ふるさと探訪」より

田口 義之

井原

神辺往還

福山駅前から井笠バス『井原行』に乗車すると、バスはまず奈良津の大峠(おおたお)を越え、横尾の古い町並みを通過して右折、神辺に向かう。かつての神辺往還だ。神辺城に替わって築かれた福山城は、当時の山陽道(西国往還)から南に外れた位置に築かれた。そのため山陽道のバイパスを通す必要が生まれ、横尾がその分岐点の在郷町として繁栄した。バスはその神辺往還をまず走ったわけだ。

山陽道の変遷

備中高屋宿から備後神辺宿を通過して、郷分で芦田川を渡り、山手・津之郷・赤坂を通って松永の今津宿に至るのが室町時代以降の山陽道だが、奈良時代、平城京と九州の大宰府を結ぶ当時の国道一号線として整備された頃は違う。備中高屋までは同じだが、備後に入るとそのまま神辺平野の北側を直進し、備後国府の置かれた府中市に通じていた。現在のように神辺・今津を通るコースに変わったのは鎌倉時代以降瀬戸内水運の発展によって鞆・尾道の港町が繁栄し、街道が沿岸部に引き寄せられたためである。

バスは神辺の町並みを通過すると、最近開通した井原線の高架にそって走り、やがて備後・備中の国境を通過する。

古代山陽道

近世の山陽道は現在の国道三一三号線の北に並行して残っている。ただ、ややこしいのは、この道が古代の山陽道であるかどうかについて異論があることだ。一説に、古代の山陽道は現在の井原市高屋町から南に折れ、大江で右折して神辺町八尋に入り、ここから一直線に西に向かっていたという。これは現在の県道がこのルートに沿って走り、備後国分寺の門前を通過して西に延びることから考えられた説だが、いかがであろうか。素直に高屋から国分寺に至る回廊状の平野を通っていたとした方が合理的だと思うのだが。

古代山陽道のコースについての議論はこの辺でやめよう。千三百年の歴史は掘ってみなければ正確なことはわからない。

備後備中の国境

国境にそびえる滝山城跡
国境にそびえる滝山城跡

古代山陽道のルートに思いをめぐらせる内に、バスは備後から備中に入ってしまった。この辺りでバスを降り、史跡巡りの旅を始めよう。高屋町の「吉野バス停」で下車し、旧山陽道に沿って備後に引き返すとき、まず注意していただきたいのは、現県境を越えるところにある細い溝だ。南北を走るこの細い溝こそ往時の国境だ。そして、溝が南に突き当たったところに聳(そび)える台形の小山に注意して欲しい。備後・備中の国境に築かれた戦国の城塞滝山城の跡である。平和な時代、「境」はそれ程の意味を持たないが、戦乱の時代は違う。「境」は人々、中でも武士が命を懸けて守る場所であり、各地の「境」には大小さまざまな城塞が築かれた。この城もその一つである。

八丈岩(はちじょういわ)

さらに進むと、右手に「八丈岩登山口」の標識が目に付く。八丈岩は街道の北側に答える御領山のピークにある巨大な岩で八畳敷きの広さがあるところからその名がある。一帯は花崗岩土壌の風化した巨岩地帯で、八丈岩のほか千人隠れ岩など名前の着いた巨岩が累々と連なり、観光名所となっている。登山道も整備され、花の季節や紅葉のシーズンにはここで弁当をひろげるのも一興だろう。

さて、このコースのメインは国分寺から道上にかけての一帯である。最初に紹介した備後備中の国境からここまで歩くと息が切れるから、メインだけじっくり見ようという方は、井原鉄道の『御領駅』か井笠バス『国分寺前』バス停で下車することをお薦めする。

備後国分寺

神辺町の国分寺一帯から同町の道上にかけては古代遺跡の宝庫である。まず、訪ねたいのは備後国分寺だ。現在も真言宗の古刹として法灯を伝える国分寺は、もちろん、奈良時代に聖武天皇の勅願によって国々に建てられた国分寺の一つである。だが、現在の寺は江戸時代の建物で、かつての伽藍は現国分寺の前面に眠っている。昭和四七年に実施された発掘調査によると、創建時の伽藍は現在の山門の南約一八〇メートル四方に及ぶ広大なもので、正面向かって右に塔、左手に金堂を配す『法起寺式』伽藍配置であったことが明らかにされている。福山周辺の古代寺院には蔵王町の宮の前廃寺跡を初めこの伽藍配置のものが多い。何故だろうか…。解き明かしたい謎の一つである。

