福山北部の史跡 其の二 ―駅家周辺―

ふるさと探訪」より

安原 誉佳

駅家

万能倉

福山駅から福塩線で、電車に揺られて二十分ほどで万能倉駅に到着する。「万能倉(まなぐら)」…難読の駅の一つであろう。駅を出るとすぐに東西に走る県道(下御領新市線)がある。古代山陽道である。古代山陽道については前項を見ていただきたい。この道を西に三キロメートルほど進むと、品治(ほんぢ)駅があり、多くの倉があったことから万能倉の名がついたと考えられている。しかし福塩線より南側の大部分は江戸時代に開発されたところで、新涯の名が残っている。

法成寺の大古墳

万能倉駅からだと道がややこしいのと、遠いので、一つ先の駅家駅から歩くことをおすすめする。上から読んでも下から読んでも、「えきやえき」、つまらないことを言わずに先に進もう。駅家の地名は、大正二年に万能倉村、倉光村、中島村などが合併したときにつけられたもので、古来からではない。駅を出て県道を東に少し戻り、陸橋のところで北上する。右に分かれる道を行くと家が立て込んでいるところがある。まず藤井育二氏宅裏にある二塚古墳を見てみよう。以前は二基の古墳が並んでいたため、二塚の名がついたのだが、現在は一基しか見ることはできない。早くから破壊されていて墳丘の規模はわからない。横穴式石室の奥部が長さ四メートルほどが残っているが、驚くことに幅二・四メートル、高さ三・一メートルもあるのだ。使われている石材は大きく、また表面には削った痕もみられる。武器や馬具、耳環などが出上しているが、石室がすべて残っていたらどれほどの規模であっただろうか。古墳の造られた時期は六世紀末頃とみられる。

山の神古墳石室内部
山の神古墳石室内部

そこから西に進み、法成寺のバス停を北に入ると、保育所の手前の左にこんもりとした丘が見える。山の神古墳で、以前は前方後円墳ではないかと言われていたが、円墳の可能性が高く、直径十二メートル、高さ四メートルを測る。墳丘の規模こそ大したことはないが、この古墳のすごいところは石室である。横穴式石室の入口は狭く、天井の高さが低いが、中に入るとその大きさに驚くのだ。玄室は長さ四・一メートル、幅二・九メートル、高さ三・三メートル、羨道は長さ二・二五メートル、幅一・二五メートル、高さ一・二五メートルを測る。玄室は石材を横長に用いて、持ち送りでドーム状に積み上げている。このような構造は横穴式石室の中でも古い形式で、福山周辺では今津町の長波(おさば)古墳に見られるだけである。出土遺物は、馬具類や、金銅製丸玉、鉄器、須恵器などがある。石室の構造などから築造の時期は六世紀半ば頃とみられる。二塚古墳とともに金銅張りの馬具が出上していることから、大きな権力をもち、かつ中央とのつながりの大きかった人の墓と考えられる。

保育所のところで東に向きを変えて進むと造成地が見えるが、これを北に入る。丘陵を上るとやがて右に分かれる道がある。ここを右に曲がると池が二つあるので、その間を通り、池の南側を西に進んで頂上に向かう道を行くと掛迫第六号古墳に着く。この古墳は前方後円墳という説と、円墳という説があったが、我々の会が平成七、八年(一九九五、 一九九六)に測量調査を実施した結果、全長四九メートルの前方後円墳であることが判明した。後円部に二基の竪穴式石室があり、北側の石室は長さ三・三メートル、幅〇・七~一メートル、高さ一メートル、南側の石室は長さ三・八メートル、幅〇・五~〇・八メートル、高さ〇・七~〇・八メートルの規模である。北側で人骨一体分のほか、ダ龍鏡、鉄斧、鉄釘など、南側で歯、勾王、ガラス小玉、仿製(ぼうせい)三角縁神獣鏡が出土している。築造の時期は五世紀初め頃とみられる。

法成寺の丘陵と古墳

整備された栗塚古墳の丘
整備された栗塚古墳の丘

掛迫第六号古墳を見学したらもとの道へ戻り、造成地(駅家加茂地区内陸型複合団地)の上を目指して進む。途中で後ろを振り返ってみよう。南には芦田川に向かって平野が一望できるようになってくる。これだけ見晴らしがよければ、古墳を築くには絶好の場所であろう。実際、この造成地内にはかつて十数基の古墳があったのだ。残念ながらその多くは発掘調査終了後に破壊されてしまった。やがて交差点があり、右に曲がって進むと上部に給水槽が見えてくるのでそれをめざして進む。その給水槽の南下には古墳七基が整備された粟塚(あわづか)古墳の丘がある。ここには造成地内の狼塚(おおかみづか)第二号古墳と、加茂町の正福寺裏山第一号古墳の竪穴式石室が移築復元されている。また整備にともない事前に調査したところ、小規模の横穴式石室をもつ古墳も発見されたため、こちらも復元されている。

