2001年04月17日

ある神宮寺の歴史を探る―八幡山宝寿院の場合―(福山市千田町)

備陽史探訪:88号」より

出内 博都

大陸文化(技術・思想・宗教)が組織的・公的に流入してくる古墳時代以降、それは古代国家の形成や政治機構の仕組みと深く関わってきた。とくに仏教は、当時は氏族独自の氏神を精神的中核とした氏族社会であっただけに、その受容には種々のトラブルがあったと想像される。すなわち、新しく受け入れた仏法においても、あくまでも在来の氏神崇敬と同じように氏族の安寧・幸福を守るものでなくてはならなかった。しかし仏法は必ずしも氏族に限定されないもっと普遍的な宗教である。ことに氏族社会から統一国家へと発展しようとするとき、在来の氏族信仰も国家的性格をもつ必要がある。

こうした歴史的要請が西暦五八七年の蘇我・物部の戦いであり、聖徳太子の仏教政治(篤く三宝を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何の世、何の人か是の法を貴ばざる)である。

こうして正式に受容された仏教は、奈良時代になって国家が中央集権的に統一されたように、東大寺を中心に国ごとに国分寺を建て、仏法の尊崇と国の政治が一致した形になった。こうした中から古来の神々をもって仏法守護の神と説き、神々は仏法の功力によって救われるというようになった。ここに「神仏習合」の考え、やがて「本地垂逃説(ほんじすいじゃくせつ)」が生まれてきた。これらの思想を形に表わしたものの一つに「神宮寺」がある。

本地垂述説は仏・菩薩が人々を救うために様々な神の姿をかりて現れるという教説である。日本では東大寺の大仏建立を発願した聖武天皇が、橘諸兄を伊勢神宮に遣わしてその成就を祈らせたところ、「日輪は大日如来也、本地は慮舎那仏也」という夢告を受けたと記しているが、この教説は平安時代中期以降一般に広まる。

仏教伝来後、神は衆生と同じく煩悩に沈んでおり、仏の力で救われるという教えが広まり、神は仏になるための修業の過程にあるものと説明された。こうしたことから全国に多くの神宮寺が建てられた。また延暦二年(七八三)八幡神に大菩薩の号が奉られた。八幡神の本地仏は阿弥陀仏、天照大神は大日如来または救世観音などとされ、多くの神社は本地仏・菩薩を決めて本地堂を建てた。

しかし、鎌倉時代中期以降、伊勢神宮の神官度会(わたらい)氏によって神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)神道が説かれた。室町時代に入ると、吉田兼倶の吉田神道によって神を根本とし、儒、仏を枝葉、花実と説く根葉花実論(こんようかじつろん)も出た。いずれにしても、庶民には神も仏も習合した信仰が根付いていった。明治維新後に政府による神仏分離令、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって今日の姿となったのである。

神宮寺

神祇に仕える目的から神社に付属して営まれた寺院。神願寺・神護寺・神供寺・宮寺ともいう。

文献上の初見は『続日本紀』文武天皇二年(六九二)の「多気大神宮寺を度会郡に遷す」とある。神宮寺建立の背景には、はじめ仏法の力で神が業苦から救われるという思想があったが、次第に仏法によって神の威力も増すという思想に変わっていった。宗派的には天台宗・真言宗に属するものが多い。

千田町の神宮寺については、現在無住でもあり詳しいことは判らない。一般的に神宮寺が地方にまで普及するのは鎌倉期から室町初期とみられるので、その頃であろうが、関連する神社が千田八幡神社なので、これがいつ頃できたかということと関連する問題である。

千田の人幡社は宇山八幡(春日町宇山)を分祀したと伝えられ、現在千田の字山谷にある「宇山八幡神社」が関係するとみられる。後に惣氏八幡として現在の「千田八幡神社」が建立されたと思われる(その後、再び宇山八幡が再建されたといわれている)。

春日の宇山八幡は坪生庄が分裂したとき、新中八幡社の神宝の狛犬を奉祀したと伝える神社で、元亀三年(一五七二)の棟札があり、戦国時代の歴史現象の一つとすれば、千田の字山八幡の創祀もほぼこの頃と考えられる。しかし、惣氏八幡(現千田八幡)の建築記録(『藤井家文書』)の一番古いものに「一、八幡社御普請弘治二年庄屋弥左衛門、神主嘉平」という記録があることからみて、千田(惣氏)八幡創建は弘治二年(一五五六)以前とみると、千田宇山八幡の分祀、さらに春日宇山八幡の創建は、前記(元亀三年)の棟札よりももっと古い時期になる。

