備陽史探訪:80号」より

柿本 光明

福山の蔵王山麓にある真言宗大覚寺派阿弥陀山医王寺は、人皇七五代崇徳天皇が大治二年(一一二七)丁未、西国に行幸されたとき天皇、現当二世大願成就のため、勅使を以て勝地を見立て、この阿弥陀ヶ峯(蔵王山の一峯)に草創されたのが始まりで、行基作のご本尊の薬師如来と阿弥陀仏があり、当時はかなりの僧兵もいたと思われる。

天文三年(一五三三)の戦乱で、この堂宇は無惨にも焼失したが、山麓の現在地に移転再建された。しかし、江戸時代の末期に再度火災にあい、鐘楼以外は焼失、現在の建物はその後再建されたものである。この真言宗阿弥陀山医王寺と崇徳上皇とは、勅願により創建されたことなど、昔から深い関係がある。

私は今、香川県坂出市青梅町の白峰山中に立っている……。西国八十二番のこの白峰寺は、崇徳上皇の頓証寺として、建久二年(一一九一)に建てられたものである。寺の脇には崇徳上皇の御陵がある。

坂出市から車で二〇分ほど、曲がりくねった坂道を登りつめた山頂付近の鬱蒼と繁る森の中に白峰御陵の清楚な姿が見える。

崇徳上皇は、歌人としても知られている。小倉百人一首に

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

という歌がある。

保元の乱で敗れた後、上皇は讃岐に流され、およそ九年後にこの地で亡くなった。四十五歳のときである。遺体は白峰山で荼毘に付されたが、その煙は怨むがごとく都の方角にたなびいたと伝えられる。

ふと気がつくと、いつ来ていたのか住職が側に立っていた。

「あなたにはわかってもらえると思いますので」と古びた一通の文書を手渡してくれた。次の文章がその大略である。

夫敷島の道、妹背の中の詠歌を以て国の風俗みやひとなれり。是や色の重きを以てならん。此重き道を以て軽く行はるる故に、国乱れ家傾き王道廃せり。保元の乱れ色に起れり。

そは人皇七十四代鳥羽院と申奉るは堀河院第一の皇子にて座しが、堀河院世を早うし給ふゆへ鳥羽院御歳五歳にて御即位あり。其妃侍賢門院璋子は、堀河院の御父帝白河院の御猶子として入内あり。鳥羽帝御幼年なりしかば暫く御雙枕なき内、密通し給ひ、既に御身籠りのわけみえて、御幼年なから御配偶ありて後、御誕生まします。是崇徳天皇にておはします。鳥羽院も是をしろしめし、崇徳天皇は御子なからも叔父子叔父子とぞ宣ひしとぞ。此故に鳥羽白河の御中御快よからさりしが、白河院の御計らひにて鳥羽院御歳二十一にして御位を崇徳院へ譲らしめ給ふ。斯て白河院崩し給ひしかは、鳥羽院の御計らひにて崇徳院の御位を下り、程なく御子第人の宮、御歳三歳にならせ給ふ體仁親王(近衛の帝)に即位せしめ給ふなり。

偖近衛天皇御年十七歳にて、久寿二年七月十六日崩し給ふにそ。崇徳天皇御重祚と沙汰有へき處、鳥羽帝第四の皇子、雅仁親王、御位に備り給ひ、御白河天皇と申す。斯、御位の打替りぬるを以て、世には崇徳天皇の呪咀し給ふとそ沙汰しける。かかる事より崇徳天皇の御恨み一入に増り給ふ處に、久寿三年七月二日鳥羽帝崩しさせ給ひしかは、崇徳天皇、左大臣頼長と謀りて、重祚か又御子重仁親王を御位に即け奉らんと思召て、御白河帝を襲ひ傾けんと、国々へ勅宣を下され、軍士を召催し給ふ。

此乱れ開闢以来、我国にためしなき君臣上下父子兄弟立別れ御諍ひとなり、王道の綱紀乱れ、下上を軽んじ、子父を疎んずる世となりて、国初より数千万年万国に勝れて、皇統改替なき王道衰へし崩しは、重き色をもつて軽く行ひ給ひしより發り、次には国政軽く棄させ給ふ事、唯白河の水の泡とそなし給ふ。是等の古語の伝へには、鄙俗の語に、親十八に子六十と云へるを思い合すれば、白河帝は新院の御為には曽祖帝にてましませば、鳥羽帝の御為には祖帝なり。祖帝の胤を御子とし給へば、誠に親十八子六十のたとへも、此に思はるる。実に恐るべきは色なりけり。重んせすんばあるべからず。