まず入口のところに移築された狼塚第二号古墳がある。この古墳はもともとは三〇〇メートルほど西で、標高一四〇メートルほどの高さにあり、芦田川をはじめ神辺から新市にかけての平野、さらには天気のよい日には四国も見えるところに位置していた。直径十二メートルの円墳で、横穴式石室の規模は長さ五・四メートル、幅一・五メートル、高さ一・五メートルである。石材は表面を平らに加工している。この古墳の特徴は、玄室と羨道の間に、左右の両側壁と天井からともに〇・三~〇・四メートルほど石材を張り出して玄門(げんもん)と梁を設けているところである。このような構造の石室は神辺町の大坊古墳や、新市町の大佐山白塚古墳にも見られ、大坊(だいぼう)古墳のほぼ半分の大きさであることから、同一の技術を持った集団によって造られた可能性が高い。出土遺物は須恵器片のほか、馬具と思われる鉄製品や滑石(かっせき)製の管玉などがある。築造は遺物や石室の構造から七世紀前半頃とみられる。

粟塚第五号~第八号古墳は整備の事前調査で発見された小規模の横穴式石室をもつ古墳である。畑として利用されていたこともあり、石室の下部しか残っていなかったが、直径五~八メートルの円墳に、長さ二~三メートル台、幅が一メートルほどの石室が設けられている。粟塚第三号古墳は直径二一メートルの円墳で、周溝も含めると二六メートルにも及ぶ大規模なもの。主体部は粘土槨であることが試掘で確認されており、築造の時期は古墳時代前半とみられる。ここにはどのような人が葬られているのだろうか。また弥生時代の住居跡も見つかり、南側は第六号古墳によって壊されていた。残念ながら住居跡は埋め戻されて見ることはできない。

正福寺裏山第1号古墳出土連弧文縁四獣鏡
正福寺裏山第1号古墳出土連弧文縁四獣鏡

古墳の丘の一番南には移築された正福寺裏山第一号古墳の竪穴式石室がある。この古墳は道路の付け替え工事により、既に消滅してしまった。直径十六メートルの円墳で、石室の規模は長さ二・五メートル、幅〇・七~〇・八メートル、高さ〇・八メートル、それにともなう暗渠(あんきょ)の排水溝の長さは七メートルであった。出土品は直径一二センチメートルの連弧文縁四獣鏡(れんこもんえんじじゅうきょう)という珍しい鏡一枚と、骨盤と思われる人骨片だけであった。築造の時期は古墳時代前期(四世紀)とみられる。この古墳のあった場所からは非常に見晴らしがよかった。どうせならもとの位置での保存が望ましかった。

消滅した古墳

石佛第1号古墳
石佛第1号古墳

この造成地内および、付け替え道路部にはかつて十数基の古墳があった。平野から丘陵に上がってすぐに位置した法成寺本谷古墳は十一×九メートルの円墳で、主体部に土壙(どこう)と石蓋(いしぶた)土壙があったが、道路付け替えのため消滅してしまった。本谷新池の北側に位置していた狼塚古墳群は、第一号古墳は造成範囲外のため残っているが、移築された第二号古墳を除く、第三号古墳から第五号古墳は消滅してしまった。また少し北に位置していた飛渡(とびわたり)古墳も含め、いずれも横穴式石室をもつ円墳であった。道路を北へ進むとやがて突き当たり、左右に分かれるT字路となる。これを右に曲がり、服部に越える道との分かれ付近に石佛(いしぼとけ)古墳群はあった。五基の円墳はいずれも横穴式石室を主体部にもっていた。最大の第二号古墳の直径十二メートルに対し、最小の第五号古墳は直径三メートルで、石室の規模は長さ二メートル、幅〇・六メートルと小さく、人骨の残存状況から屈葬をしていたとみられる。

