山城遺跡で、丁度城跡の下を山陽自動車道「郷分トンネル」が通っている。私がはじめてこの城跡を訪ねたのは高校二年生の秋であった。たそがれ時に友人と山上に登り、山頂の曲輪を巻尺で測った。この時はちょっとしたアクシデントがあり、調査を中断して下山した。最初の感想は「はっきりした山城だが、規模はそれほどでない」であった。

この城跡が予想以上の規模であることが判明したのは、その後松永の郷土史家藤井高一郎氏と再訪した時であった。稜線を縦走すると、先ず東側の尾根上に二重の立派な堀切を見つけた。更に登ると階段状に曲輪が築かれ山頂本丸に達した。これだけでも相当な規模の山城である。続いて城の「尾首」を確認する為に西側の尾根続きを探索した。すると、新たな高まりがあり、数段の曲輪の跡が残っていた。そして、なんとその西に東側と同様、二重の立派な堀切があるではないか…。

青ヶ城実測図

青ヶ城実測図

その後、平成六年一月、備陽史探訪の会で測量調査を実施し、その結果は翌年発刊した「山城探訪」で報告した。作成した実測図を見ると、東西の堀切の間は約四百メートル、その間に二十三の曲輪跡が確認出来る。正に福山市内屈指の山城遺跡と言って良い。

ところが、城主に関する伝承がはなはだ頼りないのである。『備後古城記』等の近世の地誌類には、神辺町下竹田の大内山城に居た皆内氏が築いて居城にした、とはあるが、当時の一級史料には全く登場しない。巨大な山城遺跡と曖味な伝承、これが大きな違和感となって私を困らせたのである。

一つの考え方として、皆内氏が短期間で亡んでしまったので、明確な史料を残さなかった、ということもあるのかもしれない。だが、皆内氏が居城したという天文永禄年間(十六世紀半ば)、付近は神辺城をめぐる戦いの戦場になっており、皆内氏が城主として付近を支配したとは到底考えられない。

そこで浮上するのが、皆内氏は「城主」ではなく「城代」であったのではないか、とする考えである。戦国時代の山城は大名国人の居城と、その支城に大きく二分される。山城は合戦や支配の道具であり、必要に応じて「取り立てられ」廃された。城を守備したのは大名国人の家臣の方が多かったのである。

ところが、江戸時代になって地誌が編纂される際、「城主」も「城代」も同じように山城の城主として収録された。これが今回の違和感の原因である。

そういう目で見ると、皆内氏が居城したと伝える山城跡、下竹田の大内山城、中津原の茶臼山城、郷分の青ヶ城は何れも当時の神辺城主山名理興、杉原盛重の勢力圏内にあるではないか…。

大内山城も現地を訪ねてみると、東方を正面として築かれ、神辺城東方の砦の役割を果たしていたと見られる。青ヶ城も眼下に西国街道の渡河点「大渡り」を俯瞰し、ここに城を築けば東西の交通は遮断できる。城の構造、目的から推定して、皆内氏は神辺城主の重臣で、城代としてこれらの山城に配され、、守備に当たったと見て先ず間違いない。

「城主」と「城代(或いは城番)」の違いを見極めること。これが中世山城の研究には重要であることを、青ヶ城の例は示している。

【青ヶ城跡】