此に宇治左大臣頼長公は知足院禪閤殿下忠実公の三男にて、和漢のオ人、御舎兄関白通忠公にも劣らぬ才人にてましませども、忠実公の御計ひにて、頼長公を内覧の宣旨あり。故に通忠公、唯、関自の名のみなり。故に御兄弟の中、是又不快なれば、是親子兄弟立別れ給へりき。左大臣も今一院隠れ給ひければ、新院の一の宮重仁親王を位に即け奉り、天下を我儘に行はやと思召、新院へ参られければ、新院仰せられけるは、

「朕、先帝の太子と生れ、万乗の尊位に備りき、然るを一旦の寵によって累代の正統を差置かれ、不慮に蠧害になられ、父子倶に沈倫の憂を抱けり。仙院御存生の間は愁欝深しと云へとも其訴る處なし。今におゐては志を忍ぶに堪へず。斉明、称徳の跡を追うて再ひ帝位に備はるか、又位を重仁親王に授けて政務に臨んか、此時に当つて世を争う事、豈神慮に背き人望に背ん哉。此事如何」

とありければ、左大臣殿、

「天の与ふる所を取らざれば郤て其咎を受く、時の至るを行はざれば郤て其禍を受くと云へり。旧院崩御御なりぬれば時の至る事をしる。此時如何なる事をも思召立せ給はずは、いつをか斯しまし斯しまし侍ふヘき」

然るべきよし申されければ、子細に及はず御謀叛の事、思召定られける。内裡にも此由聞こえければ、同しき五日参る人々には、下野守義朝、陸奥判官義康、安芸判官基盛、周防判官季実、隠岐判官維繁、平判官実俊、新藤判官助経等、高松殿に参りてけり。斯て中納言入道信西を以て彼趣意を仰られ、関々を固むベき由被仰下。

義朝、義康は内裡に候し、其外の者共は皆諸所へ馳向ふ。基盛は宇治路へ向ひけるが、大和源氏宇野七郎親治三十余騎にて院参す。基盛相向つて支へ留む。宇野七郎打破つて通らんとすれども小勢にて叶はす、終に生捕られぬ。

基盛斯と奏しければ、頓て正五位下に叙せらる。斯て十一日には新院田中殿より白河殿へ移らせられ、六條判官為義を召さる。為義辞し申しけれ共、再応に及んで子息四郎左衛門頼賢、掃部介頼仲、加茂六郎為宗、七郎為成、鎮西八郎為朝、源九郎為仲、已上六人の子供倶して参りける。

其外、左大臣頼長公、左京太夫教長卿、近江中将成雅、四位少納言成高、山城前司頼資、美濃前司保成、備後権守俊通、皇后宮権太夫師光、右馬権頭実清、式部太輔成憲、蔵人太夫経憲(中略)此外兵庫頭頼政に相従ふ兵には渡辺省播磨次郎、授薩摩兵衛、続源太、与右馬允、競瀧口、丁七唱等、都合三百余騎、佐渡民部大輔重成、百余騎。陸奥新判官義康百騎。出羽判官光信百騎。周防季実五十騎。隠岐判官惟重百騎。平判官実俊七十騎。新藤判官助経五十騎。和泉左衛門尉信兼八十騎。其勢都合四千五百余騎なり。

新院の御方には為義を召て御相談ある。為義は此御所を出て南都に越へ、若叶はすんば東国へ趣んと云ふ。左大臣殿聞給はず。内裡には義朝が謀にて夜討を議しける。白河殿には鎮西八郎為朝すすんで夜討を勧む。是又左大臣殿聞き給はず。ひかへ居ける處に、官軍数千騎、寅の刻より押寄ける。