いずれにしても、十六世紀初頭、中世的郷村(惣村・庄)が崩れて近世的村落が形成される時に村のシンボルとして氏神(鎮守)が祀られたものであろう。

こうした鎮守八幡の創建と神宮寺がどう関わるか、記録や伝承はない。現在、千田の神宮寺を管理されている長尾寺(東深津町)には「寛文年間宥山上人が開山し、二代宥勢上人が延宝三年(一六七五)観音堂を建立し、本山観音寺へ帰る」旨の伝承記録がある。

以下住持は、三代宥想、四代清鏡(享保二年四月二十三日)、五代快誉(享保十年十二月二十六日)、六代円浄(明和八年十一月十八日)、七代瑞忍慈周(文政十三年七月七日)、八代泰寿(弘化五年五月十三日)、九代善意(明治十四年九月十一日)、十代良道(明治二十二年三月二十二日、観音寺十六世)と伝わっている。現在境内に残っている五基の無縫塔(むほうとう)(住職墓)のうち七代慈周、八代泰寿、九代善意の三基は明瞭に確認できる。中央にある最大の塔は文字不明。右端の一回り小さい塔には「明貞法尼霊、大正五年十一月二日没」とあり、十一代は尼僧であったことがわかる(長尾寺の記録には代数の記録はない。便宜上加筆)。

以上五基の無縫塔のうち、左端の「善意上人」の塔の正面に「当山丗三(さんじゅうさん)世阿閣梨(あじゃり)善意」、裏面に「明治十四年九月十一日」「沼隈郡松永村之産」とある。「当山三十三世」という場合一世代を何年にみるか、この辺にこの寺の創建を考える一つの鍵があると思われる。前記長尾寺記録の十代で、寛文年間(一六〇〇年代後半)までおよそ二百年間とすると、一世が約二十年になる。この勘定で、「善意塔」の三十三世を考えると、六百年になる。明治十四年(一八八一)から六百年前というと、鎌倉時代中期になり、当時の歴史事情からみて千田における寺院の建立は到底考えられない。まして神宮寺として関連する神社を求めることはさらに不可能である。この三十三世は単なる誇張だろうか。世代数が他の塔にはないのにこの塔のみにあることへの疑問。この塔のみが「阿闍梨」号を記している。何が隠されているのか判らない。寺の立地条件からみると、高い石垣と土塀、背後に墓地と神社をもつ配置、中世城郭型の構え、寛文年間に創建した近世寺院とは考えられないが、結局決め手はない。

八幡社創建を一応弘治頃(『藤井家記録』)とすると、記録にある弘治二年が一五五六年で、九代善意の没年明治十四年の一八八一年からみると三二五年の開きがある。住職の一世を十年とみなければならない情勢が続いたことも考えられ、さらに一時、法灯が絶えて観音寺から入山せざるを得ない状況になったことなどを思うと、一世十年という中に戦国の雰囲気を偲ぶことができるのではないだろうか。近世寺院として在郷町横尾をもつ豊かな近郊農村千田・藪路村を教圏として栄えた歴史は、今はき山門〔子供…何かええもんくれぇ、親…ええもんは神宮寺へ行け、の俗謡を残した〕の素晴らしさ。宝篋印塔を始めとする多くの石造物などに偲(しの)ぶことができる。

神宮寺と八幡社の関係は『藤井家文書』にある次の文によってその一面を知ることができる。

 天保十三壬寅歳十一月
一、正遷宮寅四月十五日、夜八ツ時(午前一時)相済申候、それより御寺方社人御祈祷御座候而、庄屋并役人不残宮座□、同十六日昼迄○○、村方小面一日休日いたし□御□、村中樽入いたし候而賑々舗相休申候。
一、遷宮之儀ニ付文化年中修覆仕候節、観音寺より当村神宮寺へ取障申候ヲ河相保平殿庄屋中ニ而彼是取繕に成候而、神宮寺遷官之事と相成候処又候、此度修遷ニ付観音寺より遷宮之処彼是申候得供前文之通河相保平殿より取繕之事申候而掛合仕候□聊後不被申依、右以来遷宮之儀者当邑新宮寺ニ相極リ申候。

(□字読めず、〇字そのまま)

本山と末寺の権威の問題か、八幡社の遷宮という大行事はかなり微妙な駆け引きがあったようであるが、神宮寺が神社の管理について大きなな力を持っていたことが窺える。明治の神仏分離政策が徹底したもので、今日のような形になったことが知ら
れる。