服部と古墳

北塚古墳
北塚古墳

から県道百谷(ももだに)新市線に向かい、西に進む。やがて道路と並行して谷間を南に流れる川、服部川に出くわす。服部の地名が示すように、ここは古代の服織(はとり)郷で周辺には古墳も多い。今では静かな地域だが、当時は先進地であった。川を少し上り、永谷下のバス停から右手の山を上がったところの観音堂の奥にあるのが北塚古墳である。墳丘はなく、南に口を開けた花向岩製の石棺がむき出しになっている。五枚の切石による組み合せ式の家形石棺で、内法の長さは一・六五メートル、幅〇・七メートル、高さ〇・六五メートルを測る。蓋石は丸みをおび、後部には縄掛突起の痕跡が見られ、また奥小口石には組み合わせのために溝を彫り込んだ痕も見られる。築造の時期は七世紀半ば頃とみられる。

永谷下のバス停に戻り、反対に西に進んだ辺り、八幡神社の南には、奈良時代の重圏文(じゅうけんもん)軒丸瓦が採集された市場(いちば)廃寺跡がある。しかし、礎石と思われるものが見つかっていないため寺院跡かどうかは不明である。近くに椋山城跡があるが、別項に譲ろう。南に進み、案内に沿って進むと道路脇に大迫古墳がある。墳形は道路や畑で削られてしまって不明である。道路からはそんなに大きくは見えない横穴式石室の入口ではあるが、全長はなんと十一・六五メートルもあるのだ。道路から一段下りて石室を覗き込むとその大きさに驚くだろう。玄室は長さ五・六五メートル、幅二・五メートル、高さ二・七メートル、羨道は長さ六メートル、幅一・九メートル、高さ二・一メートルを測り、羨道よりも玄室の幅が両側に広い両袖とよばれるタイプである。玄室には非常に大きな石が使われており、また切石であることや、側壁が真っ直ぐに立っていることから、当時の技術の高さに感心してしまう。早くから開口していたので、出土品は須恵器の高杯二個と、純金製の耳環が知られるのみで、このため金環塚(きんかんづか)古墳ともよばれている。築造の時期は七世紀初め頃とみられる。

服部大池

服部大池
服部大池

南に向かって行くと左手に南北に長い大きな池が見えてくる。服部大池だ。この池の周辺にも大池西古墳群や、小山田古墳群、池の東側には法成寺西上古墳群など古墳が多く、ほとんどが横穴式石室である。ゴルフの練習場を過ぎ、四差路で新牛飼橋を渡って北に上ると堤防上に公園がある。ここには人柱お糸之像が建っている。この池は福山藩主水野勝成が、周辺九郡に命じて寛永二十年(一六四三)から工事が始まり正保二年(一六四五)に完成した灌漑用の溜め池である。福山藩ではほかに瀬戸池、春日池などが造られたが、この服部大池が一番大きく、周囲は約四キロメートルで、三五〇町歩を潤していた。

土手上に建つ人柱お糸の像
土手上に建つ人柱お糸の像

築堤は難工事で、お糸という十六歳の娘が人柱となり、その恋人がこの池で飛び込み自殺をした悲しい物語が伝わっている。二人のために池の東池畔に松と槙が植えられていたが、枯れたので切り倒されてしまった。福山では、府中と多治米付近にも人柱伝説が残っている。東側は法成寺、西側は新山に属しており、当時は西法成寺村に属していた。ではなぜ法成寺大池とならなかったのか、「法成寺」の文字を解体すると、「水去って寸土と成る」となり、縁起が悪いとされたからである。バス停から下ると、先ほどの山の神古墳や駅家駅方面に向かう。疲れてしまった人はここまでにしよう。

宝塚・二子塚古墳と弥生ヶ丘

二子塚古墳石室内部
二子塚古墳石室内部

まだ元気な人は西に進もう。新牛飼橋をさらに南へ行き、右手に見える丘陵の南端を目ざして進む。石段を上がったところには、熊野神社が祀られており、その下にはむき出しになった横穴式石室の天井石が見えている。石段を下りて西に進むと、水道屋のところで右へ登る道があるので登っていく。そこには墓地があり、その北側の少し上がったところに宝塚古墳がある。直径十五メートルの円墳で、全長七・七メートルの横穴式石室をもち、玄室は長さ五・四五メートル、幅二・二五メートル、高さ二・二五メートル、羨道の幅は一・四メートルを測る。宝塚古墳は二十数基ある小山田古墳群のうちの一基で、規模の大きなもの。なぜこの古墳だけ、宝塚とよばれているのだろうか…。