堂々川の砂留

堂々川の砂留
堂々川の砂留

ここからは国分寺門前を東西に走る旧山陽道(現県道下御領新市線)を歩くと便利だ。国分寺の参道から右折して旧山陽道に入るとまず最初に堂々川の橋を渡る。ここで橋を渡らずに有に進むと有名な堂々川の『砂留』に至る。砂留は江戸時代から明治にかけての砂防ダムのことで、ここのは見事な石組・石垣によって構成された全国的にも指折りの規模と構造を持っており、一見の価値ある遺跡である。また、途中『寒水寺道』の道標に沿って左に入ると、平安時代の創建と伝える真言宗寒水寺を訪ねることができる。

堂々川の橋上で北を望むと左右に丘陵が広がるが、いずれも備後南部屈指の横穴式後期群集墳の所在地として有名である。右手の山には国分寺裏山古墳群、左手の丘陵上にあるのが迫山古墳群だ。

小山池廃寺跡

ここからしばらく歩くと道は大きなため池の土手に出る。このため池は小山池といって現在鯉の養殖池として使用されているが、この池の北側に注目される遺跡が残っている。小山池廃寺跡だ。青から池の水が干上がる季節に池の底から古代の布目瓦が出土することが知られていた。出土地点は丁度備後国分寺の西五百メートルに位置し、国分寺と同時に創建されたはずの『国分尼寺』の跡ではないか、こう考えられていたのだ。だが、昭和四六年から三次にわたって行われた発掘調査の結果は意外なものだった。出土瓦の形式から創建は国分寺より古いことが判明したのである。そうするとこの寺は国分尼寺として創建されたことはありえない。備後国分尼寺の解明は今後の課題である。

方八丁と大宮遺跡

堂々川から小山池まで距離を測るとほぼ八百メートルである。そして、地図を広げるとその南にほぼ八百メートル四方の地割が復元できることが分かる。これがかつて備後国府の遺跡ではないかと騒がれた湯野の『方八丁』遺跡である。備後国府の所在地としては現在の府中市がその遺名を伝えた場所であることは諸氏の意見は一致している。だが、問題点があった。それは国分寺の位置である。聖武天皇の国分寺建立の詔によれば、それは国府の近在の風光明媚な場所に創建されることになっていた。だが、備後の国分寺は府中にはなく、遠く離れた神辺にある。なぜか…。そこで考えられたのが備後国府は当初神辺の湯野に置かれ、その後何らかの理由で現在の府中市域に移されたとする説である。その有力な傍証が全国的に見て国府の『国庁』の範囲を示すと言われる、湯野の『方八丁』の地名と地割であった。

しかし、現在この考え方は過去の説になりつつある。最近幾度となく実施された発掘調査よると国府の痕跡はほとんどなく、現地表の地割も近世のものである可能性が高まったためである。だが、この発掘は意外な成果をあげた。弥生時代の環濠集落『大宮遺跡』の発見である。遺跡の発掘は区画整理の事前調査によるもので、現在地表には何も残っていないがその南端には遺跡の名を冠した大宮公園があり、遺跡をしのぶよすがとなっている。近くには菅茶山記念館もあり、井原線湯野駅で神辺に向かえば手ごろな散策コースとなる。

安那(あな)中条


道は小山池を過ぎると要害山山塊の北をかすめて中条地区に入る。中条は古代律令制の転換期を示す地名である。律令制度の下では地方の行政は国・郡・里(郷)の三段階の行政区分で行われていた。だが、平安時代の後期になると、律令制の変質によってこの制度は改変を余儀なくされる。地方の政治は実質的には地方豪族の請負となり、行政区分もそれに応じて、国―郡・郷・条の二段階となる。条は郡を東西・南北で区分して支配の単位としたもので、神辺の中条も旧安那郡を東条・中条・西条に三分した名残である。ちなみに、現在東条の地名は残っていないが、中世史料から現在の神辺町御領が「安那東条」であったことが知られ、そうすると中条の西に位置する福山の加茂の谷が「安那西条」であったことになる。