重盛先陣に進む。為朝此を破る。義朝も押寄せ、しばしば戦ひけれども、為朝一人を破る事は克はず。故に義朝西に廻って藤中納言家成卿の宅に火をかけたり。折節西風烈しく猛火夥敷、院の御所へ吹掛けれは、院中大きに騒き立、為朝の大矢も甲斐なく、諸勢散々に成りければ、新院は御馬に乗り給ふを、四位の少将後に乗て抱き奉り、北白河へと落給ふ。左大臣殿は流れ矢に当り給ふを、落行道の小家へ入れ奉り療治しけれとも終に叶はず売し給ふ。新院は馬にたまらせ給はず、歩行にて諸臣御腰をおし奉りけれとも、ふみならはせ給はぬ道なれば脳(悩)ませ給ふ事甚しく、漸く如意山に入らせせ給ひ、是迄従ひ奉りし輩に御暇を給はりければ、諸士皆命は君に奉りしものを、何国迄も従ひ奉るべしと申しけれ共、強て御暇を賜はりけれは、諸勢はちりちりになりにけり。

夫より新院は如意山にて御出家ありて、御室を頼み参らせて入らせ給へば、御門主より寛遍法務に入れ奉り、此由を内裡へ奏聞有りければ、佐渡式部太輔重成を遣はされて守護せしめ給ふ。新院御心憂さの余り、斯こそ思ひ続せ給ひける。

思ひきや、身を浮雲と、なしはてて、あらしの風に、まかすへしとは。

うき事の、まとろむほとは、忘られて。さむれは夢の、ここち社すれ。

偖も新院の御方人は或は出家し降参しけれは、武士共は悉く誅せらる。殿上人は所々へ流されて、新院は讃岐へとぞ聞えける。同しき七月二十二日、蔵人左弁資長、綸言を奉て仁和寺へ参り、明る二十三日新院を讃岐の国に遷し奉るへきよしを奏聞す。

新院日来より如何なるへき身の有様やらんと思召けれとも、出家しけるうへは、さしも罪深かるへきとも思ぼさず、都近き山里にこそ押籠められぬらむと思召しけるに、遥々と八重の潮路をかきわけて、船路の波に御袖を浸させ給はん事、御心細く思召しける余りに、斯こそ口つさみ給ひける。

都には、今宵はかりぞ、住の江の、きしみちおりぬ、いかでつみ見ん。

新院の一の宮重仁親王も出家して嵯峨に御座す由聞召、何處にても逢ひ参らせ度思召せども叶はず。明れば二十三日夜深きに仁和寺を出させ給ひ、美濃前司保成が車に召さる。佐渡式部大輔重成が郎等共、御車をさし寄せて、先、女房達三人を乗せて、其後仙院召されけれは、女房達声を調(揃)へて泣悲み給ふ。軍兵上下三百人にて車の前後を囲み往く。夜もほのほのと明け行けは、鳥羽殿を過きさせ給ふとて重成を召され、

「田中殿へ参りて故院の御墓所を拝み、今を限りの御暇乞を申さんと思ふはいかに」

と仰下されば、重成畏つて

「安き御事にて侍へ共、宣旨の刻限移り候ひなば、後勘如何」

と恐れ申ければ

「成程汝か痛み申すも理りなり。さらは安楽寿院の方へ御車向けよ」

と仰せられければ。則ち牛を外しつつ其方へ押向け奉れば、唯御涙にむせび給ふより外はなし。

暫くあつて鳥羽の南門へ遣り出す。讃岐国司の奉行、御船並武士両三人を設ふけて、草津にて御船に載せ奉る。

「重成も讃岐迄御供可申」

と仰せられ共、固く辞し申て御暇を給はり帰りにけり。

新院も御心細く思召、重成に仰せ下さるるは、光弘法師に必す讃州まで参るへきよし御言伝あり。光弘は去る十七日の夜斬られけり。御存じなき故と思ひしかど、畏入候由御請申けり。

扨、御船に召され、後、四方に板打付け、外より鎖をさす。供御など進らすより外は輙く開く事なし。是を見奉る者は申に及ばず、怪しの賤の女、猛き武士迄も袖を絞らぬはなかりけり。

道すがらも墓々敷御膳も参らせず、打解て御寝もならず、御歎きに沈み給へば、御命も保たせ給ふとも覚えず、月日の光りも御覧せぬ。唯烈しき風、暴き波音計り御耳の底に留りける。急がぬ日数を積るにも、都の遠ざかり行程を思召せられて、一の宮御行衛も如何あらんと覚束なく、又合戦の日、白河殿、姻の中より迷ひ出し女房達も、何国にありとも聞し召さず、唯生を隔てたるも是ならめと思召つつけ給ひ、先世の宿業こそ墓なけれと悲み給ふ。