もとの道を下って西へ進むと池があるので、その西側を通って団地に上がる。今から二十五年ほど前にこの団地造成に伴って発掘調査が行われ、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡や、古墳などが多数見つかった。なかには、三次にある県立歴史民俗資料館に展示されている家形埴輪が出土した池の内第二号古墳もある。そのため、団地造成後の大字も弥生ヶ丘となり、弥生ヶ丘団地とよばれている。ここからは神辺にかけての見晴らしがいい。公園の東には備後南部では最大の前方後円墳である二子塚古墳がある。全長六八メートル、後円部径三五メートル、高さ六・五メートル、前方部長さ三三メートル、幅二五メートル、高さ四メートルの規模を持ち、一部周溝の痕跡も残っている。山道を少し東に行った後円部には、道の下に入口がかなり埋まった横穴式石室が残っている。規模は全長十三メートルくらい、玄室長さ六・五メートル、幅二・一五メートル、羨道長さ六・五メートル、幅一・四メートルである。羨道の高さは埋まっているので〇・六メートルほどしかないが、玄室では二・五メートルもある。勇気のある人は、懐中電灯を持って這って入ってみよう。石室や使われている石の大きさに驚かされるはずだ。埋まっている土を全部出すとどれくらいの高さになるのだろうか。西の前方部には以前、もう一つ横穴式石室があったと言われている窪みがある。築造時期は六世紀後半で、最後の前方後円墳となる。今、この山道は車が通っている。貴重な文化財を守るため、早く通行止めにして欲しい。立派な石室が崩れてしまつてからは遅いのだ。

今日見学をした山の神、二塚、宝塚、大迫古墳のように、この辺りには巨大な横穴式石室をもつ古墳が多く、また副葬品には素晴らしいものも多い。この辺りにはかなり大きな権力をもち、また畿内と強いつながりをもつ支配者がいたのだろう。

古代山陽道と最明寺跡

最明寺跡南遺跡より出土した瓦(奈良時代)
最明寺跡南遺跡より出土した瓦(奈良時代)

公園を西に進むと三叉路があり、左へ曲がって帰るとしよう。団地を下りると再び三叉路となるので今度は右へ進む。やがて古代山陽道でもある県道下御領新市線に合流する。福塩線近田駅はすぐそばだが、ついでにもう一つ見学しよう。ここより東は小高い丘陵になっており、県道を南に見下ろすところに位置している。この丘陵上部では以前、奈良時代の布目瓦が多量に出土し、また建物の礎石と思われる石や、中世の五輪塔も見つかっている。それからこの場所には、現在は服部大池近くにある最明寺が、江戸時代まであったと言われている。その最明寺の山号が馬宿山(うまやどさん)、騨山などと称されていたことや、ここから南には馬之瀬(うまのせ)という字名があることから、古代山陽道の品治駅家(ほんぢうまや)跡ではないかと言われている。平成十年(一九九八)に県道の改良工事に伴って丘陵の南側斜面が発掘調査された(最明寺跡南遺跡)。この時も多量の瓦が出上し、軒丸瓦、軒平瓦ともに奈良の平城宮で出土した瓦に類似しており、和銅年間頃と、天平年間末頃の二種類がある。残念ながら掘立柱の建物の一部が見つかったものの建物の内容は明らかにできていないし、瓦葺の建物を明らかにする遺構も見つかっていない。丘陵上部が調査されて明らかになることに期待したい。都と九州太宰府を結ぶ幹線道、古代山陽道。備中国から安那駅(神辺町)を経て、品治駅、備後国府のあった府中へと続いていく。室町時代以降は神辺から松永へ向かうルートに変わり、江戸時代には福山城も築かれた。今では瀬戸内側を国道二号線、JR、山陽自動車道が通る。大規模な古墳が集まり、古代山陽道も通っている。昔はこちらがメインだったことを考えながら探訪してみてもよいだろう。県道を西に進むとやがて近田駅、今日はここまでにしておこう。

参考文献
平凡社『広島県の地名』
脇坂光彦・小都隆編『探訪・広島の古墳』 芸備友の会 一九九一
福山市教育委員会『福山市文化財年報』二六 一九九七
福山市教育委員会『福山市文化財年報』二七 一九九八
福山市教育委員会『福山市文化財年報』二八 一九九九
(財)広島県埋蔵文化財調査センター『法成寺サコ遺跡 法成寺本谷古墳』一九九八
(財)広島県埋蔵文化財調査センター『駅家加茂地区内陸型複合団地造成事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書 飛渡古墳 狼塚第三~五号古墳 城ヶ谷遺跡』一九九九
篠原芳秀「市場廃寺」「中島遺跡」『備後の主要遺跡I』 芦田川文庫一七 一九九四