Mh2>中条の史跡

加茂

神辺の中条地区も史跡に恵まれた地域である。古墳では終末期の整備な横穴式石室を持つ『大坊古墳』や、その南の丘陵突端に位置する直径三〇メートルの大円墳の『猫山古墳』、中世の山城では大坊古墳のすぐ裏山にあたる遍照寺山城跡、中条谷の奥、大字三谷との境に響える木之上(きのえ)城跡などがある。中でも木之上城跡は、平安時代初期の古瓦を出土する山岳寺院との複合遺跡で、地元の本之上遺跡保存会の奉仕によって登山道やトイレなどが整備され、家族連れの手ごろなハイキングコースとなっている。

亀山遺跡

亀山遠景(東より)
亀山遠景(東より)

旧山陽道は、要害山山塊の北端をかすめると、一直線に西南に向かい中条の谷口を横切る。一キロほど歩くと、左手に一見すると前方後円墳のような低い丘が見えてくる。弥生時代の環濠遺跡として有名な亀山遺跡だ。西に回って丘に上ると中腹に立派な社殿が立っている。吉備津彦を祀る岡山神社である。吉備津彦は備後の一宮の祭神として有名だが、元々は備中の吉備津神社の主神として祀られていたもので、吉備国が備後・備中・備前の三国に分割されたとき、それぞれの国に分けられた。亀山の岡山神社は、伝説によると、備中から備後に遷座された吉備津彦命の神霊が一時滞在されたところと言う。

亀山遺跡は、戦前からよく知られた弥生の遺跡である。当初は石器が多数出土することから『石器製造址』として県の史跡に指定された。ところが、この丘を公園に整備するため発掘すると意外なことが分かってきた。山頂広場を中心に三重の環濠がめぐらされていたことが判明したのだ。住居址はまだ見付かっていない。あるいは、弥生中期後半に北九州から近畿地方に見られる「弥生の城塞」高地性集落の跡なのかも知れない。なお、この丘は古墳時代に入ると墓地に転用されたようで、山頂広場の南北には亀山第一・二号古墳が存在する。

中谷廃寺跡

亀山遣跡から北に広がる道上の丘陵地帯も古代遺跡の宝庫である。亀山から旧山陽道(現県道)を挟んで北には町立の道上小学校があり、造成に先だって実施された発掘調査で、法隆寺式の伽藍配置を持つ古代寺院の跡が確認された。中谷廃寺跡である。小学校の裏山も弥生から古墳時代にかけての遺跡密集地で、私がかつて踏査した時には、雨水で刻まれた溝には弥生の上器片がごろごろと転がっていた。古墳も多数存在するようで、未確認ながら前方後円墳も見付かっている。なお、前方後円墳は丘陵南側の平野部にも存在したようで、かつては前方後円形に円の畔が残り、円筒埴輪も出土したという(『福山市史』上巻)。

石成荘(いわなりのしょう)道上条

道上は中世の面影も色濃く残した地域である。この地は中世「石成荘上村道上条」として史料に現われ、中世備後最大の国人領主であった宮氏が勢力を持っていた。

宮氏の本拠は芦品郡新市町新市一帯であったが、石成荘内にも早くから所領を持ち、中条方面にも勢力を拡大していった。その拠点の一つとなったのが道上の護国寺である。現在同寺は真言宗となっているが、元々は南北朝時代の武将宮兼信・氏信父子が、足利二代将軍義詮の菩提を弔うために創建した臨済宗の寺院で、室町時代には五山派の寺院として全盛を極めた。宮兼信・氏信父子は備後宮氏の惣領筋の家の一つ『宮上野介家』の基礎を固めた人物で、一族の精神的な主柱として護国寺を創建したと考えられ、同寺の存在は宮上野介家の本拠がこの付近一帯にあったことの例証となる。その場合、中条の谷を囲むように築かれた城塞のうち、ひときわ抜きん出た規模と構造を持つ、遍照寺山城跡が同家の本城にふさわしく、護国寺はその南側の谷筋に存在することから、居城と菩提寺の関係を想定することができる。

正戸山(しょうとやま)城跡

ここまで来たら是非訪ねたいのが亀山遺跡から一キロ西に位置する御幸町の正戸山城跡である。同城跡は比高わずかに四・五〇メートルに過ぎないが、眼下に旧山陽道が通り、正に戦略的な要衝を占めた城塞である。

山頂に立つと神辺平野は一望の下で、曲輪の跡も三段ほど残っている。南北朝時代には備後守護岩松頼宥の居城として現れる同城だが、戦国時代には宮氏の拠城の一つとなり、毛利勢の攻撃を受け落城した。乱世に思いを馳せながら帰路につくのも悪くない。ここからJR福塩線万能倉駅まで徒歩十分である。