漸く讃岐に着給ひしかども、国司いまだ御所を造り出さされは、当国の在庁散位高季といふ者の造りたる一宇の堂、松山と云ふ處に有しを御所とし、是へ入れ奉りて巌敷番をぞ勤めける。

扨新院は八月十日御下着のよし国主より御請文到来す。暫く松山に御座ありけるが、当国志渡の浦、真嶋(直島である)といふ處に御所を作り、陸路より押渡る所二町計にして、田畑もなければ土民の住家もなし。実に興遠き處なり。方一町にたらず、築地を築き、中に家一ツ、門一ツを建て、外より鎖をさし、供御参らする外は人の出入有へからす。

仰せ出さるることあらは、守護の兵士承つて目代に披露せよとそ仰下さる。左あらでだに、ならはぬ鄙の御住居は悲しきに、是は又極罪人の獄窟に斉しき所なれは、御涙より外は夢もなし。定て亡郷の鬼とならんと思召、偏に後世の御為とて、五部の大乗経を三年が程に、御自筆に遊はし、遠国に捨置ん事も不便に候。御免候者、都のほとりに納め度よし。御室法親王へ憑み遣はされ、奥に一首の御製あり。

浜千鳥、跡は都に、かよへとも、身は松山に、音をのみぞ啼。御室の御所、御涙を流させ給ひ、関白殿へ様々執し申させ給ひしか共、信西、御身は配所に留め給ひ。御手跡計り都に還入し給はん事、忌々鋪覚え候。其上如何なる御願にて侍らはん。覚束なしと申けれは、主上御許されなかりける間、力及はせ給はず。新院是を聞召、

「口惜き事哉、我朝に限らず、天竺、震旦国に至る迄、位を争ひ国を望みて兄弟合戦を致し、叔父姪乱を起すためし、昔も今もならひある事なれとも、時移り事去つて罪を謝し咎を宥めらるるは王道の恵みなり。况んや出家入道して菩提の為に仏経を読誦するは、皆許されてこそありしが、後世の為にとて書写し奉たる経の置所だに、をしませらるる事、扨は後世迄の敵ぞかし。然は我生て無益なり」

とて、其後は御髪をも召されず、御爪をもはやさせ給ひて生ながら大天狗の姿にならせ給ふぞ浅ましき。

此事都へ聞えしかば、御有様見て参れとて、平左衛門尉康頼下し遣はさるる。康頼、嶋に渡り、御使いとして参りたるよし奏し申しければ、近く参れと仰せらるる。康頼、障子を明て見参奉れば、御髪、御爪永々としてすけす(すけ)かへりたる柿の御衣に、御顔の色も黄ばみ、御目も窪く痩衰へ給ひて、荒けなき御声にて、

「我違勅の罪によつて譴る事(る事二字愆か)遁ひ難くして、既に大罪の法に伏す。然りと雖も、今においては恩謝を蒙るへきよし強て申と云へども、敢て御許容なき間、志の忍ひ難き余り、不慮の行を企る」

との勅定なり。

康頼承りて身の毛もよたつて、すさましかりければ、一言の勅答も申得ず、急き退出してけり。新院御書写の経の事畢りしかは、御前に積み置せ給ひ、御祈祷ありけるは

「我大罪に行はれ愁欝浅からす。速に此功力を以て彼咎を救はんと思ふ。莫大の行業を三悪道投込、其力を以て日本国の大魔縁となり、王を取て民となし、民を王となさん」

とて、御舌の先を噛み切り、血を以て大乗経の奥に御誓状を書付給ふて、海岸に出御ありて、

「願くは上梵天帝釈、下堅牢地神に至る迄、此誓約に合力し給へ」

とて海底に沈め給ふ。

斯て九年を経て、長寛二年八月二十六日、御年四十六歳にて真(直)嶋の御所にて崩御ならせ給ひけり。

扨、白峯と申す處にて畑となし奉る。其烟りは都の方へなひきける。彼の一の宮は御出家あつて後、花蔵院法親王空雄と申す。

新院崩御の事、都へ聞えしかば、御服奉られけれ。法親王御涙を押て。

うきなから、其松山の、形見には、今宵そ藤の、衣そきる