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/916cc0d3e0e64a3f3aeeee251f28507a.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/916cc0d3e0e64a3f3aeeee251f28507a-150x100.jpg管理人古代史「ふるさと探訪」より 安原 誉佳 万能倉 福山駅から福塩線で、電車に揺られて二十分ほどで万能倉駅に到着する。「万能倉(まなぐら)」…難読の駅の一つであろう。駅を出るとすぐに東西に走る県道(下御領新市線)がある。古代山陽道である。古代山陽道については前項を見ていただきたい。この道を西に三キロメートルほど進むと、品治(ほんぢ)駅があり、多くの倉があったことから万能倉の名がついたと考えられている。しかし福塩線より南側の大部分は江戸時代に開発されたところで、新涯の名が残っている。 法成寺の大古墳 万能倉駅からだと道がややこしいのと、遠いので、一つ先の駅家駅から歩くことをおすすめする。上から読んでも下から読んでも、「えきやえき」、つまらないことを言わずに先に進もう。駅家の地名は、大正二年に万能倉村、倉光村、中島村などが合併したときにつけられたもので、古来からではない。駅を出て県道を東に少し戻り、陸橋のところで北上する。右に分かれる道を行くと家が立て込んでいるところがある。まず藤井育二氏宅裏にある二塚古墳を見てみよう。以前は二基の古墳が並んでいたため、二塚の名がついたのだが、現在は一基しか見ることはできない。早くから破壊されていて墳丘の規模はわからない。横穴式石室の奥部が長さ四メートルほどが残っているが、驚くことに幅二・四メートル、高さ三・一メートルもあるのだ。使われている石材は大きく、また表面には削った痕もみられる。武器や馬具、耳環などが出上しているが、石室がすべて残っていたらどれほどの規模であっただろうか。古墳の造られた時期は六世紀末頃とみられる。 そこから西に進み、法成寺のバス停を北に入ると、保育所の手前の左にこんもりとした丘が見える。山の神古墳で、以前は前方後円墳ではないかと言われていたが、円墳の可能性が高く、直径十二メートル、高さ四メートルを測る。墳丘の規模こそ大したことはないが、この古墳のすごいところは石室である。横穴式石室の入口は狭く、天井の高さが低いが、中に入るとその大きさに驚くのだ。玄室は長さ四・一メートル、幅二・九メートル、高さ三・三メートル、羨道は長さ二・二五メートル、幅一・二五メートル、高さ一・二五メートルを測る。玄室は石材を横長に用いて、持ち送りでドーム状に積み上げている。このような構造は横穴式石室の中でも古い形式で、福山周辺では今津町の長波(おさば)古墳に見られるだけである。出土遺物は、馬具類や、金銅製丸玉、鉄器、須恵器などがある。石室の構造などから築造の時期は六世紀半ば頃とみられる。二塚古墳とともに金銅張りの馬具が出上していることから、大きな権力をもち、かつ中央とのつながりの大きかった人の墓と考えられる。 保育所のところで東に向きを変えて進むと造成地が見えるが、これを北に入る。丘陵を上るとやがて右に分かれる道がある。ここを右に曲がると池が二つあるので、その間を通り、池の南側を西に進んで頂上に向かう道を行くと掛迫第六号古墳に着く。この古墳は前方後円墳という説と、円墳という説があったが、我々の会が平成七、八年(一九九五、 一九九六)に測量調査を実施した結果、全長四九メートルの前方後円墳であることが判明した。後円部に二基の竪穴式石室があり、北側の石室は長さ三・三メートル、幅〇・七~一メートル、高さ一メートル、南側の石室は長さ三・八メートル、幅〇・五~〇・八メートル、高さ〇・七~〇・八メートルの規模である。北側で人骨一体分のほか、ダ龍鏡、鉄斧、鉄釘など、南側で歯、勾王、ガラス小玉、仿製(ぼうせい)三角縁神獣鏡が出土している。築造の時期は五世紀初め頃とみられる。 法成寺の丘陵と古墳 掛迫第六号古墳を見学したらもとの道へ戻り、造成地(駅家加茂地区内陸型複合団地)の上を目指して進む。途中で後ろを振り返ってみよう。南には芦田川に向かって平野が一望できるようになってくる。これだけ見晴らしがよければ、古墳を築くには絶好の場所であろう。実際、この造成地内にはかつて十数基の古墳があったのだ。残念ながらその多くは発掘調査終了後に破壊されてしまった。やがて交差点があり、右に曲がって進むと上部に給水槽が見えてくるのでそれをめざして進む。その給水槽の南下には古墳七基が整備された粟塚(あわづか)古墳の丘がある。ここには造成地内の狼塚(おおかみづか)第二号古墳と、加茂町の正福寺裏山第一号古墳の竪穴式石室が移築復元されている。また整備にともない事前に調査したところ、小規模の横穴式石室をもつ古墳も発見されたため、こちらも復元されている。 まず入口のところに移築された狼塚第二号古墳がある。この古墳はもともとは三〇〇メートルほど西で、標高一四〇メートルほどの高さにあり、芦田川をはじめ神辺から新市にかけての平野、さらには天気のよい日には四国も見えるところに位置していた。直径十二メートルの円墳で、横穴式石室の規模は長さ五・四メートル、幅一・五メートル、高さ一・五メートルである。石材は表面を平らに加工している。この古墳の特徴は、玄室と羨道の間に、左右の両側壁と天井からともに〇・三~〇・四メートルほど石材を張り出して玄門(げんもん)と梁を設けているところである。このような構造の石室は神辺町の大坊古墳や、新市町の大佐山白塚古墳にも見られ、大坊(だいぼう)古墳のほぼ半分の大きさであることから、同一の技術を持った集団によって造られた可能性が高い。出土遺物は須恵器片のほか、馬具と思われる鉄製品や滑石(かっせき)製の管玉などがある。築造は遺物や石室の構造から七世紀前半頃とみられる。 粟塚第五号~第八号古墳は整備の事前調査で発見された小規模の横穴式石室をもつ古墳である。畑として利用されていたこともあり、石室の下部しか残っていなかったが、直径五~八メートルの円墳に、長さ二~三メートル台、幅が一メートルほどの石室が設けられている。粟塚第三号古墳は直径二一メートルの円墳で、周溝も含めると二六メートルにも及ぶ大規模なもの。主体部は粘土槨であることが試掘で確認されており、築造の時期は古墳時代前半とみられる。ここにはどのような人が葬られているのだろうか。また弥生時代の住居跡も見つかり、南側は第六号古墳によって壊されていた。残念ながら住居跡は埋め戻されて見ることはできない。 古墳の丘の一番南には移築された正福寺裏山第一号古墳の竪穴式石室がある。この古墳は道路の付け替え工事により、既に消滅してしまった。直径十六メートルの円墳で、石室の規模は長さ二・五メートル、幅〇・七~〇・八メートル、高さ〇・八メートル、それにともなう暗渠(あんきょ)の排水溝の長さは七メートルであった。出土品は直径一二センチメートルの連弧文縁四獣鏡(れんこもんえんじじゅうきょう)という珍しい鏡一枚と、骨盤と思われる人骨片だけであった。築造の時期は古墳時代前期(四世紀)とみられる。この古墳のあった場所からは非常に見晴らしがよかった。どうせならもとの位置での保存が望ましかった。 消滅した古墳 この造成地内および、付け替え道路部にはかつて十数基の古墳があった。平野から丘陵に上がってすぐに位置した法成寺本谷古墳は十一×九メートルの円墳で、主体部に土壙(どこう)と石蓋(いしぶた)土壙があったが、道路付け替えのため消滅してしまった。本谷新池の北側に位置していた狼塚古墳群は、第一号古墳は造成範囲外のため残っているが、移築された第二号古墳を除く、第三号古墳から第五号古墳は消滅してしまった。また少し北に位置していた飛渡(とびわたり)古墳も含め、いずれも横穴式石室をもつ円墳であった。道路を北へ進むとやがて突き当たり、左右に分かれるT字路となる。これを右に曲がり、服部に越える道との分かれ付近に石佛(いしぼとけ)古墳群はあった。五基の円墳はいずれも横穴式石室を主体部にもっていた。最大の第二号古墳の直径十二メートルに対し、最小の第五号古墳は直径三メートルで、石室の規模は長さ二メートル、幅〇・六メートルと小さく、人骨の残存状況から屈葬をしていたとみられる。 服部と古墳 から県道百谷(ももだに)新市線に向かい、西に進む。やがて道路と並行して谷間を南に流れる川、服部川に出くわす。服部の地名が示すように、ここは古代の服織(はとり)郷で周辺には古墳も多い。今では静かな地域だが、当時は先進地であった。川を少し上り、永谷下のバス停から右手の山を上がったところの観音堂の奥にあるのが北塚古墳である。墳丘はなく、南に口を開けた花向岩製の石棺がむき出しになっている。五枚の切石による組み合せ式の家形石棺で、内法の長さは一・六五メートル、幅〇・七メートル、高さ〇・六五メートルを測る。蓋石は丸みをおび、後部には縄掛突起の痕跡が見られ、また奥小口石には組み合わせのために溝を彫り込んだ痕も見られる。築造の時期は七世紀半ば頃とみられる。 永谷下のバス停に戻り、反対に西に進んだ辺り、八幡神社の南には、奈良時代の重圏文(じゅうけんもん)軒丸瓦が採集された市場(いちば)廃寺跡がある。しかし、礎石と思われるものが見つかっていないため寺院跡かどうかは不明である。近くに椋山城跡があるが、別項に譲ろう。南に進み、案内に沿って進むと道路脇に大迫古墳がある。墳形は道路や畑で削られてしまって不明である。道路からはそんなに大きくは見えない横穴式石室の入口ではあるが、全長はなんと十一・六五メートルもあるのだ。道路から一段下りて石室を覗き込むとその大きさに驚くだろう。玄室は長さ五・六五メートル、幅二・五メートル、高さ二・七メートル、羨道は長さ六メートル、幅一・九メートル、高さ二・一メートルを測り、羨道よりも玄室の幅が両側に広い両袖とよばれるタイプである。玄室には非常に大きな石が使われており、また切石であることや、側壁が真っ直ぐに立っていることから、当時の技術の高さに感心してしまう。早くから開口していたので、出土品は須恵器の高杯二個と、純金製の耳環が知られるのみで、このため金環塚(きんかんづか)古墳ともよばれている。築造の時期は七世紀初め頃とみられる。 服部大池 南に向かって行くと左手に南北に長い大きな池が見えてくる。服部大池だ。この池の周辺にも大池西古墳群や、小山田古墳群、池の東側には法成寺西上古墳群など古墳が多く、ほとんどが横穴式石室である。ゴルフの練習場を過ぎ、四差路で新牛飼橋を渡って北に上ると堤防上に公園がある。ここには人柱お糸之像が建っている。この池は福山藩主水野勝成が、周辺九郡に命じて寛永二十年(一六四三)から工事が始まり正保二年(一六四五)に完成した灌漑用の溜め池である。福山藩ではほかに瀬戸池、春日池などが造られたが、この服部大池が一番大きく、周囲は約四キロメートルで、三五〇町歩を潤していた。 築堤は難工事で、お糸という十六歳の娘が人柱となり、その恋人がこの池で飛び込み自殺をした悲しい物語が伝わっている。二人のために池の東池畔に松と槙が植えられていたが、枯れたので切り倒されてしまった。福山では、府中と多治米付近にも人柱伝説が残っている。東側は法成寺、西側は新山に属しており、当時は西法成寺村に属していた。ではなぜ法成寺大池とならなかったのか、「法成寺」の文字を解体すると、「水去って寸土と成る」となり、縁起が悪いとされたからである。バス停から下ると、先ほどの山の神古墳や駅家駅方面に向かう。疲れてしまった人はここまでにしよう。 宝塚・二子塚古墳と弥生ヶ丘 まだ元気な人は西に進もう。新牛飼橋をさらに南へ行き、右手に見える丘陵の南端を目ざして進む。石段を上がったところには、熊野神社が祀られており、その下にはむき出しになった横穴式石室の天井石が見えている。石段を下りて西に進むと、水道屋のところで右へ登る道があるので登っていく。そこには墓地があり、その北側の少し上がったところに宝塚古墳がある。直径十五メートルの円墳で、全長七・七メートルの横穴式石室をもち、玄室は長さ五・四五メートル、幅二・二五メートル、高さ二・二五メートル、羨道の幅は一・四メートルを測る。宝塚古墳は二十数基ある小山田古墳群のうちの一基で、規模の大きなもの。なぜこの古墳だけ、宝塚とよばれているのだろうか…。 もとの道を下って西へ進むと池があるので、その西側を通って団地に上がる。今から二十五年ほど前にこの団地造成に伴って発掘調査が行われ、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡や、古墳などが多数見つかった。なかには、三次にある県立歴史民俗資料館に展示されている家形埴輪が出土した池の内第二号古墳もある。そのため、団地造成後の大字も弥生ヶ丘となり、弥生ヶ丘団地とよばれている。ここからは神辺にかけての見晴らしがいい。公園の東には備後南部では最大の前方後円墳である二子塚古墳がある。全長六八メートル、後円部径三五メートル、高さ六・五メートル、前方部長さ三三メートル、幅二五メートル、高さ四メートルの規模を持ち、一部周溝の痕跡も残っている。山道を少し東に行った後円部には、道の下に入口がかなり埋まった横穴式石室が残っている。規模は全長十三メートルくらい、玄室長さ六・五メートル、幅二・一五メートル、羨道長さ六・五メートル、幅一・四メートルである。羨道の高さは埋まっているので〇・六メートルほどしかないが、玄室では二・五メートルもある。勇気のある人は、懐中電灯を持って這って入ってみよう。石室や使われている石の大きさに驚かされるはずだ。埋まっている土を全部出すとどれくらいの高さになるのだろうか。西の前方部には以前、もう一つ横穴式石室があったと言われている窪みがある。築造時期は六世紀後半で、最後の前方後円墳となる。今、この山道は車が通っている。貴重な文化財を守るため、早く通行止めにして欲しい。立派な石室が崩れてしまつてからは遅いのだ。 今日見学をした山の神、二塚、宝塚、大迫古墳のように、この辺りには巨大な横穴式石室をもつ古墳が多く、また副葬品には素晴らしいものも多い。この辺りにはかなり大きな権力をもち、また畿内と強いつながりをもつ支配者がいたのだろう。 古代山陽道と最明寺跡 公園を西に進むと三叉路があり、左へ曲がって帰るとしよう。団地を下りると再び三叉路となるので今度は右へ進む。やがて古代山陽道でもある県道下御領新市線に合流する。福塩線近田駅はすぐそばだが、ついでにもう一つ見学しよう。ここより東は小高い丘陵になっており、県道を南に見下ろすところに位置している。この丘陵上部では以前、奈良時代の布目瓦が多量に出土し、また建物の礎石と思われる石や、中世の五輪塔も見つかっている。それからこの場所には、現在は服部大池近くにある最明寺が、江戸時代まであったと言われている。その最明寺の山号が馬宿山(うまやどさん)、騨山などと称されていたことや、ここから南には馬之瀬(うまのせ)という字名があることから、古代山陽道の品治駅家(ほんぢうまや)跡ではないかと言われている。平成十年(一九九八)に県道の改良工事に伴って丘陵の南側斜面が発掘調査された(最明寺跡南遺跡)。この時も多量の瓦が出上し、軒丸瓦、軒平瓦ともに奈良の平城宮で出土した瓦に類似しており、和銅年間頃と、天平年間末頃の二種類がある。残念ながら掘立柱の建物の一部が見つかったものの建物の内容は明らかにできていないし、瓦葺の建物を明らかにする遺構も見つかっていない。丘陵上部が調査されて明らかになることに期待したい。都と九州太宰府を結ぶ幹線道、古代山陽道。備中国から安那駅(神辺町)を経て、品治駅、備後国府のあった府中へと続いていく。室町時代以降は神辺から松永へ向かうルートに変わり、江戸時代には福山城も築かれた。今では瀬戸内側を国道二号線、JR、山陽自動車道が通る。大規模な古墳が集まり、古代山陽道も通っている。昔はこちらがメインだったことを考えながら探訪してみてもよいだろう。県道を西に進むとやがて近田駅、今日はここまでにしておこう。 参考文献 平凡社『広島県の地名』 脇坂光彦・小都隆編『探訪・広島の古墳』 芸備友の会 一九九一 福山市教育委員会『福山市文化財年報』二六 一九九七 福山市教育委員会『福山市文化財年報』二七 一九九八 福山市教育委員会『福山市文化財年報』二八 一九九九 (財)広島県埋蔵文化財調査センター『法成寺サコ遺跡 法成寺本谷古墳』一九九八 (財)広島県埋蔵文化財調査センター『駅家加茂地区内陸型複合団地造成事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書 飛渡古墳 狼塚第三~五号古墳 城ヶ谷遺跡』一九九九 篠原芳秀「市場廃寺」「中島遺跡」『備後の主要遺跡I』 芦田川文庫一七 一九九四備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 大人の博物館教室